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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
西条の朝

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西条の朝

 目が覚める前から、音がしていた。

 かち、と鳴って、少し間が空く。また、かち、と鳴る。

 栞は、知らない天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。

 東京の部屋ではない。ベッドでもない。

 布団の下には畳があって、枕元には畳まれたままの浴衣が置かれている。昨夜、静江が「寝間着にでもしんさい」と出しておいてくれたものだった。

 かち。

 また音がした。

 布団から出て、窓から外を見下ろすと、白いものが揺れていた。

 それがタオルだと分かるまでに、少し時間がかかった。

 何枚も並んだ白いタオルが、朝の光を受けて膨らんだり、しぼんだりしている。

 洗濯物だ。

 そう思った瞬間、栞は東京の部屋に置いてきた洗濯かごを思い出した。

 途中で諦めたまま、床に置いてきた洗濯物が入った洗濯かご。

 洗剤は買った。タオルは洗った。服も少しは洗った。けれど、ほとんどの服はまだ残っている。

 帰る頃には、あの部屋の空気は少し濁っているかもしれない。

 かち。

 栞は窓を開けた。ひんやりした空気が体にぶつかってきた。

 窓から片手を出す。触れた冷たい空気に対抗するように、手がじゅわっと熱を持った。

 起きなければ、と思った。

 そう思ったことに、少しだけ驚いた。

 引っ込めた手で、跳ねた毛先を整える。

 昨夜、きちんと乾かしたつもりだったのに、どうして寝癖ってつくんだろう。

 不思議に思いながら、もう一度窓の外を見た。

 庭の奥、タオルの影から、静江が姿を現した。

 白い割烹着の袖をまくり、洗濯かごから洗濯物を一枚ずつ取り出している。

 物干し竿には、白いタオル、薄い灰色の手ぬぐい、紺色の前掛けが並んでいた。

 前掛けには、白い文字が染め抜かれている。

 河本酒造。

 昨日の夜、暗い道の奥に見えた建物の名前だろうか。

 静江は、前掛けの皺を両手で軽く伸ばしてから、洗濯ばさみで留めた。

 かち。

 その音が、朝の空気の中に小さく立つ。

 栞は、しばらくそれを見ていた。

 洗濯物を干すという動作は、こんなに手順のあるものだっただろうか。

 かごから出す。

 広げる。

 皺を伸ばす。

 風の通る向きに合わせて、少し間を空ける。

 留める。

 また次を出す。

 東京の部屋で、栞は洗った服を部屋干しのスタンドに引っかけるだけだった。

 乾けばいい。

 そう思っていた。

 乾かない日もあった。生乾きの匂いがして、着るのを諦めた服もある。

 静江は最後のタオルを干し終えると、空になったかごを腰に当てて、少しだけ空を見た。

 栞は、見ていることに気づかれる前にカーテンを閉じた。

 別に悪いことをしていたわけではない。それでも、誰かの朝を盗み見たような気がして、どきどきした。

 身支度をして、一階へ降りると、階段や廊下の板が小さく鳴る。

 台所からは、米の匂いがした。

 炊けた米の匂い。

 昨日のおにぎりと同じなのに、朝の光の中では少し違っていた。

「おはよう」

 静江は流しの前で手を拭いていた。

「おはようございます」

「よう眠れた?」

「はい」

「そう。顔、洗っといで。ご飯あるけえ」

 栞は洗面所へ行った。

 鏡の中の顔は、昨日より少し白く見えた。

 寝起きだからかもしれない。知らない家だからかもしれない。

 蛇口をひねると、水がすぐに冷たく出た。両手で受けて顔を洗う。

 東京の部屋の水と同じ水道水のはずなのに、違うもののような気がした。気がしただけだと、すぐに思い直す。

 ここへ来たからといって、全部が特別になるわけじゃない。

 タオルで顔を拭く。

 昨夜、棚から取ったものとは別のタオルが洗面台の横にかけられていた。

 乾いていて、少し硬い。

 台所へ戻ると、テーブルに皿が出ていた。

 おにぎりが二つ。卵焼きが二切れ。小さな器に、きゅうりの浅漬け。味噌汁の湯気。

 栞は座る前に、少しだけ立ち止まった。

「朝、あんまり食べられなくて」

 言い訳のように出た。

 静江は味噌汁をよそいながら、振り向かずに言った。

「ほうね。じゃあ一個でええよ」

「すみません」

「謝らんでええ。食べられんもんは食べられん」

 茶碗が置かれる。味噌汁の湯気が、栞の手元へ流れてきた。

 おにぎりを一つ取る。昨日より少し小さい。海苔は巻かれていない。表面に、白い塩の粒が少し見えた。

 口に運ぶと、米がほどけた。

 中には梅が入っていた。思っていたより酸っぱくて、栞は少しだけ目を細めた。

 静江はそれを見て、急須へ湯を注いだ。

「酸っぱかった?」

「少し」

「うちの梅、酸っぱいんよ」

「でも、おいしいです」

「ならよかった」

 静江は向かいに座り、自分の茶碗を手に取った。

 二人でしばらく黙って食べた。

 黙っていても、気まずくはなかった。

 味噌汁をすする音、箸が器に触れる音、外で鳥が鳴く声、遠くで車が通る音。

 何かを話さなければならない隙間が、あまりなかった。

 おにぎりを半分ほど食べたところで、指に米粒がついた。栞はそれをどうしようか迷った。舐めるのも少し行儀が悪い気がする。皿の端に置くのも変だった。

 静江が何も言わずに、濡れ布巾を栞の方へ寄せた。栞は小さく頭を下げて、それで指を拭いた。布巾は冷たかった。指先に残っていた米の粘りが、すっと取れる。

「今日、蔵の方見る?」

 静江が言った。

「見てもいいんですか」

「見てもええとこだけね。邪魔せんかったら怒られんよ」

「怒られるんですか」

「怒る人もおる」

 静江は味噌汁を飲んで、少し笑った。

「怖い人ですか」

「怖い顔の人はおるね」

「顔」

「顔だけで済めばええけど」

 冗談なのか本気なのか分からない言い方だった。

 栞は卵焼きを一切れ取った。少し甘い。東京で買う弁当の卵焼きより、味が濃かった。

「叔母さんは、毎朝こんなふうに作るんですか」

「こんなふうって?」

「ご飯とか、おにぎりとか」

「毎朝じゃないよ。パンの日もあるし、昨日の残りの日もあるし」

「そうなんですね」

「栞ちゃんが来とるけえ、ちょっとちゃんとしただけ」

 そう言われて、栞は返事に困った。

 ちゃんとされるほどの人間ではない。

 そう言いかけて、やめた。言ったら、静江を困らせる気がした。

 代わりに、卵焼きを食べた。

 食べ終えると、静江は栞の皿を見て言った。

「一個、食べたね」

「はい」

「残りは昼に食べてもええし、無理なら置いときんさい」

 栞は二つ目のおにぎりを見た。

 食べられそうな気もした。

 けれど、全部食べたら、あとで苦しくなるかもしれない。

「あとで食べます」

「うん」

 静江は、それを小皿に移してラップをかけた。当たり前のような手つきだった。

栞はその手を見ていた。

 ご飯を食べられる分だけ出す。残ったら包む。あとで食べる。

 そんな簡単なことを、東京の部屋ではほとんどしていなかった。

 残ったものは、だいたいそのまま駄目になった。駄目になったものを見たくなくて、冷蔵庫を開けなくなった。冷蔵庫を開けなくなると、何が入っているのか分からなくなる。分からないものは、また駄目になる。

 栞は湯呑みを持った。お茶は熱かった。

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