■第75話 最後の一日と100パーセントの夜、そして青空の別れ
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翌朝。
第九宿場町の食堂で、またしても代表に呼ばれ、朝食を共にすることになった。
しかし、僕の額にはダラダラと冷や汗が流れていた。
「銀騎士様ぁ、あーんしてくださぁい」
「お酌もしますねぇ、ふふっ」
なぜか今朝も、昨夜の宴席にいた(あるいは代表が気を利かせて手配した)別の美女が、僕の腕にピタリとくっつきそうな勢いで寄り添い、甲斐甲斐しく世話を焼いてくるのだ。
(だ、代表……なんて余計なお世話を……!)
横を見ると、案内人さんがニコニコと笑いながら、箸で分厚い雲海牛の肉をギリギリと力強く引きちぎっていた。痛い。視線が痛すぎる。
居心地の悪すぎる朝食を逃げるように終え、僕たちはいよいよ天空の浮島へ続く『最後の階段』を登ろうと正門の前に立った。
その時だった。案内人さんがふと、立ち止まったのだ。
「あの……銀騎士様」
「うん? どうしたの?」
彼女は少し俯き、ギュッと両手を握りしめて言った。
「本当は、ここで私は地元に戻る手はずになっていたのですが……もう一日、一緒に居てもよろしいでしょうか」
「えっ?」
予想外の言葉に、僕は間抜けな声を漏らした。
「ずっと、一緒にいてくれないの?」
僕が思わずすがるように尋ねると、彼女は悲しげに、けれど真っ直ぐに僕の目を見て首を横に振った。
「……私は、普通の女です。過酷な戦いに身を投じる、冒険者さんの妻にはなれません。いつ命を落とすかもしれないあなたを、毎日不安と一緒に待ち続けることは……できないのです」
その言葉に、僕はハッとさせられた。
そうだ。僕はダンジョンの深淵を目指す冒険者。常に危険と死が隣り合わせの生活だ。彼女のような平和な空の街で暮らす普通の女性に、そんな呪いのような不安を一生背負わせるわけにはいかないのだ。
「でも……」
彼女はふわりと微笑み、僕の純銀の鎧の腕にそっと両手を回した。
「あと一日だけ、私にお時間をください」
「……うん。分かった」
僕も覚悟を決め、彼女の手を優しく握り返した。
限られた時間だからこそ、美しく尊いものがある。最後の一日、極限まで彼女を楽しませようと、僕は心に誓った。
そこからは、これまでの旅で一番楽しい道中だった。
僕たちは腕を組み、ピッタリと密着しながら急な階段を登った。冗談を言って笑い合い、お互いの温もりを確かめ合いながら、最後の一歩一歩を踏みしめていく。
そして――。
「着いた……!」
大雲海を完全に抜け、光り輝く空の頂。
ついに僕たちは、第四部の終着点である『天空の浮島』へと到達した。
そこは、神々しい白亜の建築物が立ち並び、澄み切った青空に包まれた、まさに空の楽園のような美しい街だった。
「よし! 案内人さん、せっかくだから服をプレゼントするよ。好きなのを選んで!」
「本当ですか!? わぁ、ありがとうございます!」
僕たちは二人で街を散策し、お洒落なブティックへと入った。
彼女は目を輝かせながら、次々とドレスを試着室へ持ち込んでいく。
「銀騎士様、これはどうですか?」
「うん、すごく似合ってる!」
「じゃあ、こっちの青いのは?」
「おお、それも似合ってるね!」
「……じゃあ、この白いドレスは?」
「うん! どれも全部似合ってるよ!」
僕が正直な感想を述べ続けていると、案内人さんはむすっと頬を膨らませてむくれてしまった。
「もう! 銀騎士様、ちゃんと見てないでしょ!」
「み、見てるよ! 本当に全部可愛いんだってば!」
「嘘です! 適当に言ってるだけですー!」
女心の難しさにタジタジになりながらも、僕は真剣に悩み、彼女の白い肌と亜麻色の髪に一番似合う、美しい純白のドレスを選んで購入した。プレゼントを受け取った時の彼女の嬉しそうな笑顔は、天空の景色よりも輝いていた。
夕暮れ時。
僕たちは、天空の浮島で一番の最高級宿へと足を踏み入れた。
宿の計らいで、自慢の絶景露天風呂を貸切にしてもらい、二人で最後のお湯に浸かる。
茜色に染まる雲の絨毯を見下ろしながら、お湯の中でお互いの肌に触れ合う。
言葉は少なくても、二人の間に流れる想いは十分に伝わっていた。
湯上がり。
いよいよ案内された寝室には、僕がこの長い階段の旅の果てに夢見た、究極の寝具が待っていた。
「こちらが、当宿の誇る『雲含有率100パーセント』のベッドでございます」
それは、もはや形を持たない『本物の雲』そのものだった。
枠組みすらなく、空の魔法によって部屋の中央にふわりと留まっている純白の塊。
僕と案内人さんは、互いの手を取り合い、覚悟を決めてその純白のベッドへと身を委ねた。
ボッフゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ……!!
含有率100パーセント。それは、完全なる無重力空間だった。
重力という概念が完全に消え去り、空の彼方に二人きりで浮かんでいるかのような、神秘的で極上の感覚。
体が溶けてしまいそうなほどの究極の柔らかさの中で、僕たちは互いの体を強く、強く抱きしめ合った。
天の頂、二人きりの天国。
僕たちは最後の一夜を、明け方の光が部屋を優しく包み込むまで、心ゆくまで愛し合い、楽しむのだった。
そして、残酷なまでに美しい朝が訪れた。
含有率100パーセントの雲のベッドの中で、僕たちはどちらからともなく身を起こした。
「……おはようございます、銀騎士様」
「おはよう、案内人さん」
彼女の亜麻色の髪を撫でると、彼女はふにゃりと愛らしい笑顔を見せた後、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「暗くなる前に、地元の第九宿場町まで帰り着かないといけませんから……お昼前には、ここを出発します」
「……そっか。もう、時間なんだな」
帰りの下り階段は登りより早いとはいえ、天空の浮島から第九宿場町まではそれなりの距離がある。昼前に出発しなければ、安全な時間には帰り着けないのだ。
僕たちは名残惜しさを断ち切るようにベッドから降り、身支度を整えた。
宿を出て、天空の浮島の街を並んで歩く。昨日のようなはしゃいだ声はなく、ただお互いの歩調を合わせる静かな時間が流れていた。
午前十一時。天空の浮島へと続く、大階段の頂上。
帰り支度を整えた案内人さんは、僕が昨日プレゼントした純白のドレスの入った箱を、宝物のように両手でしっかりと抱きしめていた。
「銀騎士様……ここまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました。私、この旅のこと、そして昨日の夜のこと……一生、絶対に忘れません」
「俺もだよ。案内人さんがいてくれたから、この大階段の旅は、思い描いていた何百倍も素晴らしいものになった。本当にありがとう」
吹き抜ける空の風が、彼女の髪を優しく揺らす。
強がっていた彼女の大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……泣かないって、決めてたのに」
「無理しなくていいよ」
僕は一歩踏み出し、純銀の鎧越しに彼女をそっと抱き寄せた。
そして、これがお互いの道を分かつ合図だと理解しながら、最後の、長く優しいキスを交わした。
唇が離れると、彼女は涙を拭い、満面の、世界で一番美しい笑顔を作った。
「銀騎士様。どうか、お気をつけて。あなたの冒険が、素晴らしいものでありますように」
「案内人さんも。元気でね」
彼女はきびすを返し、白亜の大階段を一段、また一段と降りていく。
何度か立ち止まっては振り返り、その度に大きく手を振ってくれた。僕も、彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り返し続けた。
やがて、彼女の小さな背中は真っ白な雲海の中へと溶け込み、完全に見えなくなった。
「……行っちゃったな」
見上げる空はどこまでも青く、澄み切っている。
胸の奥にギュッと締め付けられるような切なさを抱えながらも、僕の心は、決して後悔ではなく、彼女がくれた温かい思い出で満たされていた。
「さて……俺も、次へ行かなくちゃな」
僕は純銀の兜を被り直し、天空の浮島のさらに先へと続く、新たなダンジョンの扉へと歩き出した。
大階段と、極上の雲布団と、美しい案内人さんとのひと夏の恋。
空の階層での忘れられない日々を胸に刻み、銀騎士は再び前へと進んでいくのだった。
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