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 どこか懐かしい匂いがする。

 柔らかくて暖かい、安心するようなそんな匂い。

 匂いに誘われて雪花はゆっくりと目を開いた。


(……ここはどこ?)


 さっきまで自室にいたはずなのに、目前に広がるのは青、白、水色の花が咲き誇る花畑だった。


(綺麗……)


 見渡す限りの花畑に心が奪われるが、見知らぬ場所に、すぐに不安も押し寄せる。

 そんな時だった。


「雪花」


 背後から聞こえてきた声に、雪花の動きが止まった。

 聞き間違えることなんてあり得ない、大好きな人の声。


(夢……なのかしら)


 雪花はここが現実の世界ではないことに気付く。


「雪花」


 心臓をばくばくさせながら、ゆっくりと振り返る。その先に見えた人影に、雪花は言葉を失った。


「……おかあさま」


 なんとか声を絞り出したが、細くて頼りない。そんな声でも出すので精一杯だった。


「雪花、大丈夫よ」


 雪花と同じ銀髪の長い髪が風でさらさらと流れる。


「お母さま、なにが大丈夫なの?」


 詳しく話を聞こうと母の元へ足を踏み出すが、どういうわけか雪花が前に進むたび、母は後退していく。


「待って、お母さま!」


 母は少し悲しそうに笑って後ろに下がるばかりだ。


「雪花、辛い思いをさせてごめんね。でも、もう大丈夫。もう少し、もう少しだからね」


「分からないわ……もう少しってなあに? なんのこと? お母さま!」


 雪花は必死に母を追いかけた。それでも距離が縮まることはない。


「待って……お母さまのところへ私も連れて行って……」


 雪花は唐突に足を止め、地面に咲く花を見つめた。

 もう疲れてしまったのだ。

 突然宿った冷たい力を扱うことができず、自分の気持ちを押し込めることが。

 発動させないように自身にも周囲にも嘘を吐き続けるのは正直疲れてしまう。

 母と一緒に行って楽になりたい。そんな気持ちが大きくなる。


「雪花」


 雪花は母の声に顔を上げた。なぜか母の目は潤んでいるが、笑顔を浮かべている。


「雪や氷はいつか溶けて水になって流れていく。寒さはいずれ和らぎ春になる。大丈夫よ、雪花。暖かな日が差す時が来るわ。自分を、周りの人を信じて」

 

 母は優しく笑うと、あたたかな光に包まれた。その眩しさに目を細める。


「待って、おかあさまっ! 置いていかないで……!」


 母に向かって懸命に手を伸ばす。しかし、手は届かない。


「おかあ、さまっ……」


 穏やかな笑みを残したまま、母はすっと消えた。何も掴めなかった手が宙に浮かぶ。

 ぽたぽたと涙が落ちる。涙が花に落ちた時、辺りは眩い光に包まれた。


 



 ゆっくりと目を開けた雪花は、ぼんやりと宙を眺めた。

 見慣れた天井に、ここが自室だと理解する。


(わたくし、どうしたのかしら?)


 一生懸命記憶を辿ると、泣いたまま気を失ったことを思い出した。


(気を失ってそのまま眠ってしまったのね)


 泣きすぎたせいか目が腫れぼったい。目をこすりながら雪花は身体を起こす。

 まだ寝ぼけている雪花の耳に、可愛らしく囀る鳥の声が聞こえた。

 縁側へ続く襖を開ければ、爽やかな秋風と共に柔らかな日差しが降り注ぐ。

 日差しの下に雪花は座り込んだ。


(もう朝…… わたくし長い間寝ていたのね)


 秋実の宴後、すぐに戻り、泣きながら気を失ってしまったことを思えば、かなりの時間寝ていたことになる。

 だが、おかげで心はだいぶすっきりしたし、部屋を覆っていた氷は解け、いつも通りに戻っていた。


 今見ていた夢のことをぼんやり思い出す。

 夢の中の花の匂いが、まだどこかに残っている気がした。


 ――雪花、ごめんね。


 ――雪や氷はいつか溶けて水になる。


 母の言葉の真意はなんだったのだろう。

 なぜ母は謝ったのだろうか。

 もう本人に聞くことができない疑問が浮かんでは消えていく。


(辛い思いって、この力のこと?)


 母は雪花の持つ力についてなにか知っているのだろうか。

 確かに、母が亡くなった後からだ。この力が発動するようになったのは。

 書物を読み漁ったが、今まで手掛かりを得たことなんて一度もない。知っていることがあるのなら、夢の中でもいいから教えてほしかった。


(今のわたくしを見たらお母さまはなんて言うかしら)


 昔の明るい、天真爛漫な自分はもうどこにもいない。母がいなくなったあの日に置いてきてしまった。


「雪花殿?」


 ふと名を呼ばれ、雪花は思考を止めた。

 呼ばれ慣れない『雪花殿』という呼ばれ方。琴乃ではない低い声に雪花はぎこちなく首を動かした。


 向いた方には昨日の宴ぶりである春陽とその側仕えが立っていた。

 突然の来訪者に雪花は躊躇いながらも自分を作り、姿勢を正す。


「……あなた様は」


「昨日ぶりですね。お加減はいかがですか?」


 やんわりと柔らかく笑う春陽の顔は思わず見入ってしまうほどに美しかった。

 春陽は雪花の側に座すと側仕えに退散するよう耳打ちする。動作一つ一つが優雅に見え、その間、雪花は無意識のうちに春陽の顔をじっと見ていた。


「あの? 何か?」 


「……っいえ。なんでもありません」


 咄嗟に顔を背ける。そういえば彼はどんな用事でここに来たのだろう。

 ここに来る人など滅多といないのに。


「突然訪問してすみません。昨日の怪我が気になりまして」


「……怪我?」


 雪花は何を言われてるか理解できず、首を傾げた。昨日の記憶はうろ覚えで、泣いて目がおかしいだけで他痛むところはない。


「火傷をされた手はどうなりましたか?」


「……あ」


 春陽の視線が雪花の手元に向いた時、雪花は昨日の出来事を鮮明に思い出した。

 力を発動させ、寒い部屋にいたから手の赤みも痛みも完全に引き、すっかり忘れていた。

 雪花は咄嗟に左手を右手で覆い隠した。ここで治っていることが知られたりでもしたら、不審に思われてしまう。


「……冷やしたので問題ありません。ご迷惑をお掛けいたしました」


 内心どきどきしながら平然と答える。そんな雪花に、春陽は一瞬顔を曇らせた。しかし、すぐに麗しい笑みに戻り、雪花に笑いかける。


「そうでしたか。それでしたらよかったです」


 口は災いの元。何かを言えば、疑われてしまいそうで、雪花は視線を彷徨わせながら口をつぐんだ。

 二人の間に沈黙が生まれる。


「そういえば」


 沈黙を破ったのは春陽だった。

 庭先を見る雪花の視界に、ずいと何かを差し出されたのが映った。

 視線だけを動かし見えたのは、秋らしい橙色の風呂敷包み。

 いつまでも笑みを崩さない春陽が差し出してくるので、雪花は渋々と手を伸ばし受け取った。


「開けてみてください」


 受け取った箱を床に置き、結び目を解くと、はらりと風呂敷が開く。

 上質な箱の蓋を開けた雪花は、中の物に目を奪われた。


「……これ」


 桃色、藤色、白、黄色。彩豊かな菊の形をした練り切りが上品に並んでいる。一つ一つ細部まで模様があり、桃色一つとっても色の濃淡が付いている美しい練り切りだった。

 見ているだけで思わず頬が緩んでしまいそうになる。


「甘いものと茶がお好きだとお聞きしましたが、違いましたか?」


 雪花の横顔を見た春陽は目を細めて言った。

 春陽の言葉に、意識を取り戻した雪花は鼻から息を大きく吸い込み自分を落ち着かせた。


「なぜ、わたくしにこちらを?」


 気付けば淡々とした口調でそんなことを聞いていた。ただ単に疑問に思ったのだ。帝の弟ともなれば執務も多いに決まっている。ここで雪花に時間を取る余裕などないはずなのに。


「昨日、夕凪殿の練り切りを召し上がっていた際に様子が違く見えましたので。これは職人に作らせた特注品ですから、味は私が保証します」


「……!」


 雪花はぎょっと春陽の顔を見た。昨日あんなに感情を押し殺したつもりだったのに、このお方には見透かされていたというのか。

 だが、思い返してみれば昨日の宴で雪花は何度かこの方と目が合っている。互いに相手を見ていなくては、目が合うはずがない。

 こんな無表情を貫く自分を見て何が面白いというのか。春陽の真意がよく分からない。

 春陽は雪花をじっと見ている。そんなに見られたら穴が空いてしまいそうだ。

 ふと、目と目が合った。 


(なにかしら……)


 こちらを見つめたまま何も話さない春陽に胸の内で小首を傾げていると、春陽はまっすぐな瞳で、言葉を発した。


「なぜ」


「……はい?」


「なぜ、我慢をするのですか?」


「……え?」


 春陽の言葉がやけに耳に残った。

 

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