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 先日初めて見た彼女は今日も深刻そうな顔をしていた。あの日から春陽の頭に彼女の存在がちらついて離れない。


 宴が始まる前、屏風の陰から彼女を見た時も人々の輪に入らず一人で、気になって敦矢に問うてみたが、なぜかはぐらかされて終わったのだった。


 春陽が異変を感じたのは、夕凪が茶菓子を配った後だった。


「おお、なんと美しい」


 隣に座る兄もご満悦に茶菓子を頬張る。春陽も目下に置かれた菓子を持ち上げ、一口口に入れた。

 ふんわりと優しい甘さが口に広がる。


(確かにこれは美味い)


 甘いもの好きな春陽も思わず唸るほどの美味しさだった。


(やはり母国の菓子は美味いな)


 隣国にも菓子はあったが、天華国のような見た目も味も楽しめる菓子は少なかった。

 鮮やかな色合いと程よい甘さを兼ね備えた菓子は、やはり母国の自慢だろう。

 流石にこの美味しさに、あの雪花の表情も緩むのではないかと、春陽は彼女を見た。しかしーー


(……なんだ?) 


 どこか様子がおかしい。

 他の人は皆菓子と会話に夢中で、誰も気づいていないようだが、明らかに顔色がおかしかった。

 白い肌が青白くなりかけ、顔色が悪く見える。そして、菓子を包む懐紙と黒文字を手にしたまま微動だにしない。


(彼女に何があった?)


 周囲を見回すが、皆楽しそうに話しており、特に何かをしたわけではなさそうだった。雪花の後ろに座る侍女と思わしき女性が声をかけているが、その反応もいまいち。

 菓子の続きを食べることも忘れ、春陽は思考を巡らせた。

 彼女の所へ行き、声を掛けたいが、神聖な宴での勝手な振る舞いは許されない。

 一人、そわそわしていると、茶を立てていた夕凪が手を止め、声を発した。

 その声に人々の視線が雪花に向く。

 注目の的となった雪花は、先程までと一変、何もなかったかのように菓子を食べ出した。


「あまりにも美味しく味わっておりました。とても美味しいお菓子でした」


 にこりともせず、淡々と答える。

 人々は表情の変わらない雪花に特に気に留める姿もない。

 春陽はそこでついこの間兄が言っていた言葉を思い出した。


 ――女は愛想良くしていれば良い。にこりともせず、冷たい奴は論外だ。あいつはどんな時でも表情を変えない。まるで氷だな。


 春陽が直接聞いた訳ではない。

 確か、兄と夕凪が大広間で宴会を開いていた時に聞こえてきたのだ。

 その時はあまり気にしなかったが、今日の姿を見る限り、きっと雪花のことを言っていたのだろう。

 彼女はいつも表情を変えないというのだ。

 なぜ?

 疑問が膨らむ。


 皆の視線が雪花から離れ、夕凪に戻る。

 春陽も夕凪の手元を見ていたが、やはり雪花のことが気になってしまい、彼女のことを盗み見た。

 だいぶ落ち着きを取り戻した雪花は突然、春陽に視線を向けた。

 雪花の視線が自分に向いていることを自覚した春陽は、思わず口をゆっくり動かした。


『だいじょうぶ、ですか?』


 内容を理解したであろう雪花は、目を少し見開きながら、こくりと頷き、また視線を外した。

 少しの間だったが、雪花と意思疎通を図ることができ、頭の中を巡っていた疑問がやんわりと晴れた気がした。


(良かった)


 靄が晴れかかった時、ちょうど夕凪のお茶が立て終わった。


「お待たせ致しました。粗茶ができましたので、お配りに参ります」


 夕凪は盆に五つの茶碗を並べ、兄から配膳していく。


「主上、どうぞお召し上がりください」


「うむ、頂こう」 


 兄が茶を啜るのを、どこか心配そうな笑顔で見守る夕凪。一口飲んだ兄は自分には向けないような優しい笑みで夕凪を見た。


「とても美味だ、夕凪」


「……! 誠にございますか!」


「あぁ。また立ててくれるか?」


「もちろんでございます!」 


 明るい雰囲気の二人。兄もそのように優しく笑えるのか、とどうでも良いことが頭に浮かぶ。


 兄弟といっても、異母兄弟の兄と自分。

 歳の近さゆえ、比較されることが多かった。春陽自身はあまり気にしていなかったが、兄はとても気にしていた。

 だからにこやかな笑みを向けられたことも、一緒に遊んだ記憶もほとんどない。

 そんな兄の笑顔を見て、不思議な気持ちになった。


「春陽さまもどうぞ」


 置かれたのは爽やかな緑色の茶。綺麗な色に、鼻をくすぐる茶の匂い。確かにこれは美味しそうだ。


「頂きます」


 茶を味わいながら周囲を見渡す。

 夕凪は茶碗を乗せた盆を持ち静々と歩き、妃たちに茶を振舞っていた。


「夕凪さま、茶の湯とってもお上手なのですね」


「ふふ、ありがとうございます」


 褒められて鼻高々な夕凪は最後の妃、雪花の元へ向かった。

 夕凪の視線が、一瞬だけ雪花を捉えた。


「雪花さま、遅くなり申し訳ございません……こちらをどう……っあ!」


 時間がゆっくりと過ぎていくようだった。

 雪花の目の前に座ろうと膝を折った夕凪が、体制を崩し、盆の上に置かれた茶碗が大きく傾く。

 傾いた先は、雪花だった。

 がしゃん、と茶碗が割れる鈍い音が響き渡り、辺りが静まり返ったのも束の間、すぐに悲鳴が響き渡った。


「ゆ、雪花さまっ……!」


 雪花の侍女が慌てて彼女の元に駆け寄る。他の者たちも狼狽えていた。

 雪花は頭からびっしょりと濡れている。


「た、たいへん……!どなたか拭くものを頂けませんか……!」


 おろおろと大声を出す侍女。

 雪花は、夕凪のお茶を全て被ってしまい顔や手、着物が濡れてしまっていた。


 他の妃や侍女たちが唖然とする中、春陽は自然と身体が動いていた。真っ先に席を立ち、毛氈の上を歩く。そして、懐に入れていた布を取り出した。


「今布を持って来させます。気休めにしかなりませんが、こちらお使いください」


「そ、そんな春陽さまの物をお借りするわけには……」


 この期に及んで渋る侍女の手に布を握らせる。


「そんなこと言っている場合ではありません。早く拭いて差し上げて下さい」


「も、申し訳ございません。お借りいたします」


 近くにくると、白い打掛が緑色に染まっているのが見えた。

 かなりの量の茶がかかったのだろう。ほとんどが雪花にかかったからか、毛氈や二畳台は汚れていない。

 雪花は下を向いたまま、微動だにしなかった。


「雪花さま、今お拭きしますからね……って、火傷されているじゃないですか!」


 雪花を拭いていた侍女が声を上げる。それにつられ彼女の手元を見てみれば、白い手が赤く痛々しい色になっていた。


「なんてこと……医官はいるか?」


 周囲に呼びかけようとするも、雪花は顔を上げることなく、ゆっくりと立ち上がった。


「……心配いりません。このくらい大丈夫です。お騒がせして申し訳ございませんでした」


 一言言い残し、雪花は踵を返す。

 その声は単調で、確かに感情が読み取れなかったが、春陽は感じるものがあった。

 それは多分、悲しみや怒り。負の感情。


「ちょっと、お待ち下さい」


 雪花の手を取り、引き止める。

 驚くほど冷たい手。しかし、お茶を浴びたであろう手の甲だけがじんわりと熱を持っていた。まるで湯気が湧き立ってきそうな手の甲。


「すぐに冷やしましょう。跡になってしまいますから」


「……いえ、自分で出来ますので」


 雪花は頑なに春陽を見ようとはしなかった。もともと細い声がより細く震えて聞こえる。


「ご心配をおかけ致しました」


 雪花は春陽の手を振り解くと、振り返ることなくその場を後にした。

 雪花の手を掴んでいた手は力無いまま空中に取り残され、空を切った。


「雪花殿……」


 雪花の背中に春陽の声は届かなかった。


(なぜそんなにも、距離を取ろうとするのだろうか)


 春陽は消えゆく雪花の背中をただ見つめることしかできなかった。


「お、お待ちください……! 雪花さま!」


「雪花さまっ!」 


 彼女の後を追うように、六花殿の侍女も退散した。

 この場には割れた茶碗の破片と、へたり込む夕凪、それから言葉を発せないでいた周囲の人々が残る。

 一部始終を見ていた人々も気まずそうに雪花がいたところに視線を向けていた。日和殿の日乃子は泣きそうな顔で雪花の名を呼んでいる。

 冬のような身に染みる冷たい風が吹きつけた。場は、静寂に包まれる。


「も、申し訳ございません……」


 夕凪は泣きそうになりながら、兄に向かって頭を下げた。


「しょうがない。今のは事故だ。そこを片付けろ。続きをする」


 春陽はその言葉に耳を疑った。


 ……意味がわからない。


 まず夕凪は謝るべき人を間違っている。

 確かに、宴を滞らせてしまったのだから兄に謝るのも分かる。だが、何より謝罪しなくてはならないのは雪花にではないのか。彼女がいた時は一言も謝罪など口にしなかったのに。

 それに兄も兄だ。この状況で続行する判断を下すとはあり得ない。


「春陽、早く席に戻らぬか」


「……」 


「春陽」


「……承知しました」


 兄には抗えない。春陽は拳を握った。ひしひしと怒りが湧いてくる。

 今一度、雪花が座っていた二畳台を見た。そこで春陽はあることに気付く。


(あれは、氷?)


 雪花が座っていた二畳台の周りに、氷の破片が落ちていた。

 先が鋭く尖った小さな小さな氷の欠片。

 秋の陽気の中で、それは明らかに場違いだった。


(なぜこの時期に、そしてなぜここにこんなものがあるのだ?)


 触れようと手を伸ばすが、その途端、氷は音もなく溶けて消えてしまった。 

(……消えた)


「おい、春陽」


「……はい、ただいま」


 疑問が残りながらも、春陽は重い足取りで兄の隣に戻るのだった。

 

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