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「……離して下さい」
雪花が小さな声で呟く。
だが、春陽の耳に届いていないのか、春陽は手をしっかり握ったまま動かなかった。
この場にもういたくない。
春陽に否定されるのが怖い。
夕凪のように「呪い」だとか「人間じゃない」などと春陽に言われたら、それこそ立ち直れなくなりそうだった。
それに、色々な気持ちが混じり合った複雑な感情を表に出してしまえば、どんな力が発動するか想像が付かない。
――早く一人きりに。春陽から距離を取りたい。
「お願い致します、春陽さま……」
そんな気持ちから必死に手を離すように訴える。
温かい春陽の手。いつもなら触れられるとふわふわした温かい気持ちになれるはずなのに、今はこの手が怖い。
畳を見つめる目が滲み出し、鼻の奥がつんとした。
涙が溢れないように唇を噛み締めるが、込み上げてくるものが溢れ出そうだった。
「雪花殿、顔を上げて下さい」
穏やかな声に雪花は首を振った。
すると春陽は雪花の顎に手を当て、優しく持ち上げる。
その反動で、雪花の目から涙が落ちた。
しかし、その涙は氷になることなく畳にシミを作っていく。
「なぜそんなにお辛そうな顔をしているのですか?」
「辛そうな顔……」
「何があなたをそんなに苦しめているのですか?」
声の代わりに涙が次々と落ちていく。泣きじゃくる雪花を春陽はそっと抱き寄せた。
春陽の腕の中で雪花は震える声を出す。
「……わ、わたくしは、呪われている、から」
「なぜそんな……」
「わたくしと関わった人は傷付いてしまう……あの夜からわたくしが感情を表に出せば、不思議な力が発動してしまう。だから、わたくしは呪われているのです」
「……」
春陽は何も言わなかった。
あぁ、やはり。気味が悪いと思われたに違いない。
そう思えば、この胸から顔を上げることも億劫だった。ぎゅっと身体を縮こめる。早くこの場から立ち去りたい、そんな気持ちでいっぱいだったのに――
「雪花」
突然名を呼ばれたかと思えば、肩を掴まれそっと身体を離された。春陽は雪花の顔を覗き込み、目線に合わせようとしてくれる。
「呪いなんかではない」
今までの丁寧だった口調はなく、春陽は真剣な目つきできっぱりと雪花に言い聞かせた。
「雪花の力のおかげで、私の傷は何事もなかったようになっている。あなたがいなくては大変なことになっていた」
「……!」
「雪花の力のおかげだ。感謝する」
春陽の言葉に、止まりかけていた涙が再び顔を出す。
雪花は口許に手を当てて嗚咽を噛み殺すようにして泣いた。
この力は悪いものだとばかり思っていた。だから隠さなくては、と。
だが、今初めてお礼を言われて、心の中で燻っていた力に対する不安や恐怖が少し和らいだ気がした。
この力も、時には誰かの役に立つのかもしれない。
そんなこと今まで考えたこともなかった。
「雪花。教えてもらえないだろうか? その力のこと。一人で背負うには重すぎるものも分け与えれば軽くなる」
春陽に促され、その場に座り込んだ雪花は遠い記憶を手繰り寄せ、ぽつぽつと語り出した。
時折、夢にも出てくるあの夜のことを。
「……わたくしの両親は、わたくしが八つの時に殺されました。何の前触れもなく、突然に。あれは雪の降る寒い夜、でした」
春陽の目が見開かれる。
前触れもなく、唐突に始まった昔語り。
しかも、重い衝撃的な内容だとは想像していなかったのだろう。
「……殺された? 誰に?」
目は動揺しているものの、春陽の声はいつも通りだった。いや、いつも通りを装うとしてくれているのが分かる。声がほんの少し上擦っていた。
「それは覚えていないのです。ですが、大きな男たちに囲まれた記憶が朧げにあります。彼らは母を狙っていました。そして母の血が流れるわたくしも抹殺しようと……」
封じていた過去をこじ開ければ、一気に寒気が襲う。あの恐怖の夜に戻ったような感覚で、身体の芯から冷えていく。雪花は無意識に握り込む手に力が入った。爪が手のひらに食い込んでいく。
「なぜ、そんな酷いことを……」
まるで自分のことのように、春陽の顔が歪んだ。今にも泣き出してしまいそうで、言葉を失っている。
「分かりません。その犯人たちもその場で亡くなってしまいましたから理由が全く。穏やかな両親でしたから、誰かの恨みをかうことはないとは思いますが、いかんせんわたくしも子どもでしたので、全ては把握できておりません」
「辛いことを思い出させてしまったな」
「いえ、確かに辛く悲しい出来事でしたが……わたくしが困ったのはその夜が明けてからなのです」
「……というと?」
雪花は大きく呼吸をし、胸の高鳴りを抑えた。そして真っ直ぐに春陽を見る。
「あの日の夜が明けてから――わたくしが感情を表に出すと、氷の力が発動するようになったのです」
「氷の力……」
春陽は顎に手を当て、何やら考え込むように呟いた。
「笑えば冷たい風が吹き、涙は氷の粒になる。怒りは氷の刃を作るのです」
きっとこれまで雪花と接する中で何かしら違和感を覚えていたのだろうか。春陽は大きく動揺はしなかったが、その後何かを考えるような仕草をした。
物音が立たない時間がわずかに過ぎていく。
春陽が何を思っているのか、何を考えているのか、問いたい。しかし、口を開くのが躊躇われた。
(否定されてしまう? それともやはり気味悪がられる?)
どんどん負の思考が進み、雪花の頭を締め付けた。
「雪花」
「……っ」
雪花は若干水分を含ませた瞳を春陽に向けた。
「色々辛い思いをしてきたんだな。雪花の力のこと、確信はなかったが、何となく何かはあるなと感じていた。だが、その力は決して呪いではない、それだけは覚えていて欲しい」
「……はい」
「私は雪花の力になりたい。あなたの辛さに寄り添い、できるなら助けたい。そう思っては迷惑か?」
困ったように眉を下げ、それでも笑みを作る春陽を見て、雪花の心を覆っていた緊張や恐怖は一気に溶け出した。
春陽の優しさが純粋に嬉しかった。
「……っ迷惑では、ございません」
雪花は頼りない声を絞り出した。
春陽の前だとどうしても素直に感情が出てきてしまう。抑えようと試みるが、留め具が壊れてしまったように言うことを聞かなくなるのだ。
(でも、なぜ……)
雪花は潤んだ目を部屋のあちこちに向けた。こんなに複雑な気持ちが顔を出しているというのに、部屋の中は何も変わっていなかった。
――春陽の前だと感情を出しても、氷の力が発動しない……?
そんなことありえるのかと疑問が浮かぶが、時間が進んでも冷風が吹きことも、雪がちらつくこともなかったのだった。




