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 秋実の宴の一切が終わった後、春陽は六花殿を訪れていた。


 去り際の雪花の表情が忘れられない。

 あの後、何事もなかったように宴は進んだが、心から楽しんでいたのは兄含め数人だけだった。

 特に日乃子は、眉を下げて雪花が去っていった方を見つめ、心ここに在らずだった。

 雪花の手には結構な量のお茶がかかっていたように見えた。それに、もくもくと湯気が立っていたから相当な火傷を負ったに違いない。

 側仕えに見舞品を用意させ、宴会場からそのまま六花殿に向かう。

 足を進めるたびに、なぜか背筋が凍るような冷たい空気が漂っている気がした。


(急に気温が下がったのか?)


 春陽は肌をさすりながら目的地を目指した。


「失礼。雪花殿はいらっしゃるだろうか?」


 宮殿の入り口付近で掃除をしていた侍女に声を掛けると、侍女たちは顔を見合わせ気まずそうな顔をした。


(一体何があったのだ?)


 誰もが口を閉ざす中、一人の侍女がおずおずと切り出す。


「……雪花さまは自室におりますが、今、お会いになることは難しいと思います」


「なぜ?」


「……それは」


 言葉を濁す侍女たちに、春陽はただならぬことが起きているのではないかと眉を顰めた。その時。


「……春陽さま?」


 背後から声がかかり振り向くと、先程の宴で雪花のすぐ近くに待機していた侍女が不思議そうにこちらを見ていた。


「あなたは……」


「六花殿の筆頭侍女をしております、琴乃と申します。先程は色々とご迷惑をお掛けいたしました」


 琴乃は深く頭を下げて宴のことを謝罪した。しかし、雪花も彼女も悪いことをしていないと春陽は知っている。


「いえ。先程のことはこちらの方こそ申し訳ない。配慮が足りなかった」


「そ、そんなことは……!」


「いいえ。天華宮で運営している宴であれば責任はこちらにある」


「それは違います……! いつものことですので……」


 思わず出たであろう本音。琴乃はすぐに我に返り、口に手を当てた。


「……いつものこと?」


 聞き捨てならず聞き返す。

 琴乃は不安そうにする他の侍女をちらりと見た後、声を顰めた。


「ここですと注目が集まってしまいます。春陽さまがよろしければお部屋へどうぞ」


 宮殿の奥に進む琴乃に黙ってついていく。

 六花殿の中は、静まり返っていた。人の話し声や足音もしない。そして風が吹き込んでくる訳でもないのに冷たい空気が身体に張り付き、春陽は軽く身震いした。


「琴乃殿、六花殿はいつもこのくらい静かなのか?」


 前を歩く琴乃に問いかける。琴乃は振り返ることもなく答えた。


「こちらには侍女は十人しかおりません。ですので、他の宮殿に比べて静かだとは思います」


「皇后候補の妃の侍女がたった十人しかいないだと? それはなぜ?」


「……雪花さまは賑々しいのが苦手なのです」


「……なるほど」


 それにしても不思議なところが多い。

 すれ違う数人の侍女たちも物静かに己の仕事をこなしているが、何より気になったのはその服装だ。

 季節は秋。確かに朝晩は冷えるが、今日は日中は暖かかった。

 それなのに宮殿の者たちの装いは真冬のように厚着である。

 ある侍女は首に襟巻きを巻き、ある侍女は中綿入りの羽織を身につけている。

 確かに六花殿は天華宮の北側の最も日の当たらないところに位置しているが、本当にそれだけが理由だろうか。

 それに、宮殿の奥に進むたびに寒さが増している気がする。

 春陽はたまらず声をかけた。


「……今日は日中、とても暖かかったが、冷え込むな。日が多く当たる場所ではないのだろうが、普段からもこんなに寒いのか? だとしたら何か手を打ってもらうよう兄に……」


「……いいえ、大丈夫です」


 琴乃の足がぴたりと止まり、春陽の言葉を塞いだ。後ろからでは表情が読めない。しかし、その声はとても弱々しい。


「こんなに寒いのは久しぶりです」


「……え?」


「……きっと時間が経てば、戻ると思います」


 言葉少なく琴乃はまた前に進む。

 意味がわからない。まるで寒さを誰かが操っているとでも言いたげな物言い。


(六花殿の……いや、雪花殿と琴乃殿は何かを隠している……?)


 春陽は首をさらに傾げながら着いていくと、ある部屋に通された。

 客間のような部屋は綺麗に整頓されており、普段から侍女たちが宮殿内を懸命に掃除、維持していることがすぐに分かる。


「こちらにどうぞ」


 琴乃と春陽は向かい合って座る。何と切り出そうか、琴乃の視線が泳いだ。

 たまらず春陽から声をかけた。


「先程のことを教えてほしい。いつも通りとはどういうことなのだ?」


 春陽の質問に、琴乃の表情は曇るばかりだった。

 自分が遊学している間に、この国は、この天華宮はだいぶ形が変わってしまったようだ。

 父の代では安定していた天華宮には黒雲が立ち込め、目に見えない糸が張り詰めている感じがする。

 それに少しでも触れれば、音を立てて何かが崩れていきそう。そんな気がした。

 春陽の真っ直ぐな視線に耐えられなくなった琴乃は、冷たい空気を深く吸い込み、つぷやくように話し始めた。


「……香風殿(こうふうでん)の夕凪さまは、雪花さまのことを大変嫌っているようでして。先程のように雪花さまへ当たってしまうことはよくあることなのです」


「……なんてこと」


「夕凪さまの行動は段々と酷くなってきているように感じます。私は雪花さまのことが心配でなりません」


「兄はこのことを……」


 春陽は言いかけて、不自然なところで言葉を止めた。先程の光景を思い出したのだ。

 兄は、雪花を心配する素振りも見せなかった。したがって、普段何か起きたとしても見て見ぬふりをしているのだろう。


「……なんてこと」


 思わず拳に力が入る。雪花をずっと目で追っていたが、夕凪に対して意地の悪い行動をとるわけでもなく、目立つわけでもない。それなのになぜ、彼女が標的にされるのだろうか。


「……雪花さまは自分のお気持ちを表現することが、あまり得意ではないのです。表情や態度が夕凪さまをご不満にさせているのかもしれません」


「それは……」


 春陽と目が合わないように、琴乃はおそらく雪花の部屋があるであろう場所を見つめながら言った。

 色々含んだ言い方に疑問は増え続けるばかりだったが、もう答えまいと琴乃は口を閉ざす。


「何かあったらいつでも知らせてほしい。何もしていない人が傷付くのはおかしな話だからな」


「お気遣いありがとうございます」


「一度、雪花殿のご様子を見に行っても?」


 春陽の案に琴乃は一瞬言葉を詰まらせ、面食らった顔をした。


「どうかしたのか?」


「……いえ。雪花さまを気にかけてくださる方はあまりおらず、少し驚いてしまいまして」


 雪花に向くのは異質なものを見るような冷ややかな目が多いようだ。琴乃は驚いていたが、すぐに気を戻し首を左右に振った。


「今、雪花さまのお部屋に近づくことは難しいので、春陽さまのお願いでもこればかりは……」


 何かを隠すような物言いに、春陽の疑問は膨らむばかりだった。

 やんわりと頼んでも頑なに断られる。とうとう春陽は折れ、また日を改めて伺う約束をした。


(彼女と話をしてみたい)


 儚く消えてしまいそうに美しいが、能面のように全く変わらない表情。感情をどこかに置き忘れてきたような雪花のことが頭から離れない春陽だった。

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