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3、蒼玉のかんざし





 あの中庭での揉め事、それから夕凪が突然倒れたことは一瞬のうちに天華宮内に広まった。

 中庭という目立つ場所で事が起きたのが災いだった。掃除中の天華官女や他の宮殿の侍女たちがそれを見物しており、あることないこと事実や虚言が天華宮を行き交い、噂を大きくする。


 そしてそれらの話は、人との関わりを持とうとしない六花殿の雪花の元まで届いていたのだった。


「……そう、そんなことが……」


 雪花は真っ直ぐ庭を眺めながら呟いた。

 外からはやや冷たい風が吹き込んで、雪花の頬をさらりと撫でる。

 秋実の宴から数日も経てば秋も深まり、冬の訪れを匂わせた。

 琴乃はてきぱきと手を動かしながら話を続ける。


「えぇ。私も侍女から聞きましたので詳細はまだ分かりませんが。どうやら宴のことで揉めたそうです。日乃子さまも夕凪さまも大きな声で言い合っていたとか」


(わたくしが去った後に何かあったのかしら)


 感情を抑えられなくなり、宴の途中で離席した記憶はまだ新しい。雪花がいた時は特に揉め事につながる出来事もなかった気がするが、雪花が気が付かなかっただけで互いに気に食わないことがあったのかもしれない。


(あの日乃子さまが揉めるなど珍しいこともあるのね)


 和やかな雰囲気の日乃子が声を荒げて訴えるなど只事ではない。余程彼女の気に触ることが起きたのだろう。

 何が起きたのか気にはなるが、雪花には知る術がない。

 人との関わりを自ら避けている雪花がのこのこと聞きに行くわけにもいかないし、誰かに聞いたとして教えてくれるか疑問である。


「お待たせ致しました。日乃子さまから新たに頂いた紅茶です」


 ぐるぐる頭の中で駆け巡る思考を止めたのは、琴乃の声とそっと差し出された茶色のお茶だった。

 花のような香りがふわりと香る。

 日和殿に行った時に雪花が気に入った紅茶を日乃子は大量に贈ってくれたのだ。

『ご自愛ください』と一言文を添えられて。

 一口飲めば花の香りが口いっぱいに広がり、まるで春の日にあたって揺れる花のような優しさが雪花を包み込んだ。


「……これも噂ですが、どうやら夕凪さまはご懐妊なさっているそうですよ。それで体調が悪くなってしまったとか」


「……」


 懐妊。

 夕凪は帝の子を孕んだのだ。

 夕凪の悍ましい笑顔が頭をよぎる。

 普段天真爛漫な彼女からは想像もつかない冷めた目といびつに歪む唇。きっと雪花にしか見せていない顔。

 そんな彼女が四人の中で最も早く懐妊するとは誰が想像しただろう。


「このままですと、皇后は夕凪さまになりますね。雫さまが最有力かと思っておりましたが……」


 帝の子を一番に産んだ妃が皇后になることができる。赤子の性別は関係なく、一番に産んだ妃が。

 帝の寵愛はずっと幼馴染である雫に向いていた。

 だから、天華宮で暮らす者たちは皆、雫が皇后になるとばかり思っていたのだ。

 だが、一番に懐妊の噂が流れているのは夕凪。天真爛漫で可愛らしい彼女も帝のお通いは多い方だったと思うが、まさかこうなるとは思わなかった。 


 雪花は手の中の紅茶を見つめた。

 芳醇な香りとあたたかさは、やはり心を落ち着ける。


(これから、何も起こらないと良いのだけれど)


 女の園。嫉妬や欲にまみれた怖い場所。

 正直誰が敵味方か分からないし、どこに敵が潜んでいるかも分からない。

 ただ一つの座を狙う女たちがのんきに夕凪を祝うわけないことは確かである。

 妃自身がその座に興味がなくても、家の繁栄や権限のために動き出す者がいるはずだ。

 何かが起こりそう、雪花は漠然とそう思った。


「それにしても……」


 琴乃が何かを言いかけた時だった。音を立てずに侍女が現れ、深々と頭を下げる。


「失礼致します。雪花さま、春陽さまがお見えになりました」


 最近よく聞く名に、雪花は宙を仰いだ。

 秋実の宴からというもの、六花殿によく春陽が顔を出すようになっていた。


 初めは雪花の体調を気遣っての訪問だった。しかし、治ったと伝えても特に用件はないのに頻繁に姿を現す。雪花の自室に入り浸り、茶を飲んで話をする。ただそれだけ。

 関わりを持ちたくない雪花は、何度も追い返そうとそっけなく応じているのに、春陽は懲りずにここにやってくる。冷たい言葉を掛けても無意味だった。

 だから雪花も追い返すことを諦めた。茶をお供に春陽の一方的な話を聞き流す。そうやって関わってきた。


「雪花殿、失礼します」


 襖から顔を覗かせた春陽は、今日も今日とて麗しい。

 優しさが滲み出る整った顔立ちに、丁寧な所作。雪花にこんな礼儀正しく接してくれる人は天華宮の中でも数少ない。

 春陽は目線を逸らし、黙ったままの雪花を気に留めることもなく、正面に座り込んだ。


「お茶を淹れてまいりますね」


 琴乃が立ち去り二人きりになると、春陽は風呂敷包みを差し出した。 


「雪花殿、こちらどうぞ」 


「……これは?」


 鮮やかな桃色の風呂敷包みに小首を傾げる。


「どうぞ開けてみてください」


 促され、開けると漆塗りの洒落た箱が出てきた。

 不思議に思いながら蓋を開けると、中には可愛らしい形の菓子が並んでいる。


「……まぁ」


 花の形をした最中だった。

 かすかにあんこの甘い匂いと最中の香ばしい香りが漂い、食欲をそそる。

 表情には出ていないはずだが、雪花の心は確かに踊った。


「ふふ、やはり甘いものがお好きなのですね」


「……」


 向かいに座る春陽は、雪花を見てにこやかに笑った。


「今日の手土産も喜んでいただけたようで。どうぞお召し上がり下さい」


 急に恥ずかしくなり、身体中が熱くなる。それに反比例するように部屋には弱い涼しい風が漂った。

 だが今はそれが心地良い。ほてった雪花の身体を風が覚ましてくれるようだった。


 春陽は雪花の元を訪れるたびに、手土産を持ってきてくれる。

 甘い和菓子に、茶。雪花の好物を持ってきては雪花の表情はいつも変わらないのに、反応を見て嬉しそうにする。

 何が良くて頻繁にここに来るのかよく分からない。

 それに春陽に会うたびに、雪花の気持ちは小刻みに揺れているのが分かる。

 嬉しくなったり、恥ずかしくなったり、感情を押し殺そうとしてもどうしても漏れ出てしまう。不思議な感覚。

 だから正直、春陽に会うことが怖かった。

 いつか雪花の持つ力のことが知られてしまうのではないかと。

 不安な気持ちを抱いている雪花とは対象に、春陽は穏やかに笑ってこちらを見るだけだった。


「……なぜ、いつも手土産を持ってきてくださるのですか? 他の妃にも同じように?」


 冷たい隙間風が吹く中、雪花はおずおずと切り出した。


「いえ、他は伺っていませんよ?」


「……そうなのですか?」


「えぇ、伺う理由もありませんし」


「……」


 だとしたらなぜ、雪花のところに顔を出すのだろうか。春陽のことがよく分からない。


「菓子を食べる時、雪花殿は表情さえ変わりませんが、嬉しそうな雰囲気が出ています。私は喜んでいるあなたのことをもっと知りたい」


 真っ直ぐな瞳に見つめられ、雪花は言葉を失った。

 無表情でそっけない雪花に興味を示す人などこれまであまりいなかった。

 皆、表情の変わらない表面だけを見て判断する。


 ――この人は冷たい、心のない、氷のような人だと。


 部屋の空気がどんどん下がっていくのを肌で感じる。


(このままでは……)


 春陽の前で力を発動させてしまう。

 焦る雪花とは裏腹に、春陽は雪花に笑みを向け続けた。


「雪花殿は、あまり感情が表に出ないようですが、何も感じていないわけではありませんよね? 私にはそれが伝わります」


「……っ!?」


 目の奥がじんわりと熱くなる。

 息をするのも忘れてしまい、胸が苦しい。

 気付いた時には、座っていた二畳台の端にうっすらと氷の膜が張ろうとしていた。


「雪花殿の本当の気持ちが知りたい」


「……春陽さまは、変わっていらっしゃいますね」


 無意識に口から飛び出た言葉。言い放った後に気付いた雪花は、思わず口を手で覆った。


「も、申し訳ございません……わたくし春陽さまになんて失礼なことを……」


 慌てる雪花を見て春陽は破顔した。


「謝ることはありません。ありのままの気持ちを聞けて嬉しいですよ?」


「あの、その……し、失礼いたします……」


「雪花殿?」


 雪花は顔を伏せたまま、急いで部屋を飛び出した。

 自分の力が溢れ出てしまいそうで、その場にいられなかった。

 だが、春陽の優しさが胸に残る。

 あの優しい言葉も笑みも、自分に向けられていたと思えば、自然と口元が緩むのだった。

 

 

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