河本酒造
外へ出ると、朝の光がまぶしかった。
庭の洗濯物は、さっきよりも少し乾きはじめているように見えた。
白いタオルの端が風で持ち上がり、紺色の前掛けがゆっくり揺れる。
静江は玄関でサンダルを履いた。
「こっち」
家の奥へ回ると、昨日暗くてよく見えなかった建物が見えた。
白い壁。黒い瓦。古い木の扉。軒先には、木の札がかかっていた。
河本酒造。前掛けと同じ字だった。
栞は、少し足を止めた。
酒蔵というものを、初めて近くで見た。
観光地の写真で見るような、きれいに整えられた建物を想像していたのかもしれない。
目の前にある蔵は、もっと普通で、もっと使い込まれている感じがした。
壁の下の方には水の跡があり、扉の取っ手は何度も握られた色をしている。軒下にはホースが巻かれ、長靴が並び、乾きかけの雑巾がかけられていた。特別な場所というより、日常の中で働く場所だった。
「おはようございます」
静江が中へ声をかけた。奥から、水の音が返ってきた。
しばらくして、男の人が出てきた。作業着に前掛けをしている。背は高くないが、肩が厚い。髪には白いものが混じり、額には深い皺があった。
手に持っていた布巾から、水がぽたりと落ちた。
「おはようございます」
栞は反射的に頭を下げた。
男の人は、栞を一度見た。
目が合ったのは、本当に短い時間だった。
「どうも」
声は低かった。
「東京から来た、姪の栞ちゃん」
静江が言う。
「川瀬です。お世話になります」
「聞いとる」
それだけだった。
男の人は布巾を絞り直し、また奥へ戻ろうとする。
「久住さん、今日ちょっと見せてもろうてもええ?」
静江が聞くと、久住と呼ばれた人は振り向かずに言った。
「邪魔せんなら」
「ほら、ええって」
静江は小さく笑った。
栞は、それは本当に『ええ』のだろうかと思った。
歓迎されている感じは、あまりなかった。
蔵の中は、外より少し涼しかった。
どこか水の匂いがする。それから、米のような、木のような、何かが湿った匂い。
床はところどころ濡れていて、栞は足元を見ながら歩いた。
大きな桶、積まれた道具、壁にかけられたホース、白い布。
何が何のためのものなのか、ほとんど分からない。分からないまま、栞は黙って見た。
久住厳は、ほとんど説明をしなかった。静江も、細かく説明しなかった。ただ、ここは踏まんといて、そこは濡れとるけえ、と必要なことだけを言う。
水が流れる。布が絞られる。何かの器具が置かれる。
ひとつひとつの音が、東京の書店とはまるで違っていた。
書店では、紙が擦れる音、レジの音、客の足音、台車の音がする。
ここでは、水が何度も音を変える。
流れる音、跳ねる音、吸われる音、落ちる音。
栞は、その音を聞いていた。
少し離れたところで、厳が道具を拭いている。手の動きに迷いがなかった。何度も何度も同じことをしてきた人の手だった。
栞は、自分の手を見た。
右手の小指の横に、ペンの跡が薄く残っている。昨日の夜、少しこすったのに、まだ消えていなかった。
「久住さん、怖いじゃろ」
静江が小さな声で言った。
栞は少し慌てた。
「いえ」
「顔が」
静江はさらりと言った。
奥で厳が、聞こえとる、と言った。
静江は笑った。
栞も、少しだけ笑った。
厳は笑わなかった。けれど、怒っているようにも見えなかった。
蔵を出ると、日差しが少し強くなっていた。
栞は目を細めた。
庭の方では、洗濯物がさらに白く見えた。タオルが、朝よりも軽そうに揺れている。
「おはようございます」
そのとき、門の方から声がした。
振り向くと、男の人が一人、こちらへ歩いてくる。
栞より少し年上に見えた。
シャツの袖をまくり、片手に書類の入ったファイルを持っている。
歩き方が早い。けれど、急いでいるわけではなさそうだった。
「静江さん、朝から見学ですか」
「透馬くん、おはよう」
「おはようございます」
透馬と呼ばれた男は、栞に目を向けた。
「あ、栞ちゃん?」
初対面の距離より、少し近いところから声が届いた。
栞は頭を下げた。
「川瀬栞です」
「河本透馬です。一応、親戚です」
「一応?」
「ちゃんと説明すると長いんよ。静江さんの嫁ぎ先の、まあ、だいたい甥みたいなものです」
透馬はそう言って笑った。笑い方は明るかった。けれど、目元に少し疲れがあった。
「東京から来たんよね」
「はい」
「本屋さんで働いとるって聞いた」
栞は、一瞬だけ静江を見た。
静江は知らない顔で、洗濯物の方を見ていた。
「……はい」
「小説のPOPとか書いとるんじゃろ?」
「まあ、担当なので」
「すごいねえ」
「いえ、そんな」
「いや、短い言葉で手に取ってもらうのって、難しいじゃろ」
栞は、返事をしなかった。
昨日、店長にも似たようなことを言われた。
若い人に刺さる感じ。短い言葉。手に取ってもらう。
ここへ来ても、その言葉は追いかけてくるらしい。
透馬は悪気なく続けた。
「うちも、そういうのが必要なんよ。今度、若い人にも飲んでもらえるような小瓶を出したくてね」
「透馬くん」
静江が、少しだけ声を低くした。
透馬はそこで口を閉じた。
「あ、すみません。来たばっかりの人に仕事の話することじゃなかった」
「いえ」
栞は首を振った。
いえ、と言う以外に何も出てこなかった。
透馬は片手に抱えたファイルを持ち直し、蔵の方へ目を向けた。
「午後、真鍋くん来ます。酒屋の。試飲会の話、詰めたいって」
「そう」
静江はうなずいた。
「真鍋くん、相変わらずよう動くねえ」
「動いてもらわんと困るんです。うちだけじゃ届かんところがあるけえ」
透馬はそう言ってから、栞の方を見た。
「栞ちゃんも、時間あったら会ってみて。うちの酒、よう売ってくれとる人じゃけえ」
酒屋さん。
昨日までの自分なら、酒屋と聞いても何も思わなかった。けれど今は、本屋と少し似た匂いがする言葉に聞こえた。
売る人、棚を作る人、知らない誰かに、手を伸ばしてもらう人。
栞は庭の洗濯物を見た。
白いタオルは、風を受けて少し膨らんだ。まだ完全には乾いていない。けれど、朝よりは確かに軽くなっているように見えた。
静江は台所へ戻り、栞は言われるまま庭先の椅子に座った。
何か手伝います、と一度言った。
静江は流しの前で振り返らずに、じゃあ座っとって、と言った。
座ることは手伝いではない。そう思ったけれど、他に言い返す言葉がなかった。
庭の端には、古い鉢植えがいくつか並んでいた。紫蘇らしい葉が伸びていて、隣には何かの苗が倒れかけている。手入れが完璧というわけではなかった。枯れた葉もあるし、鉢のふちには土がこぼれている。
それが、少しよかった。どこもかしこも整っていたら、栞はたぶん息が詰まっていた。
洗濯物は、風に合わせてゆっくり動いている。
白いタオルの端が、何度も同じ形にめくれて、戻る。紺色の前掛けは重いのか、あまり大きくは揺れなかった。
河本酒造。白い文字が、布の波に合わせて少し歪む。
栞はそれを眺めていた。
東京の部屋に、会社名の入った前掛けやタオルはない。あるのは、本屋のエプロンと、洗い忘れた服と、いつもどこかに紛れる名札だけだ。
川瀬。
名前はまっすぐに直せる。中身までは直らない。
そんなことを思っていると、台所の方から包丁の音がした。
一定の速さで、何かを切っている。
その音を聞きながら、栞は椅子の背にもたれた。
午前中の光は、東京で見るものより白く感じた。
たぶん、場所のせいではない。自分が何もしていない時間に慣れていないだけだ。
スマートフォンを開くと、職場のグループチャットには新しい通知が来ていた。
平台の補充、客注の確認、フェア棚の写真。栞は通知の中身を見ようとして、やめた。見ても、今は何もできない。何もできないのに見るから、疲れるのだ。
そう思って画面を伏せる。すぐにまた、気になる。指が勝手に伸びかけたとき、静江が台所から顔を出した。
「栞ちゃん、昼、うどんでええ?」
「あ、はい」
「卵入れる?」
「お願いします」
「はいよ」
それだけ言って、静江はまた台所へ戻った。
栞はスマートフォンから手を離した。
卵。
うどん。
シンプルなそれが、なんだかおいしそうな響きに聞こえた。
昼食は、やわらかいうどんだった。
卵は半分ほど固まり、黄身のところだけが少しとろりとしていた。ねぎと、薄いかまぼこが二枚入っている。
「熱いけえ、気をつけんさい」
静江は自分の器を持って、向かいに座った。
朝と同じように、無理に話しかけてこない。
栞は箸でうどんを持ち上げた。長い。啜るのが少し下手になって、途中で切れた麺が汁の中に落ちた。
静江は見ていたかもしれないが、何も言わなかった。
食べながら、栞はさっきの透馬の言葉を思い出していた。
若い人にも飲んでもらえるような小瓶、短い言葉で手に取ってもらう、うちだけじゃ届かんところがある。
どこへ行っても、届くか届かないかの話になる。
書店も、酒蔵も。きっと、ほかの場所も。




