鈍感災害
庁舎に戻り、アドルフを地下留置室で待ち構えていた人間に引き渡すと、
フィーネは、コーンコーンと足音が響く暗い廊下を抜け、昼間にいた執務室に向かった。
誰もいない部屋の電気をつけ、煙草に火を付けると、
フィーネは黙って仕事を始める。
と、軽やかな足音が聞こえてくる。
「フィ、フィーネ係長!」
昼間の事務の若い女性だ。
「おん?クララ、忘れモン?」
「あの…係長が、夜に戻って来て、お仕事してるの……
私、知っています。
差し入れを持ってきたんです。」
クララの顔は、真っ赤に茹で上がっている。
しかし、フィーネは、差し出された籠を横目で見ただけで、
「俺、さっき食ったし、自分で食べちまいな?」
と仕事の手を止めない。
あまりに取り付く島もない対応に、クララはグッと唇を噛む。
「フィーネさんのために、作ってきたんです……」
フィーネは、ようやくクララに目を向ける。
「俺?――心配すんな。
あの白ネズミにやられてクサクサする俺じゃねェ。」
そして、また書類に目を落とす。
「ホレ、帰れ。
それはクララの弟たちに食わしてやんな。」
クララは涙を堪えて顔を歪めたが、黙って立ち去ろうとした。
「クララ。」
その声にクララがハッと振り返ると、
書類に目を落としたまま、フィーネが飴を一つ差し出している。
「さっきおまけでもらった。やる。」
クララは飴を受け取ると、唇を噛み締めて、逃げるように去っていった。
*****
「罪作りも、ここまで来ると災害だな。」
「ウォワ!!!」
驚きのあまり、フィーネは椅子から転げ落ちる。
「誰が白ネズミだ?」
「馬鹿じゃねェの?お前しかいねェだろ。
しかも盗み聞きかよ、趣味悪ィ。」
「馬鹿はお前だ。
目の前で堂々と聞いていただけだ、小役人が。」
フィーネは立ち上がるとドルチェを睨みつける。
「どこにいたってんだよ。嘘つきは泥棒の始まりですよ、白ネズミ!」
「嘘ではない。その綺麗な青い目は飾り物か、役立たずが。」
その瞬間、フィーネは凄まじい蹴りをドルチェに繰り出した。
ドルチェは即座に防いだが、身体をよろめかせ、口唇の端から血が滲む。
フィーネは目を見開いた。
(防いだ……俺の蹴りを……
それに気配も完全に消せるなんて……なんだ、コイツは……)
「口喧嘩しても手を出したらおしまいだと、
ママから教わらなかったのか?」
ドルチェは、ハンカチで品よく口元を拭いながら、
ネクタイを締め直す。
「足を出したので、問題ありません、クソ高官殿。」
フィーネは、ドカッと椅子に座る。
「目障りだ。出て行け。
中央に帰れ。
俺の首を切るなら、さっさと切れ。
そんでママのお膝に帰れ。」
「私もこんな寂れた場所から、花の都に帰りたいさ。
残念ながら、貴様の首を切るか切らないか、一応調査が必要なのだ。
しかも、面倒なことに、文書にしなければならない。」
「イリアスでも書いとけよ。
誰も読まねェんだから。」
「叙事詩は公用文を使っていないから、
却下だ。」
フィーネはクッと吹き出しかけて、
必死に書類に顔を埋める。
「やれやれ、あと数日はここに滞在する。
貴様の話だけでは、
――ないからな。」
ドルチェは紫の瞳をフィーネに注いだが、
フィーネは顔を上げない。
と、ドルチェはスッとフィーネに顔を寄せた。
「おい、いい娼館を紹介しろ。」
「はァ?」
フィーネは、思わず口から煙草を取り落とす。
「貴様の調査にはうんざりだが、折角の機会だ。
この地方の女性を味わって帰りたい。
――貴様も分かるだろう?」
フィーネは目を逸らす。
「お前みてェな白ネズミに食わせる娼館なんかねェ!」
「ほぅ……」
ドルチェは紫の瞳をスゥッと細め、フィーネを見下ろした。
「貴様、童貞か。」
「うるせェな!!!ワリィかよ!!!」
耳まで赤く染めたフィーネは、飛び上がる。
「なんだよ、お前結局、何しに来たんだよ!」
フッとロウソクの火が消されたように、
ドルチェは口をつぐんだ。
そして静かにフィーネを見つめる。
フィーネにぶつける罵詈雑言とは裏腹に、
その紫の瞳は静謐で、深い色を湛えている。
――このドルチェという人間を「いい男だ」と認めない人間は、
世界のどこを探してもいないだろう。
見惚れてしまったことに気付き、フィーネは慌てて書類に目を落とす。
「――悪かったな。
貴様をからかいに来ただけだ。」
その言葉に驚いたフィーネが目を上げると、
もうドルチェは、白髪を撫でつけながら、音もなく扉に向かっていた。
「せいぜい職務に励め、鈍感災害。」
扉が閉まるのを、フィーネはただ、
呆気にとられて、見送るばかりだった。




