悪魔の抱擁
ドルチェは、ちょうど処置室から出てきたヴィータ医師に大股で歩み寄った。
「先生、クララ嬢は……?」
ヴィータ医師はマスクを外しながら大きな目をドルチェに向けた。
「ハイ、ええ……」
フィーネがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
「一命は取り留めました。」
「おお!」
ドルチェはフィーネを振り向いた。
フィーネは処置室の方を向いて茫然としている。
「ただ、ほぼ確実に、後遺症は残るでしょう。
特に左手と左足はほとんど動かないかもしれません。」
「でも……」
フィーネが処置室を向いたまま、かすれ声で呟いた。
「でも……死ななかった……」
ドルチェは飛びつくようにフィーネの両肩を掴んだ。
「ほら、見ろ…見ろよ……!クララは生きている!!」
クララの家族が、泣きながら走り寄って来る。
「ありがとうございます…!ヴィータ先生を呼んでいただいて……
こんなに心配してくださって……本当に……」
ドルチェは身を屈めるように家族に向き合うと、優しい微笑みを浮かべた。
「当然です。本当に良かった。職員も皆、泣いて喜びます。」
その後ろで、フィーネは縫い付けられたように立ったままだ。
ドルチェは家族に一礼すると、フィーネを抱えるようにして病院の外に出た。
***
夕方広がっていた雲は消えて、
すっかり暗くなった夜空には、満天の星が降るように輝いている。
マカロニと生肉を手にした二人の男は、
ところどころに街灯があるだけの、人気のない静かな道を、
黙り込んで歩いていた。
涼やかな夜風が、二人の乱れた髪や服を撫でていく。
(人間なんざ、もううんざりなんだ。)
フィーネは少し前を歩くドルチェの均整のとれた背中をじっと見た。
(勝手に俺を召喚して、利用する奴ら――)
品のいい男は、襟足まで上品な造りをしている。
(秩序に従わず、蠅のようにうるさい奴ら――)
シャツの上からでも分かる、剣のように鋭い腕の筋肉。
(非難と言い訳と自己肯定で塗り固めた奴ら――)
汗をかいたはずなのに、どうして髪がサラサラと流れるのだろう。
(俺の領域に無理に入り込んでは、勝手に死ぬ奴ら――)
フィーネの思索を破るように、ふいに、
ドルチェが振り向いてフィーネを見る。
「どうした小役人、神妙じゃないか。」
「アァ?」
目が覚めたように、フィーネはドルチェを見る。
「私に感謝しているのか?
しっかり感謝しろ。私のおかげでクララ嬢は生きている。」
「テメェは呼んだだけだろ!デケェ面すんな!」
その言葉を聞いたドルチェは、フッと笑顔になった。
一瞬、その笑顔の美しさに目を奪われそうになったフィーネは、
慌てて不機嫌な声を出す。
「何がおかしい。」
「分からない。
――笑いたくなったんだ。」
そう答えてドルチェは立ち止まり、二、三歩後ろのフィーネを待つ。
(夕方、フィーネの家に行く途中に、私が頭を突っ込んだ小川だ……)
と、橋の上から、何気なく静かな小川を見下ろした瞬間、
ドルチェは、山間の岩のように
冷たくて、
硬くて、
でも、柔らかいものに包まれた。
耳元に、フィーネの冷たく湿った吐息がかかる。
「うんざりなんだよ、人間なんざ。」
一瞬、狂おしい沈黙が支配する。
星の光以外に、周りには何もない。
フィーネの背中に両腕を回そうとしたドルチェは、ピクリと動きを止めると、
片腕だけで、フィーネの赤い髪をポンポンと優しく叩いた。
「気が合うな――実は、私もだ。」
「テメェが一番うんざりだ!」
真っ赤に上気したフィーネが、一気にドルチェを引きはがそうとする。
「血がないのに顔は赤らめるんだな。」
ドルチェは顔を近々と寄せる。
「あか……く、なってねェだろ!悪魔舐めんな!」
急にフィーネは全速力で走り出した。
「馬鹿じゃねェの?
――バーカ!
バカ紫!
でべそ!!」
マカロニ片手に風のように遠ざかる。
「でべそ……」
思わず自分の形の良いへそを覗きながら、茫然とする。
一瞬でも、抱擁を返そうとした自分に――
(アイツは、嬉しかっただけだ。
感謝を表したんだ、アイツなりの。
――それだけだ。)
顔を上げると、遠くの木の陰から、
ひっそりこちらを窺う、
赤い髪が灯のようにちらちらしていた。




