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「お待ちしておりましたわ。雪花さま」
日和殿に着くと、皇后候補の一人である日乃子がにこやかに迎えてくれた。
茶色の柔らかそうな髪を一つにまとめ、黄緑の橄欖石が埋め込まれたかんざしを挿した日乃子は人懐っこい笑顔を浮かべている。
彼女はよく分からない。
父親が高官であり、そのために有無を言わさず天華宮に入ったと小耳にはさんだことがあったが、いつも穏やかな笑みを浮かべているため、何を考えているのか内心が読み取れなかった。
天華宮の中で空気のような異質な存在である雪花と距離を縮めようとしてくるのは何故なのか。
仲良くなって何か情報を得ようとしていることも考えられるし、何か陥れようとしている可能性も考えられる。
ここにいる女人たちの厚い化粧で隠された素顔は、そう簡単に垣間見られるものではないからこそ、用心しなくてはならない。
一瞬の気の緩みが命取りになる。
雪花は若干汗ばんだ手を握り込んだ。
(なにがあっても表情を崩さないようにしなくては……)
雪花は自分に言い聞かせる。
笑顔の日乃子の後ろには、十人を超える日和殿の侍女が怪訝そうな顔で雪花を見ていた。
天華宮の中で良い話を聞かない自分が、大切な主人の住まう宮殿に来ることが面白くないのだろう。
だが、面白くないのは雪花だって同じだ。誘われなければこんな気持ちが揺れ動きそうな場所に出向くはずがない。
「お久しぶりですわね、雪花さま。前回の星空の宴以来かしら」
「……はい」
「文を受け取って頂けて嬉しいですわ」
どうやら日乃子は、自分の後ろに並ぶ侍女たちが雪花にじっとりとした視線を送っていることに気付いていないようだ。
本当に彼女の心の内が分からない。
「どうぞ、こちらへ」
柔らかい黄緑地に桜の花びらと牡丹の花が美しく描かれた打掛を翻し、日乃子は歩き始めた。雪花もそのあとに続く。
日和殿と六花殿の造りは同じはずなのに、雰囲気はまるで違った。
白を基調とした六花殿に対し、日和殿は春のような暖かい色合いがふんだんに使われている。襖や装飾には春に咲く花々が描かれており、朗らかな日乃子によく似合っていた。
住む妃によってこんなにも雰囲気が変わるものなのかと雪花は周囲を見回す。
縁側を進んでいくと、大勢の侍女たちがせわしなく掃除をしていた。
日乃子の姿が見えた途端、侍女たちは目を輝かせながら礼儀正しく頭を下げていく。
「いつもありがとう」
「い、いえ! とんでもございません」
鈴を転がすような可愛らしい日乃子の声に、侍女たちは嬉しそうに頬を赤らめながら謙遜した。
「侍女部屋においしいお菓子を置いたからあとで食べてね」
「ありがとうございます!」
日乃子と侍女のやり取りを後ろから眺める。
この一場面で、日乃子がいかに侍女たちに慕われているかが見て取れた。
(日和殿の侍女たちは楽しそうに仕事をするのね……)
ふと、自分の宮殿の侍女たちの姿が思い浮かぶ。六花殿に和気あいあいとした空気感はない。
(こんなに大勢侍女がいるのなら仕事も分けてできるはずね)
ぼんやりと目の前の光景を見ていると、侍女たちが雪花の存在に気付き、顔を強張らせて固まった。
初対面だというのに侍女たちがこんな顔になってしまうのは、雪花が冷たい妃だという話が広まっているからだろう。
噂とは怖いものだ。
日乃子と雪花は、大きな庭にたどり着いた。
赤や橙色に染まる大きな木や花弁が一枚ずつ折り重なるように咲く山茶花が庭を鮮やかにする。
落ち着きのある色味の花で統一された六花殿の庭とは違う華やかな色合いに、雪花は目を見張った。
「今日は暖かいから、お庭でお茶でもしようと思ったのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、問題ありません」
「良かったですわ! ではこちらにいらして!」
日乃子は雪花の手を取って庭の中央に連れ出す。
庭には、舞い落ちた紅葉が敷き詰められたような鮮やかな赤い毛氈が敷かれていた。
「こちらへどうぞ」
雪花は言われるがままに毛氈の上に座る。
「雪花さまは苦手なお茶とかございますか?」
「いえ、特には」
「それは良かったです。ちょうど頂いたばかりのお茶がありましたの。そちらを頂きましょう。梓、お茶の用意を」
「かしこまりました」
日乃子の指示に、梓と呼ばれた侍女を筆頭に日和殿の侍女たちが一斉に動き出した。
梓という侍女は宴の時に見たことがある。きっと日和殿の筆頭侍女なのだろう。
人が少なくなり、雪花は少しだけ息が吸いやすくなった気がした。
「最近、朝晩は冷えますが、日中はお日様が出ていれば暖かいですわね」
「そうですね」
「雪花さまはお茶がお好きだと聞きましたの。だから一緒に茶会ができて嬉しいですわ」
「……ええ」
日乃子は雪花の対面に座り、一方的に話す。淡々と返事をする雪花に愛想を尽かすこともないようだ。話題が次々と湧いていく。
「お待たせいたしました」
(……?)
日和殿の侍女が目の前に置いたお茶に視線を向けた雪花は一瞬戸惑った。茶が茶色く濁っていたのだ。緑色の茶を想像していた雪花は、得体のしれないものに内心顔を歪める。
(腐っている……? それとも毒?)
あからさまな嫌がらせかと失礼な考えが頭をよぎった。だが、異臭が放たれているわけではないし、日乃子の様子を伺えば、彼女の前にも同じ茶が置かれている。
(これは、なに……?)
「あら? 初めてでした?」
雪花の戸惑いを察した日乃子は湯呑を持ち上げるとそのまま口づけた。茶色の液体を一口口に含んでにっこり笑う。
「ふふふ、大丈夫ですわ。決して毒などは入っておりません。これは紅茶というお茶ですわ」
「紅茶……」
馴染みのない言葉を復唱する。見慣れない色の茶だが、湯呑を持ち上げてみると、ほんのり甘い香りがした。
「これは隣国でよく飲まれているお茶だそうです」
日乃子の言葉を聞きながら、雪花は一口茶を飲んだ。芳醇なコクのある味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
初めて味わう紅茶の美味しさに、思わず本音がこぼれた。
渋みが控えめでほんのり甘い。初めてでも抵抗なく飲みやすい味。そして、わずかに香る果物の風味が食欲を掻き立てた。
一口、二口と雪花は無言で飲み進める。
その時、ほんの一瞬、指先にひやりとした感覚が走った。立ち込んでいた湯気が音もなく消えかかる。
(……!)
雪花は瞬時に漏れ出ている力に気付き、緩みそうになる頬を内頬を噛んでぐっと堪えた。
だが、日乃子は雪花の変化に気付くこともなく、口許に手を当てて笑っていた。
「ふふ、雪花さまは本当にお茶がお好きなのですね」
「……」
表情を崩していないはずなのに、なぜ分かったのだろうか。
まさか力が滲み出ていたことが分かってしまった?
慌てて周囲を見回したが特に異変はなかった。
雪花は俯き、鼻からぬるい空気を吸い込んだ。
琴乃の心配そうにする視線が背後からひしひしと伝わってくる。
「気に入って頂けて良かったですわ。今までにない色味に私も初め戸惑いましたが、いつものお茶よりも甘みがあって気に入りましたの」
日乃子は雪花の反応がなくても饒舌に語る。あまりにも楽しそうに話すものだから聞いているうちに、雪花の気持ちは少しずつ落ち着いていった。
「こちらは先程お戻りになった春陽さまから頂いたものなのです」
「……春陽さま?」
雪花は聞き馴染みのない名前に首を傾げた。
天華国の遥か昔からの掟。
「春」の文字を名に刻めるのは皇族だけだというもの。
帝の名は確か、春真である。春陽なんて今までいただろうか。皇族の血縁者は皆、天光殿で暮らしているのだから、そんな人がいればこれまでに会っていたはず。
それなのに「春陽」なんて今初めて聞いた。
「……雪花さま、春陽さまとは主上さまの弟君にございます」
背後から琴乃が耳打ちをしてくれる。帝に弟君がいたなんて初耳だ。
「春陽さまは長らく隣国にご遊学なさっていましたの。つい先程お戻りになられたそうですよ」
日乃子は何も知らない雪花を笑うわけでもなく、丁寧に教えてくれた。
(帝の弟君……)
雪花にとって帝はあまり良い印象の人ではない。
国のための政もほとほとに、昼間から酒を飲み、女人を連れ込んでいるどうしようもない人。雪花にはその印象が強い。
だが、帝も同じようで、雪花に対しての評価はめっぽう悪かった。顔を合わせることは少ないが、合わせるたびに愛想のない、可愛げがないと言われる始末。
まだ会ったことがない人を決めつけるのはいけないと思うが、同じ血を引く弟ともなれば、きっと兄と似ているような人物に違いない。
「初めてお会いしましたが、とても美しい方でしたよ」
日乃子は頬に手を当てうっとりする。
「美丈夫とはあのような方のことを言うのですね。……主上さまとは大違いでしたわ」
(……あら?)
てっきり日乃子は帝のことを好いているのかと思っていたが、どうやら違うようだ。
皇后候補は様々な理由で召し上げられる。
高官の娘が皇后になれば、その高官の位は跳ね上がるから召し上げられたり、街でたまたま見つけた美人を選んだり。
女人の意見など関係ない。帝が好きではなくても、あちらから迫られれば拒否権はない。
雪花だって望んでここにいるわけではないし。
(ずっと隣国にいらしたのに何故急に? 主上と弟君……今後なにも起きないといいのだけれど……)
紅茶を飲みながら雪花はぼんやりと考えた。
その後も一方的な日乃子の話に耳を傾けた。不思議なのは話を聞いていても一切不快な気持ちにならないことだ。
好きな茶の話、天華宮のこと、ほかの妃たちのこと。
日乃子はどんどん新しい話を振ってくれるが、どの話も人を下に見たり、嫌味を言ったりすることがない。
まるで負の感情を感じることのないような朗らかな顔。日乃子の心の内が分からないと思っていたが、きっと彼女は根本的に優しい人なのだろう。
――この人といると気が緩む。それが一番危険だというのに。
ため息が出そうになるのを抑えながら、雪花は庭の花に目線を移した。そこであることに気付き、じっと一点を見つめる。
華やかに咲き誇る山茶花。
鮮やかな赤色が眩しく、ギザギザとした葉の緑と花の赤色の色合いがとても美しい。秋風に吹かれて笑うように揺れる様も優雅だ。
しかし、気になったのはそこではない。
雪花は静かに立ち上がると、引き寄せられるように山茶花が咲く一帯に歩み寄った。




