契約の成立―アプシュルス―
全身が震えあがるような衝撃――
フィーネは振り返り、瞬時にテラスに向かって走り出す。
フィーネがテラスの扉を開けた瞬間、
柵の上に立った、
背の高い、
彫像のように美しい、
ドルチェの身体が、
ふわりと宙に、大きく舞った。
フィーネの中の全てが止まる。
その一瞬は永遠のよう。
飛び立つドルチェの少しだけ見えた横顔には迷いはなく、
いつものように美しく、
静かで、微笑んでいるようにすら見えた。
フィーネは、全速力で走りながら叫ぶ。
「オクタヴィア・ドルチェ!」
赤い髪は逆立ち、青い瞳は炎のように輝く。
「『いつかきっと、共に生きる』
――テメェの申込みを、
俺、フィーネ・ダ・カーポは承諾する!」
フィーネの全身から広がる黒い茨の蔦が一瞬で辺りを覆う。
「なお、『いつかきっと』は『今から』を指すものとする――」
タトゥーが広がり、黒光りする身体に変化したフィーネは、
テラスの柵の上に飛び乗った。
一本の黒い茨が、下から浮き上がってくる。
その茨の先は、ドルチェの左胸に突き刺さっているが、
ぐったりとなった彼の身体を優しく巻き取って、
フィーネの前に差し出す。
ドルチェを見たフィーネは、
青い目をキラキラと潤ませた。
「――間に合った。」
柵の上に立ったままドルチェを抱き取ると、茨は消えて行く。
「この契約は、
――【成立】だ。」
フィーネはドルチェをきつく抱き締め、
白髪に顔を埋めて、頬をこすりつける。
そして、腕の中で気を失っているドルチェの顔をじっと見つめてから、
優しく、宝物のように口づけをした。
***
朝の庁舎玄関は、騒然としていた。
一昨日、暴漢に襲われて失明したドルチェ所長代行が登庁したからだ。
しかも、フィーネの腕を支えに白杖をついて歩いている。
周囲は職員の歓声ともすすり泣きとも言えない声で溢れかえる。
ドルチェはフィーネに何かを囁くと、玄関ホールの中央で立ち止まる。
「皆さん、ご心配をお掛けしましたが、
私はこの通り、元気です。」
目に包帯を巻いたその姿は、元気とは程遠いが、
「ああ、説得力がありませんね。」
軽く肩をすくめる声には張りがあり、茶目っ気に溢れている。
ホールは笑いと涙に包まれる。
「仕事を辞めざるを得ないと一瞬考えました。」
「何が一瞬だよ、飛び降り……ムゴ!!」
見えていないのに、ドルチェのハンカチは的確にフィーネの口の中に突っ込まれる。
「私は身体が大きいし、所長代行は多忙。
適切な介助者はいないと思ったのです。
しかし、ハッと思い出しました。
――我が庁舎には、図体が大きくて無駄に元気な男がいたことを。
――ああ、そうです。
こちらの童貞です。」
「黙れ!テメェがチュ……ムゴ!!」
ホールは笑いに包まれる。
「この男に、私の介助と仕事の補佐をさせることになりました。
ご存じのとおり、この赤犬、仕事は有能ですから、すぐに調教できるでしょう。
代行業務もすぐに円滑になります。
皆様ご安心ください。」
ホールに温かい拍手が沸き起こる。
ドルチェは音の方に身体を向けて会釈をしたが、そのはずみでフィーネにぶつかり、
白杖を取り落とした。
「いやいや、朝から眼福、耳福。」
転がる白杖を拾い上げたのは、葉巻をプカプカと吸っているレジェロ所長。
白杖をドルチェの手に握らせて、さらに両手で握手をする。
フィーネがドルチェとの間に割って入ろうとする。
「まあまあ、忠犬ちゃん。すぐに返すから、ね?」
葉巻の煙を吐きながら上機嫌でレジェロは職員たちを見回す。
「みんな、安心しなよ。
我らがドルチェ様は代行留任。
いやあ、もう、怖い赤鬼に所長のハンコを握られて……」
レジェロは、自分を睨みつけるフィーネを面白そうに横目で見る。
「……も、僕は解任のハンコを押しませんよ?
ねえ、ドルチェ君は我が庁に必要な人物――そうでしょ?」
賛同の声と拍手が沸き起こる。
「そして、こちらのカーポ君、
知ってのとおり、代行とは、素晴らしい取っ組み合いをする仲だ。
で、本日付で、市民課から代行室に異動し、代行補佐に着任したんだ。
今後、みんなは、この二人が並ぶ姿をいつでも見られる。
最高の福利厚生だよ!」
ドルチェは苦笑しながら立っているが、
フィーネはドルチェが楽なようにそっと後ろから支える。
レジェロはチラリとその姿を見ると、二、三歩歩き出したが、ピタリと足を止めた。
「そうだ、フィーネ君はね、新たに発足した都市計画課の課長を兼任することになった。」
フィーネは目を見開く。
職員たちはどよめく。
「え……?どういう……」
面食らったフィーネの顔を見ると、
溜飲が下がったという顔でレジェロはニヤリとする。
「さあさあ、この新しい朝を祝して、いつも通り住民ファーストの業務を始めよう。」
レジェロはそのまま外の馬車に向かい、
職員たちは、笑いさざめき、それぞれの持ち場に散っていく。
フィーネはドルチェと共に、廊下奥の昇降機に向かいながらヒソヒソと囁く。
「なァ、都市計画課とか課長とか、どういうことだ?」
「フフフ……驚いたか?」
「ハァ?!テメェ知ってたのか?」
「当然だ。私は代行だ。職員の人事は把握している。」
「待て待て待て待て!レジェロは敵……」
チーンと音が鳴って昇降機が開き、二人で乗り込む。
「敵も懐に入れてこそ役人だ。覚えておけ、小役人。」
昇降機が閉まると、フィーネはドルチェを壁に押し付けて、耳元で囁く。
「やっぱりスゲェな。俺のご主人様は――」
「私ではないよ。
すごいのは、貴様がずっと書き溜めていた計画案さ。」
チーンと音が鳴って、昇降機の扉が開く。
「さあ、溜まった仕事を片付けて、
今日こそは、貴様の家でファルファッレを茹でよう。」
「おん?馬車を呼ぶのか?」
「ハッ!課長になっても考えは小役人だな!
走るに決まっているだろうが。」
「ハァ!?危ねェだろうが!」
「そんな肝っ玉だから童貞なんだ!」
「その童貞を奪おうとしてんじゃねェか!」
「ああそうだ、何が悪い!」
「強ェな!開き直ったクソ白髪は!」
「なんだと、貴様は私の従者だろうが!」
「ハイ、主人の横暴、解除事由に該当、契約解除!」
急に沈黙が訪れる。
ギクリとしてフィーネがドルチェを見ると、ドルチェは唇を噛みしめている。
「あ、今のは言い過ぎて……」
「そんなに弱いのか、この絆は……」
「いや、待て……」
包帯からじわりと涙がにじむ。
「私は貴様を下僕だとは思っていない。貴様がそういう風に契約を……」
「アァ――泣き虫の代行ってなんだよ!」
大騒ぎで代行室に入ると、フィーネは早速顔を近づける。
が、ドルチェは思い切り額をフィーネの顎にぶつける。
「ってェ!!!」
「仕事の場は聖域だ。チュー厳禁。
ケツ揉みもナシ。」
「真面目か!!!」
そのとき、ノックの音が聞こえて、
「代行!こちらの書類を……」
「本日の予定は……」
と多くの人々の声が聞こえる。
フィーネは笑ってドルチェを見たが、
包帯をした目を見ると一瞬唇を噛み、背中を勢いよく叩いた。
「ホレ!始めようぜ!!」
ドルチェは満面の笑みを浮かべて、
美しい声を張り上げた。
「どうぞ、お入りください!」
フィーネは「順番!いい子で並んでな!」と、扉に向かう。
ドルチェはそっとポケットに手を突っ込んだ。
その手には小さなシルバーのリングがある。
「Ai tuoi occhi」
ドルチェは小さくつぶやくと、またポケットにリングを押し込んで、
優雅な微笑みを浮かべ、
背筋を伸ばし、前を向いた。
9月16日完結予定です。後半は恋愛描写も濃くなり、二人の身体的な関係も進展します。
『十二支の鼠の少年王は猫を愛したい』も連載中です。
全133話、完結まで執筆済み。毎日更新予定。




