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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
返本の日

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6/35

西条の夜

 広島駅に着いたとき、外はもう暗かった。

 新幹線のホームには、まだたくさんの人がいた。仕事帰りらしいスーツ姿の人、土産物の袋をいくつも持った人、子どもの手を引く人。改札へ向かう流れに混じりながら、栞はキャリーケースの持ち手を握り直した。

 広島。

 駅名の表示を見ても、まだ自分がそこに来たのだという感じが薄かった。

 東京から数時間、座席に座って、窓の外を見たり、目を閉じたり、読みかけの本を開いて一ページも進まなかったりしているうちに、ここへ着いた。

 来ようと思えば、来られる場所だった。そのことが、まだ少し不思議だった。

 在来線へ乗り換える途中、売店に並んだ文字に目がいった。

 もみじ饅頭、牡蠣、お好み焼き、レモン。

 土産物の文字が、明るい照明の下に並んでいる。けれど、どれも今の栞には似合っていない気がして、何も買わずに通り過ぎた。

 西条行きの電車は、思っていたよりも人が少なかった。

 空いていた二人掛けの座席に詰めて座ると、ガラスに自分の顔が映った。東京駅で見たときより、少しだけぼんやりしている。照明のせいかもしれない。疲れのせいかもしれない。どちらでもよかった。

 電車が動き出す。

 車内のアナウンスが流れ、駅が少しずつ離れていく。

 ふと鞄の中のメモ帳が頭をよぎった。仕事用のメモ帳はロッカーに置いてくればよかったのに、いつも通り仕事終わりに鞄の中に入れて、そうしたらもう出すことができなかった。

 休みに来たのか、逃げに来たのか、遅れてきた修学旅行なのか。どれも少しずつ違って、どれも少しずつ当たっている気がした。

 窓の外は、すぐに暗くなった。

 ところどころに家の明かりが見える。駅に近づくと看板が増え、離れるとまた暗くなる。東京の夜みたいに、どこまでも明かりが続くわけではない。

 夜って暗かったんだな。そんな当たり前のことを、久しぶりに実感した。

 西条駅の改札を出ると、叔母はすぐに見つかった。

 小柄な人だった。少し丸くなった肩に、生成りのカーディガンを羽織っている。髪は後ろでひとつにまとめられ、手には薄い布の買い物袋を提げていた。

「栞ちゃん」

 声をかけられて、栞は立ち止まった。

「……叔母さん」

「よう来たねえ」

 静江はそう言って、栞のキャリーケースを見た。

「荷物、それだけ?」

「はい。極力少ない方がいいかなって」

「ほうね。晩ご飯、軽いもんならあるけえ、帰ろうか」

 その言い方があまりにも普通で、栞は一瞬自分がどこに居るのか分からなくなった。

 叔母は何も聞かなかった。だから栞は、はい、と答えた。

 駅前には、タクシーが数台並んでいた。静江は迷わず先頭の車へ向かい、運転手に行き先を告げる。地名だけで伝わるらしく、運転手はうなずいた。

 キャリーケースをトランクに積み込んだあと、乗り込んだタクシーの中は、少しだけ古い匂いがした。ビニールの座席と、芳香剤と、誰かの傘の湿った匂い。

 栞は膝に乗せた鞄の上で手を重ねた。

「疲れたじゃろ」

「そんなには」

「新幹線、眠れた?」

「少しだけ」

「ならええけど」

 会話はそこで途切れた。静江は無理に続けようとしなかった。

 窓の外に、夜の町が流れていく。知らない店、知らない道、知らない信号。けれど、ところどころに生活の明かりがあった。閉まりかけたスーパー、まだ明かりのついたクリーニング店、自転車で坂を上る学生。

 ここにも、誰かの帰る場所がある。当たり前のことを当たり前と思えた自分に少し驚きながら、栞は窓の外を眺めていた。

 タクシーは、細い道に入ってから少し速度を落とした。

 古い家並みが続き、ところどころに白い壁が見えた。酒蔵の町なのだと、あとから思った。けれどそのときは、暗い道の中に急に白い面が浮かぶのが不思議だった。

「ここ」

 静江が言った。

 タクシーが止まる。

 門灯の下に、低い家があった。奥の方に、別の建物の影が見える。蔵なのか、作業場なのか、夜の中ではよく分からなかった。

 静江は運賃を払おうとして、栞が財布を出すより早く小銭を運転手へ渡した。

「あ、払います」

「ええの。最初くらい」

「でも」

「ここに来るんにも、お金かかっとるじゃろ」

 そう言われると、その通りで、それ以上は何も言えなかった。

 玄関の戸を開けると、家の中から味噌の匂いがした。

 それだけで、栞は少し動けなくなった。東京の部屋にはない匂いだった。

「上がって。荷物はそこ置いといてええよ」

「お邪魔します」

「そんなかしこまらんでええのに」

 静江は笑いながら、台所の方へ入っていった。

 栞は靴を揃えた。キャリーケースを玄関脇に置き、台所から続く畳の部屋へ通される。

 古い家だった。廊下の板は少しだけぎしぎしと鳴る。壁には、色あせたカレンダーと、小さな写真が何枚か貼られていた。

 手際よく栞の前に準備されたご飯は、豆腐とわかめと、薄く切った玉ねぎが入った味噌汁だった。隣の皿には、小さなおにぎりが二つ置かれている。

「食べられるだけ食べんさい」

「ありがとうございます」

「足りんかったら言うて」

「たぶん、大丈夫です」

「たぶんね」

 静江は、栞の前に箸を置いた。

 いただきますの言葉が、喉の奥で少し引っかかった。普段、ひとりの部屋で食べるときには言わない。コンビニのおにぎりを歩きながら食べるときにも言わない。

「いただきます」

 声に出すと、空気が少し変わった気がした。

 味噌汁をすする。熱かった。舌先が少し驚いて、喉の奥がゆっくり動く。おいしい、と思うより先に、熱いと思った。それから、少し遅れて、ああ、と思った。

 体の中に、温かいものが入っていく。

 おにぎりは、塩だけだった。海苔も具もない。

 一つ持つと、まだ少し温かかった。力を入れすぎると崩れそうで、栞はそっと口へ運ぶ。

 米の粒が、思ったよりはっきりしていた。

 噛む。

 飲み込む。

 もう一口食べる。

 静江は向かいに座らず、流しで布巾を絞っていた。

 食べるところを見られていないのが、ありがたかった。

「布団、二階に敷いとるけえ」

「すみません」

「謝らんでええよ。洗濯したいもんあったら、出しんさい」

 栞は、おにぎりを持つ手を止めた。

 キャリーケースの中には、東京から持ってきた服が入っている。

 きちんと畳んだつもりだった。けれど、出発前に慌てて詰めたものだから、今はもう底の方でしわになっているはずだった。東京の部屋には、それよりずっと大きな山が残っている。

「そんなにないので」

「そう」

 静江はそれ以上言わなかった。

 食べ終えた茶碗を流しへ運ぶと、静江が受け取ろうとした。

「あ、自分で洗います」

「今日はええよ」

「でも」

「来た日くらい、座っときんさい」

 静江が笑って言う。栞は茶碗を持ったまま、少しだけ立っていた。

 広島に来た。それだけなのに、まだ足元がふわふわと少し浮いている気がする。

 静江は栞の手から茶碗を取って、流しに置いた。

「お風呂、沸いてるから先に入って」

「はい。いただきます」

「タオルは洗面所の棚にあるけえ。好きなん使って」

 好きなん使って。

 その言葉に、栞は少し戸惑った。

 東京の部屋では、使えるタオルを探すだけで時間がかかる。ここでは、棚に畳まれたタオルがあるらしい。

 洗面所へ行くと、本当に白いタオルが重ねられていた。

 端の揃ったタオル。乾いた匂いのするタオル。

 栞は一番上の一枚を取った。

 風呂では、久しぶりに湯船に浸かって、体をほぐした。

 タオルを使わせてもらって、湯船に浸からせてもらって。なぜだか泣きそうになるような、誰かの生活の中に入れてもらっているような、変な気分だった。

 風呂から上がると、台所の明かりはまだついていた。

 静江はテーブルで何かを書いていた。家計簿か、メモか、栞には分からない。眼鏡を鼻の下の方へずらし、ペンを持つ手だけを動かしている。

「お風呂、ありがとうございました」

「温まった?」

「はい」

「髪、乾かしてから寝んさいね」

「はい」

 子どもみたいな返事になった。

 けれど、静江はそれを笑わなかった。

 二階の部屋には、布団が敷かれていた。

 小さな座卓と、低い棚と、薄いカーテン。窓の外は暗く、遠くで車の音がした。

 栞は玄関から持って上がったキャリーケースを開け、寝間着を出した。少ししわになっているけれど、気になるほどではなかった。

 着替えて、布団に入る。

 畳の匂いがした。

 スマートフォンを見ると、職場のグループチャットにいくつか通知が来ていた。明日の入荷予定、レジ締めの確認、フェア棚の写真。

 栞は画面を伏せた。

 今見ても、何もできない。何もできないのに、見たら気になる。

 布団の中で目を閉じる。すぐには眠れなかった。

 知らない家の音がする。

 冷蔵庫の低い音、どこかで水が流れる音、階下で静江が何かを片づける音。

 どれも小さかった。けれど、小さい音があることで、ひとりではないことが分かった。

 それが落ち着くのか、落ち着かないのか、栞には分からなかった。

 いつの間にか寝入って、夜中に一度、目が覚めた。

 部屋は暗い。カーテンの隙間から、外の灯りが少しだけ入っている。

 ここは東京ではない。

 そう思った。

 それから、ここは広島なのだと。

 高校二年の秋、来なかった場所。来なかったまま、何年もそのことを忘れていた場所。

 その近くで、いま自分は布団に入っている。

 栞は寝返りを打った。目を閉じる。眠りは、さっきよりずっと近くにあった。

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