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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
西条の朝

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8/35

河本酒造

 外へ出ると、朝の光がまぶしかった。

 庭の洗濯物は、さっきよりも少し乾きはじめているように見えた。

 白いタオルの端が風で持ち上がり、紺色の前掛けがゆっくり揺れる。

 静江は玄関でサンダルを履いた。

「こっち」

 家の奥へ回ると、昨日暗くてよく見えなかった建物が見えた。

 白い壁。黒い瓦。古い木の扉。軒先には、木の札がかかっていた。

 河本酒造。前掛けと同じ字だった。

 栞は、少し足を止めた。

 酒蔵というものを、初めて近くで見た。

 観光地の写真で見るような、きれいに整えられた建物を想像していたのかもしれない。

 目の前にある蔵は、もっと普通で、もっと使い込まれている感じがした。

 壁の下の方には水の跡があり、扉の取っ手は何度も握られた色をしている。軒下にはホースが巻かれ、長靴が並び、乾きかけの雑巾がかけられていた。特別な場所というより、日常の中で働く場所だった。

「おはようございます」

 静江が中へ声をかけた。奥から、水の音が返ってきた。

 しばらくして、男の人が出てきた。作業着に前掛けをしている。背は高くないが、肩が厚い。髪には白いものが混じり、額には深い皺があった。

 手に持っていた布巾から、水がぽたりと落ちた。

「おはようございます」

 栞は反射的に頭を下げた。

 男の人は、栞を一度見た。

 目が合ったのは、本当に短い時間だった。

「どうも」

 声は低かった。

「東京から来た、姪の栞ちゃん」

 静江が言う。

「川瀬です。お世話になります」

「聞いとる」

 それだけだった。

 男の人は布巾を絞り直し、また奥へ戻ろうとする。

「久住さん、今日ちょっと見せてもろうてもええ?」

 静江が聞くと、久住と呼ばれた人は振り向かずに言った。

「邪魔せんなら」

「ほら、ええって」

 静江は小さく笑った。

 栞は、それは本当に『ええ』のだろうかと思った。

 歓迎されている感じは、あまりなかった。

 蔵の中は、外より少し涼しかった。

 どこか水の匂いがする。それから、米のような、木のような、何かが湿った匂い。

 床はところどころ濡れていて、栞は足元を見ながら歩いた。

 大きな桶、積まれた道具、壁にかけられたホース、白い布。

 何が何のためのものなのか、ほとんど分からない。分からないまま、栞は黙って見た。

 久住厳(くずみげん)は、ほとんど説明をしなかった。静江も、細かく説明しなかった。ただ、ここは踏まんといて、そこは濡れとるけえ、と必要なことだけを言う。

 水が流れる。布が絞られる。何かの器具が置かれる。

 ひとつひとつの音が、東京の書店とはまるで違っていた。

 書店では、紙が擦れる音、レジの音、客の足音、台車の音がする。

 ここでは、水が何度も音を変える。

 流れる音、跳ねる音、吸われる音、落ちる音。

 栞は、その音を聞いていた。

 少し離れたところで、厳が道具を拭いている。手の動きに迷いがなかった。何度も何度も同じことをしてきた人の手だった。

 栞は、自分の手を見た。

 右手の小指の横に、ペンの跡が薄く残っている。昨日の夜、少しこすったのに、まだ消えていなかった。

「久住さん、怖いじゃろ」

 静江が小さな声で言った。

 栞は少し慌てた。

「いえ」

「顔が」

 静江はさらりと言った。

 奥で厳が、聞こえとる、と言った。

 静江は笑った。

 栞も、少しだけ笑った。

 厳は笑わなかった。けれど、怒っているようにも見えなかった。


 蔵を出ると、日差しが少し強くなっていた。

 栞は目を細めた。

 庭の方では、洗濯物がさらに白く見えた。タオルが、朝よりも軽そうに揺れている。

「おはようございます」

 そのとき、門の方から声がした。

 振り向くと、男の人が一人、こちらへ歩いてくる。

 栞より少し年上に見えた。

 シャツの袖をまくり、片手に書類の入ったファイルを持っている。

 歩き方が早い。けれど、急いでいるわけではなさそうだった。

「静江さん、朝から見学ですか」

「透馬くん、おはよう」

「おはようございます」

 透馬と呼ばれた男は、栞に目を向けた。

「あ、栞ちゃん?」

 初対面の距離より、少し近いところから声が届いた。

 栞は頭を下げた。

「川瀬栞です」

河本透馬(かわもととうま)です。一応、親戚です」

「一応?」

「ちゃんと説明すると長いんよ。静江さんの嫁ぎ先の、まあ、だいたい甥みたいなものです」

 透馬はそう言って笑った。笑い方は明るかった。けれど、目元に少し疲れがあった。

「東京から来たんよね」

「はい」

「本屋さんで働いとるって聞いた」

 栞は、一瞬だけ静江を見た。

 静江は知らない顔で、洗濯物の方を見ていた。

「……はい」

「小説のPOPとか書いとるんじゃろ?」

「まあ、担当なので」

「すごいねえ」

「いえ、そんな」

「いや、短い言葉で手に取ってもらうのって、難しいじゃろ」

 栞は、返事をしなかった。

 昨日、店長にも似たようなことを言われた。

 若い人に刺さる感じ。短い言葉。手に取ってもらう。

 ここへ来ても、その言葉は追いかけてくるらしい。

 透馬は悪気なく続けた。

「うちも、そういうのが必要なんよ。今度、若い人にも飲んでもらえるような小瓶を出したくてね」

「透馬くん」

 静江が、少しだけ声を低くした。

 透馬はそこで口を閉じた。

「あ、すみません。来たばっかりの人に仕事の話することじゃなかった」

「いえ」

 栞は首を振った。

 いえ、と言う以外に何も出てこなかった。

 透馬は片手に抱えたファイルを持ち直し、蔵の方へ目を向けた。

「午後、真鍋くん来ます。酒屋の。試飲会の話、詰めたいって」

「そう」

 静江はうなずいた。

「真鍋くん、相変わらずよう動くねえ」

「動いてもらわんと困るんです。うちだけじゃ届かんところがあるけえ」

 透馬はそう言ってから、栞の方を見た。

「栞ちゃんも、時間あったら会ってみて。うちの酒、よう売ってくれとる人じゃけえ」

 酒屋さん。

 昨日までの自分なら、酒屋と聞いても何も思わなかった。けれど今は、本屋と少し似た匂いがする言葉に聞こえた。

 売る人、棚を作る人、知らない誰かに、手を伸ばしてもらう人。

 栞は庭の洗濯物を見た。

 白いタオルは、風を受けて少し膨らんだ。まだ完全には乾いていない。けれど、朝よりは確かに軽くなっているように見えた。

 静江は台所へ戻り、栞は言われるまま庭先の椅子に座った。

 何か手伝います、と一度言った。

 静江は流しの前で振り返らずに、じゃあ座っとって、と言った。

 座ることは手伝いではない。そう思ったけれど、他に言い返す言葉がなかった。

 庭の端には、古い鉢植えがいくつか並んでいた。紫蘇らしい葉が伸びていて、隣には何かの苗が倒れかけている。手入れが完璧というわけではなかった。枯れた葉もあるし、鉢のふちには土がこぼれている。

 それが、少しよかった。どこもかしこも整っていたら、栞はたぶん息が詰まっていた。

 洗濯物は、風に合わせてゆっくり動いている。

 白いタオルの端が、何度も同じ形にめくれて、戻る。紺色の前掛けは重いのか、あまり大きくは揺れなかった。

 河本酒造。白い文字が、布の波に合わせて少し歪む。

 栞はそれを眺めていた。

 東京の部屋に、会社名の入った前掛けやタオルはない。あるのは、本屋のエプロンと、洗い忘れた服と、いつもどこかに紛れる名札だけだ。

 川瀬。

 名前はまっすぐに直せる。中身までは直らない。

 そんなことを思っていると、台所の方から包丁の音がした。

 一定の速さで、何かを切っている。

 その音を聞きながら、栞は椅子の背にもたれた。

 午前中の光は、東京で見るものより白く感じた。

 たぶん、場所のせいではない。自分が何もしていない時間に慣れていないだけだ。

 スマートフォンを開くと、職場のグループチャットには新しい通知が来ていた。

 平台の補充、客注の確認、フェア棚の写真。栞は通知の中身を見ようとして、やめた。見ても、今は何もできない。何もできないのに見るから、疲れるのだ。

 そう思って画面を伏せる。すぐにまた、気になる。指が勝手に伸びかけたとき、静江が台所から顔を出した。

「栞ちゃん、昼、うどんでええ?」

「あ、はい」

「卵入れる?」

「お願いします」

「はいよ」

 それだけ言って、静江はまた台所へ戻った。

 栞はスマートフォンから手を離した。

 卵。

 うどん。

 シンプルなそれが、なんだかおいしそうな響きに聞こえた。

 昼食は、やわらかいうどんだった。

 卵は半分ほど固まり、黄身のところだけが少しとろりとしていた。ねぎと、薄いかまぼこが二枚入っている。

「熱いけえ、気をつけんさい」

 静江は自分の器を持って、向かいに座った。

 朝と同じように、無理に話しかけてこない。

 栞は箸でうどんを持ち上げた。長い。啜るのが少し下手になって、途中で切れた麺が汁の中に落ちた。

 静江は見ていたかもしれないが、何も言わなかった。

 食べながら、栞はさっきの透馬の言葉を思い出していた。

 若い人にも飲んでもらえるような小瓶、短い言葉で手に取ってもらう、うちだけじゃ届かんところがある。

 どこへ行っても、届くか届かないかの話になる。

 書店も、酒蔵も。きっと、ほかの場所も。

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