名前を呼び合った二人
庁舎に近い高級ホテルのホールでは、
盛大なセレモニーが開かれている。
今は、立食の懇親会の真っ最中。
美貌で、中央官庁の若きエリートであるドルチェは、
多くの人に取り囲まれて、優美な笑顔を浮かべていた。
ホール前の廊下に駆け込んできたフィーネは、
絨毯につまずきながら、入り口のホテルマンに詰め寄る。
「アイツ……は、いるか?」
背筋を伸ばしたホテルマンは、百戦錬磨の落ち着きで、
「お客様、「アイツ」様のお名前をお教えください。」
と頭を軽く下げる。
フィーネは、何とか唾を飲み込んで、絞り出した。
「綺麗な……スゲェ綺麗な……男の……」
「ドルチェ様ですね。お呼びしましょうか?」
聞き終わらないうちに、フィーネは正装の人々がさざめくホールに飛び込んだ。
広いホールには何百人と人がいる。
フィーネは人の間を縫うように走る。
(飲み物に毒か?
この中の誰かが命を狙っているのか?)
早く、早く、一秒でも早く!!!
奥の方の人だかりの中に、頭一つ抜けている人物がいる。
――ドルチェだ。
「おい、大丈夫か?」
フィーネは声を上げる。
ドルチェは気付かない。
人が多くて近づけない。
周りの人々がひそひそと指を差し、
ホテルマンたちが急いでフィーネを止めようとする。
「お客様、ここは……」
「おい!白ネズミ、生きてるか?」
ドルチェは、誰かに呼ばれたのか、
フィーネに背を向ける。
――ダメだ。
(貴様の力を止めようとしたんだろうが!!)
怒りで紅潮する顔。
――ダメだ。
(貴様の目は、美しい。)
優しく頬を包む手。
とうとう、フィーネはその名前を叫んだ。
「ドルチェ!!!」
ハッとしたように振り向く白髪の男。
「ドルチェ!!!」
驚いて見開かれる紫水晶のような瞳。
ドルチェにようやくたどり着いたフィーネは、
正装した涼やかなドルチェの手首を掴む。
「おい、出るぞ。」
「な、何だと?」
しかし、ドルチェの手首を掴んだまま、人込みに突っ込んで、
近くの扉からホールの外に出る。
「貴様……気でも違ったか!おい!止まれ!」
フィーネは、呼び掛けるドルチェの声には耳を貸さず、
廊下の片隅まで来ると、ドルチェを壁に追いやり、周りを窺う。
「どうしたんだ!答えろ!」
しかし、振り返ったフィーネの、
燃え上がるような青い瞳に飲まれて、ドルチェは言葉を続けられなかった。
「何かおかしなことはないか……身体でも、なんでも。」
「何もない。普通だ。貴様と走り回ったくらいで私は疲れない。
そんな心配は……」
「違う……違うんだ。
でも、いい。テメェに何もないなら。」
フィーネはうつむいた。
汗がしたたり落ちて、廊下の絨毯に染み込んでいく。
「怪しい奴がいないか確認したら、俺は役所に戻る。
――ここでは、何も口に入れるなよ。」
フィーネはうつむいたまま、ドルチェに背を向けて歩き出した。
「おい、待て!」
ドルチェは歩み寄って、フィーネの腕を掴む。
「どうした……何があった。」
フィーネは怯えたようにドルチェから目を逸らし、首を横に振る。
その、暗い穴に取り残されたような不安げな表情を見たドルチェは、
もがくように手を伸ばし、
土気色のフィーネの頬を両手で包んだ。
「私を見ろ。
貴様の目を、私に見せろ。」
フィーネは目を逸らしたまま、黙って唇を噛んでいる。
「フィーネ?」
思いがけないほどの優しいドルチェの声色に、
フィーネはハッとして顔を上げた。
その瞬間、二人の形の良い鼻先が触れ合った。
ドルチェの手は、フィーネの頬をまだ包んでいる。
ドルチェは、フィーネの冷たい鼻先を自分の鼻先で何度もつつき、
青い瞳をじっと見ながら、静かに囁いた。
「私は大丈夫だ。
フィーネ、私は大丈夫だから。」
一瞬、血も涙もないはずの悪魔の目が、潤んだように輝いた。
少なくとも、ドルチェにはそう見えた。
「ドルチェ……」
掠れる声でフィーネが呼ぶ。
「テメェはあと何日、ここにいる。」
「今日を入れて二日――明後日の昼前の汽車に乗る。」
急にホールの方から大きな拍手と歓声が聞こえてきた。
ホテルマンが数人、こちらに向かって走って来る。
二人は素早く身を離す。
「ドルチェ様、そろそろスピーチのお時間です。」
「承知しました。今、参ります。」
ドルチェは、通り過ぎる瞬間にフィーネにだけ聞こえるように囁いた。
「少し遅くなるが、走って帰る。」
颯爽とドルチェは遠ざかる。
フィーネは(絶対だからな……)と口の中で呟くと、急に叫んだ。
「ドルチェ!!!」
同時に走り出して、振り向いたドルチェの股間に強烈な蹴りを入れた。
「ヴッ……」
思わずよろめいて、壁で背中を支えたドルチェは、
「クソ小役人が……何を……」
と紫の瞳を怒りで燃え上がらせる。
「ヘッ!
バーカ!
バーカ!」
取り押さえようとする警備員を軽々とすり抜けて、
フィーネは叫んだ。
「絶対だかんな!!!」
そのまま煙のように姿を消したフィーネの姿を見送ったドルチェは、
胸元で手を血が出るほど握りしめた。
しかし、次の瞬間には、
「あれは私の友人です。
彼なりの励ましなんですよ、なかなかスパイシーでしょう。」
などとにこやかに周囲を宥め、
拍手喝采のホールに優美な笑顔で入って行ったのだった。
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