俺の光 (第Ⅰ章完結)
虫の音、
風の音、
木の葉が揺れる音、
唇を吸う音、
吐息が漏れる音が、
林に吸い込まれて行く。
ドルチェは、身震いをした。
自分に突き上がって来た衝動を、明確に認識したのだ。
それはもう、言い逃れなどできないほど、身体の変化となって現れていた。
フィーネは、背が高い男。
強靭な肉体を持つ男。
はねっ返りで、口が悪い男。
股間を平気で蹴る、
美しい青い瞳を持つ、
――男だ。
それでも、ドルチェは、憑りつかれたようにフィーネの眼鏡をそっと外し、
睫毛を触れ合わせるように、目を近づける。
フィーネの潤んだような眼差しがドルチェに向いた瞬間、
ドルチェの身体中の血が沸き立った。
「ああ、フィーネ……!」
ドルチェは熱い吐息で囁いた。
「寝室に行こう、フィーネ。」
***
次の瞬間、ドルチェは突き飛ばされていた。
フィーネは目を見開いてドルチェを見つめたが、掠れる声を上げた。
「テメェ……今、何を……」
「寝室に行こうと言ったんだ。」
「それは、どういう意味だ……」
「フィーネ。」
ドルチェは立ち上がって、フィーネの隣に片膝をつく。
そして、その狂おしく滾る紫の瞳をまっすぐフィーネに向けた。
フィーネは顔を背けて、固く目を瞑る。
「フィーネ。
私は貴様と抱き合いたい。
私は、貴様を……」
「ハッハッハッハッ!!!」
急に、フィーネは高笑いすると、飛び上がるように立った。
ドルチェは不意を突かれて茫然としている。
「悪魔の手にかかりゃ、
中央のエリート高官様もチョロいもんだな?」
フィーネはニタリと笑った。
「Signore、こんなところで竿立てて、どうなさいましたか?
男相手ではネズミ算はできませんよ?アハハ!」
「貴様……どういうつもりだ……」
「悪魔のお遊びだよ。
中央から澄ました顔して来たエリート官僚様が、
何日目で俺に堕ちるかっていうゲーム。」
ドルチェの顔からみるみる血の気が引いていく。
「じゃあ、これまでのことは……全部……」
「ハイハイ、もう窓口は終了です。
悪魔のゲームも終了。
とっとと消え失せろ、でべそ野郎。」
ドルチェはしばらく黙ってうつむいていたが、急に「フフフ……」と笑い出す。
「何だ?テメェ……」
「いや、まさか、互いに化かし合っていたとはな。」
「ア?」
ドルチェは立ち上がると、サラサラと流れる白髪を掻き上げた。
「田舎に出張なんてつまらんと思っていたら、
よく聞けば、調査対象は男の悪魔――」
ハンカチで品よく、服の土を払う。
「もう女は飽きるほど抱いたし、
そろそろ珍味も味わいたいと思っていたところだ。
で、この出張の間に貴様を抱けるか、賭けをしていた。」
今度はフィーネが紙のように青ざめた。
「まあ、貴様は私を堕とせなかった。
私も貴様を抱けなかった。
この化かし合いは、恨みっこなしの引き分けだな。」
「クソ野郎……とっとと消え失せろ。」
「貴様に命令権限はないが、消えるとしよう。
たくさんお誘いを頂いている。
今夜も明日も、泊まる場所には事欠かない。」
ドルチェは冷え切った紫水晶のような瞳をフィーネに向けた。
「今後も、せいぜい田舎で職務に励め。小役人。」
そして、フィーネに背を向けると、ドルチェは振り返りもせず、大股で庭を出て行った。
***
庭に取り残されたフィーネは、しばらくすると、
ぐらりとよろめいて、膝をついた。
膝の下で、ぐにゃりと嫌な感触がする――眼鏡だ。
取り上げると、案の定ひびが入り、大きくひん曲がっている。
(心臓がないのに、なんでこんなに胸が痛ェんだ。)
俺と食べるサンドイッチを買って、
約束を守って、
走って帰って来て、
俺と草むしりして、
俺のことを心配して、
俺の名前を何度も優しく呼んで、
目を見せろと懇願して、
――これが、アイツが言うような、「賭け」なのか?
アイツがそんなことをするはずがない。
アイツは、本当は、
真面目で、
優しくて、
誠実だ。
アイツが「真面目で、優しくて、誠実」であることを許さないほど、
周囲はアイツに期待をかけている。
有能で、余裕で、美しくあることを求めている。
真面目で、優しくて、誠実なアイツは、
いつも、その通り振舞って、
静かに傷ついている――心に復讐を抱えたまま。
俺は、そんなアイツをめった刺しに傷つけたんだ。
「賭け」などと、嘘を言わせるほど。
そんな嘘をつかないと、アイツが、アイツ自身を保てないほど。
フィーネは、サンドイッチの紙袋が転がっているのを目にすると、
力なくそれを拾い上げた。
よろめくように家に入ると、紙袋を机に置いて、椅子に座り込む。
機械的な仕草で紙袋を開くと、赤いリボンが見える。
引っ張り出すと、赤いリボンがかけられた分厚いサンドイッチの包みに、
「Ai tuoi occhi」と走り書きされていた。
――ドルチェの字だ。
それを目にした瞬間、フィーネの唇がどうしようもないほど震え出した。
「バカじゃねェの?
――あの不愛想なパン屋の親父に、リボン掛けさせたのかよ。
ハハ……ハ……クソだせェな、アイツ……」
溢れ出る涙がサンドイッチの包みに滲む。
「走ってるから……ハムもレタスもはみ出てんぞ。バーカ。」
サンドイッチを頬張ったフィーネの目に、机に置かれた小さな瓶が映った。
ドルチェが飲んでしまった、あの林檎酒だ。
とうとう、フィーネは顔を覆った。
顔を覆う手の隙間から、涙と、別れの言葉が漏れ続けた。
「さようなら……
ドルチェ、
さようなら、
――――俺の光」
完結済長編『神鼠の大王は猫を愛せない』も公開しています。
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