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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
西条の朝

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9/35

ちゃんとしとる人

「叔母さん」

「ん」

「真鍋さんって、どんな人ですか」

 静江はうどんを啜り、少し考えた。

「よう笑う人」

「笑う」

「人当たりがええね。酒屋さんじゃけえ、お客さん相手が上手なんよ」

「ああ」

「嫌な感じはせんと思うよ」

 静江はそう言ってから、少しだけ栞を見た。

「でも、栞ちゃんは苦手かもしれんね」

 栞は箸を止めた。

「どうしてですか」

「ちゃんとしとる人じゃけえ」

「……私、ちゃんとしてる人が苦手そうですか」

「苦手そう」

 あっさり言われて、栞は返事ができなかった。

 静江は、ふふ、と笑った。

「ちゃんとしとる人を見ると、自分もちゃんとせんといけん気がするじゃろ」

 栞は器の中を見た。

 うどんの汁に、卵の黄身が少し溶けている。

「そうかもしれません」

「航平くんも、ほんまにちゃんとしとるかどうかは知らんよ」

「え」

「人が見るところが、ちゃんとしとるだけかもしれん」

 静江はかまぼこを一枚食べた。

 その言い方が、悪口には聞こえなかった。むしろ、少しだけ優しかった。

「叔母さん、人のことよく見てますね」

「見とるだけよ。分かっとるわけじゃない」

 静江はそう言って、うどんの汁を飲んだ。

 見ていることと、分かっていることは違う。栞はそれを、頭の中で小さく繰り返した。

 午後になると、日差しは少し強くなった。洗濯物はほとんど乾いているように見えた。

 静江は庭に出て、タオルの端を指で確かめた。

「これはもうええね」

 そう言って、洗濯ばさみを外す。

 かち。

 朝と同じ音がした。

「手伝います」

 今度は、栞が先に言った。

 静江は少しだけ振り返り、じゃあこっち、と言って白いタオルを渡した。

「これ、畳んで」

「はい」

「端と端、合わせて。急がんでええよ」

 栞はタオルを広げた。

 風を含んでいたタオルは、手の中で少しだけ膨らんだ。乾いている。けれど、布の重さはちゃんとある。

 端と端を合わせる。

 ずれる。

 もう一度合わせる。

 白いタオルは、東京の部屋のタオルより少し硬かった。

 静江は何も言わず、前掛けを外している。

 栞は、ゆっくり畳んだ。

 一枚。

 もう一枚。

「上手じゃね」

「そうですか」

「下手でも畳めればええけど」

 静江はそう言って、紺色の前掛けをかごに入れた。

 庭の空気が、朝よりも乾いている。

 洗濯物を取り込んだ物干し竿は、少し頼りなく見えた。そこに何かが並んでいたから、庭の景色はさっきまで形を保っていたのだと気づく。何もない竿は、ただの細い棒だった。

 台所に戻り、畳んだタオルを棚へ運ぶ。栞がタオルを重ねていると、外から車の音がした。

 軽いエンジン音が門の前で止まる。

 続いて、男の人の声が聞こえた。

「こんにちは」

 静江が、来たね、と言った。

 栞はタオルを持ったまま、少し動きを止めた。

「真鍋さんですか」

「たぶんね」

 静江は手を拭き、玄関ではなく勝手口の方へ向かった。

 栞も、持っていたタオルを棚に置いてから、その後ろを少し離れてついていった。

 勝手口を開けると、外の光が台所に差し込んだ。

 門の近くに、小さな白い車が停まっている。後ろの扉が開いていて、中に空の一升瓶を入れたケースがいくつか積まれているのが見えた。

 その横に、男の人が立っている。

 白いシャツの袖を肘までまくり、黒いパンツに、少し汚れたスニーカー。

 片手でケースを持ち上げ、もう片方の手で車の扉を押さえていた。

 最初に見えたのは、顔ではなく腕だった。

 ケースを二つ重ねて運びながら、勝手口の脇で靴先を器用にずらし、引き戸に肩を当てて開ける。手はふさがっているのに、動きに迷いがなかった。

「静江さん、空き瓶ここでええですか」

 声は明るすぎず、低すぎず、よく通った。

「ええよ。航平くん、暑かったじゃろ」

「店の冷蔵庫の前におるよりは、外の方が人間らしいです」

「またそんなこと言うて」

 静江が笑った。

 栞は、畳みきれなかった手ぬぐいを抱えたまま、勝手口の内側で立ち止まった。

 航平がケースを下ろす。瓶同士が触れて、軽い音がした。

 それからようやく、彼はこちらを見た。

「川瀬さん、ですよね」

 知らない人に名前を呼ばれて、栞は少しだけ背筋を伸ばした。

「……はい」

「真鍋です。駅前の方で酒屋をやってます」

 差し出された名刺は、角が折れていなかった。

 真鍋航平(まなべこうへい)

 名前の下に、小さく店の名が入っている。

 酒舗まなべ。

 紙は厚く、手触りがよかった。

 こういうものをちゃんと用意している人なのだ、と思った。それだけで、少し疲れた。

「昨日、東京から来られたんですよね」

「はい」

「長かったでしょう」

「座っていただけなので」

「それが疲れるんですよ。座ってるしかない時間って、意外と」

 航平はそう言って、ケースの取っ手にかけていた指を一度離した。

 爪は短く切られている。手の甲には、細かい傷がいくつかあった。名刺の紙と、その手の傷が、うまくつながらなかった。

「航平くん、透馬くんなら奥よ」

 静江が言う。

「ありがとうございます。先に空き瓶だけ置かせてもらいます」

「栞ちゃん、そこ危ないけえ、ちょっと下がっとき」

「あ、はい」

 栞は一歩下がった。

 航平は、ありがとうございます、と言った。誰に対しても、言葉が一つ多い。邪魔にならない程度に、きちんと添えられている。

 栞は、その言葉の置き方を見ていた。

 店の人だ、と思った。それも、たぶん、とても上手な店の人。相手の邪魔をしない距離で声をかけ、必要なところで笑い、引くところでは引く。

 書店で何度も見てきた。自分も、たぶん同じようなことをしていた。だからこそ、栞は少しだけ息苦しくなった。

 航平はケースを二つ置くと、軽く腰に手を当てて息を吐いた。

「今日、暑いですね」

「まだ朝よりましよ」

 静江が言う。

「朝は朝で、冷蔵庫の中みたいでしたよ」

「何それ」

「すみません、自分でもよく分かりません」

 静江がまた笑う。

 栞は、うまいなと思った。

 面白すぎない。でも、場が少しだけやわらかくなる。そういう言葉を選ぶ人。

 航平は栞の方を見た。

「川瀬さん、本屋さんで働かれてるって聞きました」

 来た、と思った。

 体のどこかが、静かに固くなる。

「……はい」

「小説の担当なんですよね」

「一応」

「一応、なんですか」

「担当ではあるので」

「なるほど」

 航平は小さくうなずいた。

「短い言葉で、知らない人に手に取ってもらう仕事ですよね」

 栞は、すぐには返事ができなかった。

 同じようなことを、昨日から何度も言われている。

 透馬にも。店長にも。それから、自分自身にも。

「そんなに、ちゃんとしたものじゃないです」

「そうなんですか」

「売り場に置く紙なので」

「でも、置く場所で人の手は止まりますよ」

 航平はさらりと言った。

 褒めているのだろうか。頼もうとしているのだろうか。それとも、ただ事実として言っているのだろうか。

 栞には分からなかった。分からないのに、どれでも少し痛かった。

 奥から透馬の声がした。

「真鍋くん、来た?」

「来ました」

 航平はそちらへ顔を向ける。

「じゃあ、またあとで」と、誰に言ったのか分からないくらい自然に言って、航平はファイルを持ち直し、蔵の方へ歩いていった。

 その背中は、まっすぐだった。

 静江が栞の横で、ほらね、と言った。

「何がですか」

「ちゃんとしとるじゃろ」

 栞は名刺を見た。

 酒舗まなべ。真鍋航平。

 角の折れていない名刺、きれいに切られた爪、瓶のケースを運ぶ手。

 相手ごとに少しずつ変わる声。

「……はい」

 栞は答えた。

 手の中の名刺は、紙なのに少し重かった。

 その日の夕方、栞はもう一度、庭に出た。物干し竿には何もかかっていない。朝の白いタオルも、紺色の前掛けも、棚や箱の中に収まっている。風だけが、竿の下を通り過ぎた。

 蔵の方からは、透馬と航平の声が少しだけ聞こえていた。

 言葉の中身までは分からない。ただ、何かを売るための話をしているのだろうと思った。

 栞は、名刺をポケットから出した。

 酒舗まなべ。

 明日か明後日、店を見に来ませんか。

 さっき休憩だと言って顔を見せたときに、航平はそう言った。

 本屋さんの棚と、少し似ていると思うので。

 栞は返事を曖昧にした。

 行きますとも、行きませんとも言わなかった。

 けれど、名刺は手の中に残っている。畳んだタオルの手触りと、名刺の紙の手触りが、まだ指にあった。

 どちらも、今日この家で渡されたものだった。どちらも、扱い方が少し難しかった。

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