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「雪花さま……?」


 突然立ち上がった雪花を不思議そうに日乃子は見た。そして、あとに続き立ち上がる。


 緑と赤の壁のように山茶花が咲き誇る低い木の下には、その命を散らした花びらが多く落ちていた。

 花の命は短く、儚い。

 己の命を全うして散りゆくなら仕方がないが、この目の前の花たちは果たしてそうなのだろうか。


 いや、きっと違う。

 散り落ちた花びらと、木の下の方に咲く山茶花の花の色が変色している様子を見れば、腐ってしまったのだろう。


(まだ生きられたのかもしれないのに……)


 雪花はしゃがみ込み、かろうじてまだ命を保っている茶色の花を手で包み込んだ。

 指先に伝わる、微かな冷え。

 朽ちそうでも懸命に生きようとする姿には、込み上げてくるものがある。


(でもこのままでは、他のものも朽ちてしまう……)


「雪花さま? いかがされましたか?」


 雪花の様子を、日乃子は後ろから覗き込んでいる。ほかの者たちも静かに雪花を見守っていた。

 あたりは静まり返り、風の音だけが響き渡る。風が吹くたびに、雪花の銀色の髪を靡かせた。


(日乃子さまに事実を伝えるべき? いいえ。話している途中に言い返されて苦しくなってしまえば、力が漏れ出てご迷惑をかけるだけ。それなら誤解をされていた方が……)


 雪花は唇を噛み締めると、手の中の山茶花を強く握りしめた。


「え?」


 最初に声を上げたのは日和殿の侍女だった。一つの声を皮切りに、その声は広がり、ざわめく。中には、悲鳴のような甲高い声をあげる人さえもいた。


 雪花の手の中にはしわくちゃな山茶花が握られていた。

 花の原型はなく、潰れた花びらが手からこぼれ落ちる。

 初めは、触れた花がたまたま取れてしまったのかと思われた。しかし、雪花からは謝罪の言葉もなく、手の中の花を地面に置いたかと思えば平然とした顔でほかの花にも手を伸ばし、二つ、三つと木から離して潰していった。

 次から次へと花を散らしていく雪花に、侍女たちも日乃子も、琴乃さえも圧倒され、言葉を失い、その場に立ちすくんだ。


「ちょ、ちょっと雪花さまっ! ここは日乃子さまの大切なお庭です! 何をなさっているのですか……!」


 我に返った日和殿の筆頭侍女、梓が大声を上げたのは、雪花の周りにかなりの花が散らされた後だった。雪花の周囲は茶色の絨毯のようになっている。


「な、なんてことを……」


「ほかの妃のお庭ですることではありませんわ」


「ひどすぎます……」


 ひそひそと日和殿の侍女たちが囁き、冷えた目で雪花を見る。


「失礼致しました」


 雪花はゆっくり立ち上がると、日和殿の人々に深く一礼し踵を返した。

 背後から雪花を責め立てる声がいくつも聞こえる。言葉の数々は鋭い刃物のようで雪花の背中を突き刺した。

 雪花はその声に耳を貸すことも振り返ることもなく、自分の宮殿に向かってただ足を進めた。


(これでいいの。余計なことを口走れば力が出てしまうのだから)


「も、申し訳ございませんでした」 


 背後から謝罪をする琴乃の声が聞こえた。必死に謝る声に胸がちくりと痛む。


(また琴乃に迷惑をかけてしまったわね)


 多くを語らずに勝手に行動を起こし、後処理は丸投げ。

 琴乃にはいつも迷惑をかけている。今だって、自分が早々に帰路に着こうとしているから謝罪は琴乃がしているのだ。


(……でも、こうするしかないのよ)


 雪花は手のひらをギュッと握りしめた。拳が震える。

 良かれと思って行動を起こしても、感情が伴えばそれは水の泡になる。

 今回だって、日乃子に許可を取ってから行動することもできたと思う。しかし、久しぶりに多くの侍女たちに囲まれていた雪花の心労は凄まじく、もう人との会話を極力避けたかったのだ。


(いけない、ここで感情を出しては……駄目……) 


 疲労から崩れそうになる表情をなんとか堪え、足早に日和殿を出ようとした。


「雪花さまっ! お待ちくださいっ!」


 逃げるように立ち去ろうとした雪花の手を、あたたかい手が引き留めた。

 顔を見なくても分かる。このあたたかさ、柔らかい香り、可愛らしい声。

 怒鳴られるだろうか。それとも叩かれでもするだろうか。

 責められる覚悟はできていた。だって、そのくらいのことをした自覚はあったから。

 雪花は息を整えると、表情を崩さずゆっくり振り返った。だが、日乃子の顔をまっすぐに見られない。


「雪花さま」


 優しく呼びかけられ、雪花はそっと視線を上げた。日乃子の目は真剣そのもので、雪花を捉えては離さない。そのきれいな瞳に釘付けになった。


「……私や、私の侍女が、何かお気に障ることをしてしまいましたか? それでしたら申し訳ございません」


「……」


 眉を下げて言う日乃子の言葉に、雪花は瞠目した。自分より背の低い日乃子がより小さく見える。

 なぜ、彼女は雪花を責めないのだろう。責められて当然のことをしてしまったのに。

 喉に何かが詰まったようで呼吸がままならない。何も言葉が返せなかった。

 その間も、繋がれた日乃子の手からはぬくもりが伝わる。


「……侍女たちがひどいことを言ってごめんなさい。花はまた育てれば大丈夫ですので、お気になさらないでくださいね。ただ」


 日乃子は一瞬、言葉を詰まらせたが、どこか悲しそうな笑顔を雪花に向けた。


「私には、雪花さまが理由もなく行動する方だとは思えませんの」


「……!」 


 雪花の目が大きく見開かれた。色々な感情が沸き起こり、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。二人の間を、やや強い風が吹き抜けた。


「教えていただけませんか?なぜお花を取ってくださったのか」

 

 どくん、どくんと心臓が大きな音を立てる。

 沈黙に耐えきれなくなった雪花は、息を吸い込むと日乃子に簡単に告げた。


「……私が取ったお花は花びらが茶色く、枯れていました」


「え?」


 雪花の言葉に日乃子は目を瞬かせた。


「きっと木の下の方に咲いていたお花だったので、日当たりや雨の関係で枯れてしまったのでしょう。それは仕方のないことですが、あのままにしておくとほかの花に栄養が回らず腐敗を早くしてしまう……だから取りました」


 表情も声色も変えずに告げる雪花に、日乃子はますます目を大きくさせた。だが、地面に落ちた花々を一目見ると、顔を曇らせる。


「……そうだったのですね。毎日見ているお庭のことなのに私、気が付きませんでしたわ」


「些細な変化なので、気が付かなくても仕方のないことだ思います」 


「いいえ!私ももっと周囲を見られるようにならなくてはなりませんね」


 日乃子はやはり優しい良い人だ。

 素直に笑い、驚き、謝れる心のきれいな人。

 冷たくあしらうことしかできない雪花になんて、こんなに丁寧に接する必要ないのに。


「あの、雪花さま」


「はい」


「一つお聞きしたいのですが」


「……」


「なぜ、優しさを隠すのですか?」


「!」


 息が止まった。

 冷たい空気が二人を包んでいく。


「そ、れはどういう……」


 雪花は声を縛り出した。動揺が風に乗り、冷たさを増していく。


「雪花さまは多くを語りませんが、行動は誰かのためを思ってのものだと私は思っています。前回の星空の宴もそうでしたわ。雫さまの失敗を隠そうとわざと動いてくださいましたよね?」


 夏に行われた宴で、南側の宮殿に住む妃の雫が舞を披露した。しかし、途中足がもつれ帝の前で転びそうになった。帝の前での失敗は失礼にあたり、どんな言葉が飛んでくるか想像がつく。一生懸命舞っている雫を気の毒に思った雪花は、わざと自分の目の前の食事を大胆にひっくり返し、皆の注目を集めたのだ。

 無表情な自分が何か不手際をしても、「またか」の一言で終わらせられるから。

 そのあとは大変だったが。


「雪花さまはお優しい人ですわ。でもどうか、自分ばかり辛いお役目を負おうとしないでください」


「……優しさも、気遣いも気を緩めれば、相手を傷つけてしまう……」


「え?」


 雪花のつぶやきは、風によってかき消された。


 ――笑顔を作れば、冷たい風により周囲の温度を下げてしまい、涙を流せば氷の粒ができる。怒りを表せば氷の刃を作る。


 雪花の持つ不思議な力は、少しの間違いで大事になってしまう。


「……失礼いたします」


 雪花は動揺を隠せないまま、日乃子の手を振り払い、日和殿を後にした。

 日乃子の言葉は雪花の心にいつまでも残り続けるのだった。

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