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1、氷の妃




 

雪花(ゆきか)は、縁側に座り、秋めいている庭をじっと見つめていた。

 庭の紅葉が燃えるように色づいている。風に揺られひらひらと葉が落ちる様は実に美しい。

 差し込む午後の柔らかな光。

 微かな風音しか聞こえない静かな部屋。

 鼻をくすぐる茶の匂い。

 心地良い静けさに、雪花は天色の瞳をやや細め、茶を飲んでいた。


 ここは天華宮(てんかきゅう)

 大陸の北側に位置する小さな国、天華国の最高権力者である帝の花嫁――皇后を選ぶ女の園である。

 広大な敷地には、四季折々の花が咲き誇り、清らかな小川が流れていた。

 天華宮の周囲は、ぐるりと大人四人分ほどの高さの塀で取り囲まれ、北側と南側にある門には常時見張りが付いている。厳重に警戒されたこの場所には、帝とその血縁者が住まう天光殿を中心に、東西南北それぞれに皇后候補が暮らす宮殿があった。


 皇后候補は全員で四人。

 この四人の中で最も早く御子を産んだ者が皇后になれるという。

 誰が敵で、誰が味方か定かではないこの場所は、煌びやかに見えてとても恐ろしい。

 雪花はそんな居心地の悪い所でひっそりと暮らしていた。

 昼間でもあまり日の当たらない北側の宮殿は、今日も今日とて静まり返っている。

 白い襖に雪輪模様が透かし彫りされた欄間。まだ秋だというのに冬の香りが漂う宮殿――六花殿(りっかでん)

 六花殿を与えられえた皇后候補の一人である雪花は、まるで雪の精のようだった。白い肌に、銀色の艶のある長い髪。髪についている皇后候補の証である煌びやかな真珠のかんざしが劣ってしまいそうな美貌の持ち主。

 雪花は誰もが認める美しい妃だが、その顔面が穏やかに緩められることはなかった。


「だんだん秋も深まってまいりましたね」


 突然聞こえた柔らかい声に、雪花は視線を庭から横に向けた。

 視線の先には、お盆に急須を載せて優しく笑う琴乃(ことの)が立っている。

 琴乃は六花殿の筆頭侍女であり、雪花の良き理解者だ。雪花にとって数少ない信頼のおける人。


「えぇ。風が気持ち良いわ」


「本当ですね」


 琴乃を前にすると、自然と雪花の肩の力も抜けていく。だが、その表情は変わらずに固い。


「お茶のお代わりをお持ちしました」


 空になっていた湯呑を差し出せば、琴乃は茶を注ぐ。とぽとぽと、梅の絵が描かれた急須から緑色の雫が落ちるたび、湯気と豊かな香りが広がっていった。


「……この匂い」


 花のような優しい匂いにつられた雪花は、琴乃の手元を凝視した。

 見た目は普段飲んでいる茶とあまり変わらないように思えたが、香りがどこか違う。


「先日、行商の者から購入した新しいお茶を淹れてみました。お花のお茶だとか。香りがとても良いですね」


 淹れたての茶は、緑が薄く鮮やかで、雪花は引き寄せられるように湯呑に手を伸ばした。

 琴乃の一人語りを聞きながら、一口口に含む。


「……!」


 口の中いっぱいに広がる爽やかな花の香りに、ほんの一瞬、気を許したように雪花の頬が緩んだ。


「……おいしい」


 その途端、秋の涼やかな風の中に、真冬の早朝のようなひんやりとした空気が含まれ、周囲を揺らした。

 地面に落ちていた黄色や赤色の葉が持ち上げられて宙を舞い、はるか彼方へ飛ばされていく。


(……っいけないわ)


 冷たい風を頬に受け、はっと我に返った雪花は咄嗟に口元を手で押さえ、口を結んだ。

 すると、一拍遅れて冷たい風は嘘のように止み、庭には再び静寂が戻った。


 ――また無意識のうちにやってしまった。


 雪花は唇を噛み締め、俯いた。


「大丈夫でございますか? 雪花さま」


 琴乃の気遣う優しい声が耳に入る。


「……ごめんなさい。つい漏れてしまったわ」


 ここにいたのが琴乃だけだったのが救いだ。ほかの人がいたと思うとぞっとする。


「ご心配には及びません。ここには私しかおりませんし、ずっと気持ちを抑えていては雪花さまもお辛いでしょう」


 琴乃は雪花の背中を優しく撫でた。


「……気を付けるわ。誰かを傷つけてからでは遅いもの」


「雪花さま……」


 さっきの薄い笑みはどこへやら。雪花はすっかり、いつもの感情が読み取れない真顔に戻っている。

 そんな横顔を琴乃は少し寂しそうな顔で見つめた。

 雪花は湯呑を持つ自分の手に視線を落とし、ふと昔のことを思い出していた。


 



 母が亡くなり、吹雪の中泣き続けていた雪花は、通りすがりの高官 敦矢(あつや)に拾われた。

 身寄りのない雪花を敦矢は養子として迎え、家に住まわせてくれた。

 そこで出会ったのが今侍女をしてくれている琴乃である。

 琴乃は敦矢の実の娘で雪花の一つ下。会った初日から「お姉さま」と懐いてくれた。

 敦矢の家に来て数日たったある夜のこと。

 日中は寒空の下、琴乃と雪遊びを楽しみ、疲れ切った雪花は早めに布団にもぐりこんだ。

 一人布団に入っていると遠くから敦矢と琴乃の談笑の声がかすかに聞こえてきた。敦矢たちは決して雪花を邪険にすることはなく、親切に大切にしてくれた。

 だが、本当の親子の絆には叶わないと、両親が恋しいと、思わずにはいられなかった。

 堪えていた涙が一粒溢れる。


(お父さま、お母さまに会いたい……) 


 迷惑を掛けたくない一心で、敦矢に拾われてからは泣かないように気を張っていた。だが、今夜は堪えられそうになかった。

 しかし、雪花はすぐに自分の異変に気付く。

 溢れたはずの涙は水滴にならず、氷となり布団に転がったのだ。


(え……)


 恐怖が雪花を襲い、慌てて身体を起こす。


(どうして、ここに氷が落ちているの……)


 雪花は自分の目元に触れた。自分の目から出てくるのは確かに涙の粒だ。しかし、落下している最中に形が変わっていく。

 瞬きし、涙が落ちるたびに固い氷の粒が布団の上に増えていった。


「いやっ、いやっ!」


 恐怖と驚きが雪花を支配し、自然と大声がでてしまう。そうすれば、声の大きさと比例して氷の粒も大きく、鋭く刃のようになっていく。


「いや……」


 涙を止めようと試みたが、止められない。雪花は涙を流し続けた。


「雪花?! どうした?」


「雪花お姉さま?」


 悲鳴を聞き駆けつけたのは、敦矢と琴乃だった。二人は襖を開け雪花を見た途端、唖然とした。

 雪花の周りには大小様々な大きさの氷の粒が落ちており、所々、壁や畳に透明な刃のようなものが突き刺さって傷になっている。さらに、部屋の中は震え上がりそうなくらい冷気で覆われていたのだった。

 雪花はその中心で顔を覆って泣いている。異様な光景だった。


「これは一体……」


 息を呑む敦矢の脇をすり抜けた琴乃は雪花に抱きついた。


「お姉さま! お姉さま! 大丈夫ですか?」


 啜り泣く雪花に声をかけ続けると、雪花はそっと顔を上げた。


「……琴乃」


「お姉さま、もう大丈夫ですよ。琴乃が傍におりますから」


 琴乃の温かさに雪花の涙は乾いていく。

 だけれども、氷たちはしばらく残ったままだった。

 その時に雪花は幼いながらに思った。


 ――自分が泣けば、大変なことが起きる。自分が感情を出せば、周囲に迷惑がかかると。


 その日以降雪花は、何があっても泣かなくなった。

 泣かないどころか、怒ることも、笑うことも辞めた。

 怖かった。

 自分が感情を出せば、無意識のうちに誰かを傷付けてしまうのではないかと。だから、感情は自分の心に押し込め、人と会うこと自体避けるようになっていった。

 それは、養父である敦矢に頼み込まれ、ここ天華宮に入内してからも変わることはなかった。


 


 

(……今のような些細な笑みでも力が溢れ出てしまう私は、やはり感情を出してはいけないんだわ)


 過去のことを踏まえ、自分きつく言い聞かせていた時、小さな震えた声が聞こえた。


「……あ、あの……雪花さま、失礼いたします……」


 足音なく、雪花と琴乃の元にやってきたのは、六花殿に仕える年若い侍女だった。

 最近六花殿に入ったこの侍女は、どこか怯えた表情で雪花の前に膝を正す。手には漆塗りの盆を持っていた。


「……何かありましたか?」


 雪花は侍女の方を一切見ようとせず、庭を眺めながらただ一言そっけなく返した。


「あ、あの……」


 そっけない雪花の態度に、侍女は肩を震わせながら深々と頭を下げ、雪花の前に盆を差し出す。

 雪花はおでこが床に付きそうなほど低く頭をさげ、縮こまる侍女を一瞥した。

 盆には、きれいに折りたたまれた文が載っていた。紙質から見て位の高い人からのものだと予測がつく。


「ごゆっくりされているところ申し訳ございません。あの……日和殿(ひよりでん)日乃子(ひのこ)さまより文が届きました」


「あなた、これを受け取ったのですか?」


 雪花より早く反応した琴乃は、侍女にやや強い口調で問う。


「……え? あ、あの…… はい。受け取りました」


 琴乃の圧に侍女はしどろもどろに答えた。


「他の妃の侍女から文や物を受け取ってはいけないと、お伝えしたはずですが」


「あっ…… も、申し訳ございません……!」


 琴乃の言葉の意味を理解した侍女の顔色が徐々に悪くなっていく。今にも泣き出しそうに深々と頭を下げた。


「あなたのひとつの間違いが、雪花さまを……」


「琴乃」


 雪花に対する心配や気遣い。筆頭侍女として主人を守る為に部下を正そうとする琴乃の言葉を雪花は制した。


「雪花さま……」


「受け取ったものは仕方がないわ。それをこちらに」


 目で告げれば、侍女は息を詰まらせながら音を立てずに雪花に近づいた。

 雪花は無言で手を伸ばし、文を受け取る。そして中身を確認することなく、懐にしまい込んだ。

 その時、侍女の異様な雰囲気に気付く。


(あら……?)


 顔が伏せられているため、全ては見えないが、少し見えた横顔が普段より赤みを帯びている気がする。

 それに、盆を差し出す手が小刻みに震えていた。声が出しづらそうなのは、緊張だけが理由ではないだろう。


「あ、あの」


 文を仕舞い込んだ雪花に、侍女は慌てたように声を発した。

 目と目が合う。

 雪花の冷たい目に、侍女は勢いをなくした。


「も、申し訳ございません……急ぎの文です、とのことでしたので、お早めにお目通しください……」


「分かりました」


「申し訳ございませんでした。失礼いたしまーー」


「千代」


 用件を伝え終え、足早に立ち去ろうとした侍女が腰を浮かせたのと、雪花が彼女を呼び止めたのは、ほぼ同時だった。

 名前を呼ばれた侍女、千代はさらに動きを止める。


「は、はい……」


 静かな縁側に、千代の絞り出すような声が響いた。


「あなた、今日はもう自室に戻りなさい」


「……え?」


 雪花が言葉を告げた瞬間、千代はぎょっとしながら雪花を見た。


「後の仕事は他の侍女にやってもらいなさい。今日は自室から出ないこと。分かりましたね?」


「……え、いや、あの……」 


 雪花の淡々とした物言いに、千代は驚きと怯えを滲ませながらうろたえている。

 だが、そんな千代に目をくれることもなく、雪花は優雅に茶を飲み続けた。


「琴乃、千代を部屋に連れて行きなさい」


「かしこまりました」


 顔面蒼白な千代の返答も待たず、雪花は湯呑を置き静かに立ち上がった。

 話の展開が早すぎて千代はついていけないようだった。視線をうろうろさせていたかと思えば、勢いよく頭を下げる。


「も、申し訳ございません…… 文を易々と受け取ってしまい……」


 千代は文の件で雪花の怒りに触れたのだと思い、小さくなって謝罪を繰り返した。

 まるで雪花を鬼や妖に重ね合わせているような、そんな怯え方だった。


「琴乃、良いから早く連れて行きなさい」


「かしこまりました」


「ゆ、雪花さま……っ!」


 ぱさりと打掛を翻し、颯爽と立ち去る雪花を、千代は涙ぐみながら見送るのだった。

 

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