7
帝の後を追い六花殿に行こうとしていた春陽だったが、まるで仕組まれていたかのように足止めをくらった。
今すぐに必要ではない仕事を帝の側仕えから押し付けられ、やきもきしながらこなしていく。
全て終えたのは日が完全に沈み、空が漆黒に包まれた頃だった。
「あとは頼む」
和正に最後の仕上げを頼んだ春陽は、六花殿へ続く回廊を大股に進んだ。
六花殿に近づくにつれ感じる違和感。
どこかから冷たい風が吹き、春陽の身を震わせた。
(寒い。六花殿に近づくたびに気温が下がっている気がする)
刻々と冬に近づいてきてはいるが、急にこんなに寒くなるのはおかしい。
(まさか、雪花殿にまた何かあったのだろうか?)
そう考えれば気持ちばかりが焦る。天華官女が驚くのも無視し、回廊をひたすら進んだ。
六花殿は相変わらず静かで音が聞こえない。
「失礼致します。雪花殿はいらっしゃいますか?」
入り口から声をかけるが、反応が返ってこない。その間もじわじわと寒さが春陽を襲った。
(このままでは……)
失礼に値するとは分かっている。だが、このままここで待っていても埒が開かない。
「失礼します」
念の為、声を張り上げて掛ける。そして宮殿の奥に進んだ。
(何が起きたんだ……?)
六花殿の廊下には人が一人もいない。そして奥に進めば進むほど、寒さは強くなり、廊下の欄干にはうっすらと霜が降りていた。
驚きながらも雪花の部屋に急ぐ。角を曲がり、雪花の部屋にたどり着いた春陽は、よく知る人物が座り込んでいる所に遭遇した。
「琴乃殿?! 大丈夫ですか?」
春陽の声に気付き、顔を向けた琴乃の目には涙が浮かんでいた。
長い間ここにいたのだろうか。顔や手は青白くなり震えている。
「一体何が?」
座り込む琴乃の隣にしゃがみ、顔を覗き込む。恐怖なのか寒さなのか琴乃は震えが止まらないようだった。
「……雪花さまがっ、雪花さまが……」
主人の名前を繰り返すばかりで話が進まない。ただ、その雰囲気に只事ではないと春陽の気も動転した。
「雪花殿はどちらに?」
春陽の問いかけに、琴乃はわずかに目線を目の前の襖に向けた。
「雪花殿は自室にいらっしゃるのか? ここを開けても?」
筆頭侍女である琴乃に許可を取ろうと声を掛けたが、琴乃は首を左右に振った。
「なぜです? もしかしたら危険な状態……」
「……開かないのです」
「え?」
春陽の言葉を遮った琴乃の目からは、はらはらと涙がこぼれ落ちる。
「……私も声を掛けて、中に入ろうとしました……しかし、襖が氷で覆われて、開けられないのです……こんなこと初めてで……」
よく襖を見てみると、ぴったりと閉じられている。そこにはうっすらと輝く膜が張り、まるで極光のよう。
琴乃はよろよろと立ち上がり、襖に手をかけた。
「雪花さま、春陽さまがお見えになりしたよ。雪花さま……」
もしかしたら弱々しい琴乃の声が聞こえていないのかもしれない。琴乃が襖を開けようとするが、ぴくりとも動かなかった。
「琴乃殿、私が開けてみても良いだろうか?」
男である自分の力なら、琴乃よりも強く開けられるかもしれないと思った春陽は、琴乃に声を掛けた。
しかし、琴乃は襖を見つめたままで何も答えない。
「琴乃殿?」
一刻を争う事態だ。こうやって話しているうちに、どんどん寒さが増している気がする。
「……雪花さまをお嫌いにならないと、お約束していただけますか?」
「はい?」
「この襖の先の雪花さまを見ても、突き放さないとお誓い頂けますか?」
「それはどういう……」
「雪花さまは決して悪い人ではありません。今、六花殿がこのようになっているのもなんらかの訳があるはずです。ですので、それを受け止めて下さいますか……?」
春陽に向けられた琴乃の目は真剣そのものだった。筆頭侍女として、雪花を守る役割を全うしようとしている強い目。
そこで春陽は、雪花が何か大きな物を抱えているのだと確信した。
だからといって、彼女を見捨てることはない。そこを言い切れる自信はあった。
「分かった。私が全て受け止めよう」
「雪花さまを……お願い致します……」
力強く頷けば、その言葉を聞いた琴乃は力尽きたように目を閉じた。慌てて受け止め、開いていた隣室に寝かせる。
春陽は氷で閉ざされた襖の前に立ち、深呼吸をする。
凍てついた空気が肺に入り込み、春陽の身体を冷やした。
「雪花殿、春陽です。失礼致します」
力を込めて襖を開けようとした時だった。
春陽が襖に触れた途端、氷の膜が煌めきながら溶け出し、空気に変わり無くなっていく。
氷の膜に覆われていた襖はすぐさま、本来の姿を取り戻した。
(氷が……溶けた? あんなに大きな氷が、一瞬で……)
驚きのあまり目を丸くする。一体何が起こったのか、理解に苦しんだ。
しかし、今は雪花の方が先だと、春陽は覚悟して襖を開け放った。
「雪花ど……」
部屋を見た春陽は絶句した。
そこには、部屋の中心で大粒の涙を流す雪花と、一面氷に覆われた氷の世界があったのだった。
ゆっくりと雪花の身体が傾きだす。
驚きながらも倒れかけた雪花を助けようと一歩足を踏み入れた。
「っ危なかった……は?」
冷え切った身体をそっと抱きとめ、改めて周囲を見た春陽は思わず声を漏らした。
たった今まで壁や畳を覆っていた氷が全て消え去り、いつもと変わらない部屋がそこにはあったのだった。




