西条の夜
広島駅に着いたとき、外はもう暗かった。
新幹線のホームには、まだたくさんの人がいた。仕事帰りらしいスーツ姿の人、土産物の袋をいくつも持った人、子どもの手を引く人。改札へ向かう流れに混じりながら、栞はキャリーケースの持ち手を握り直した。
広島。
駅名の表示を見ても、まだ自分がそこに来たのだという感じが薄かった。
東京から数時間、座席に座って、窓の外を見たり、目を閉じたり、読みかけの本を開いて一ページも進まなかったりしているうちに、ここへ着いた。
来ようと思えば、来られる場所だった。そのことが、まだ少し不思議だった。
在来線へ乗り換える途中、売店に並んだ文字に目がいった。
もみじ饅頭、牡蠣、お好み焼き、レモン。
土産物の文字が、明るい照明の下に並んでいる。けれど、どれも今の栞には似合っていない気がして、何も買わずに通り過ぎた。
西条行きの電車は、思っていたよりも人が少なかった。
空いていた二人掛けの座席に詰めて座ると、ガラスに自分の顔が映った。東京駅で見たときより、少しだけぼんやりしている。照明のせいかもしれない。疲れのせいかもしれない。どちらでもよかった。
電車が動き出す。
車内のアナウンスが流れ、駅が少しずつ離れていく。
ふと鞄の中のメモ帳が頭をよぎった。仕事用のメモ帳はロッカーに置いてくればよかったのに、いつも通り仕事終わりに鞄の中に入れて、そうしたらもう出すことができなかった。
休みに来たのか、逃げに来たのか、遅れてきた修学旅行なのか。どれも少しずつ違って、どれも少しずつ当たっている気がした。
窓の外は、すぐに暗くなった。
ところどころに家の明かりが見える。駅に近づくと看板が増え、離れるとまた暗くなる。東京の夜みたいに、どこまでも明かりが続くわけではない。
夜って暗かったんだな。そんな当たり前のことを、久しぶりに実感した。
西条駅の改札を出ると、叔母はすぐに見つかった。
小柄な人だった。少し丸くなった肩に、生成りのカーディガンを羽織っている。髪は後ろでひとつにまとめられ、手には薄い布の買い物袋を提げていた。
「栞ちゃん」
声をかけられて、栞は立ち止まった。
「……叔母さん」
「よう来たねえ」
静江はそう言って、栞のキャリーケースを見た。
「荷物、それだけ?」
「はい。極力少ない方がいいかなって」
「ほうね。晩ご飯、軽いもんならあるけえ、帰ろうか」
その言い方があまりにも普通で、栞は一瞬自分がどこに居るのか分からなくなった。
叔母は何も聞かなかった。だから栞は、はい、と答えた。
駅前には、タクシーが数台並んでいた。静江は迷わず先頭の車へ向かい、運転手に行き先を告げる。地名だけで伝わるらしく、運転手はうなずいた。
キャリーケースをトランクに積み込んだあと、乗り込んだタクシーの中は、少しだけ古い匂いがした。ビニールの座席と、芳香剤と、誰かの傘の湿った匂い。
栞は膝に乗せた鞄の上で手を重ねた。
「疲れたじゃろ」
「そんなには」
「新幹線、眠れた?」
「少しだけ」
「ならええけど」
会話はそこで途切れた。静江は無理に続けようとしなかった。
窓の外に、夜の町が流れていく。知らない店、知らない道、知らない信号。けれど、ところどころに生活の明かりがあった。閉まりかけたスーパー、まだ明かりのついたクリーニング店、自転車で坂を上る学生。
ここにも、誰かの帰る場所がある。当たり前のことを当たり前と思えた自分に少し驚きながら、栞は窓の外を眺めていた。
タクシーは、細い道に入ってから少し速度を落とした。
古い家並みが続き、ところどころに白い壁が見えた。酒蔵の町なのだと、あとから思った。けれどそのときは、暗い道の中に急に白い面が浮かぶのが不思議だった。
「ここ」
静江が言った。
タクシーが止まる。
門灯の下に、低い家があった。奥の方に、別の建物の影が見える。蔵なのか、作業場なのか、夜の中ではよく分からなかった。
静江は運賃を払おうとして、栞が財布を出すより早く小銭を運転手へ渡した。
「あ、払います」
「ええの。最初くらい」
「でも」
「ここに来るんにも、お金かかっとるじゃろ」
そう言われると、その通りで、それ以上は何も言えなかった。
玄関の戸を開けると、家の中から味噌の匂いがした。
それだけで、栞は少し動けなくなった。東京の部屋にはない匂いだった。
「上がって。荷物はそこ置いといてええよ」
「お邪魔します」
「そんなかしこまらんでええのに」
静江は笑いながら、台所の方へ入っていった。
栞は靴を揃えた。キャリーケースを玄関脇に置き、台所から続く畳の部屋へ通される。
古い家だった。廊下の板は少しだけぎしぎしと鳴る。壁には、色あせたカレンダーと、小さな写真が何枚か貼られていた。
手際よく栞の前に準備されたご飯は、豆腐とわかめと、薄く切った玉ねぎが入った味噌汁だった。隣の皿には、小さなおにぎりが二つ置かれている。
「食べられるだけ食べんさい」
「ありがとうございます」
「足りんかったら言うて」
「たぶん、大丈夫です」
「たぶんね」
静江は、栞の前に箸を置いた。
いただきますの言葉が、喉の奥で少し引っかかった。普段、ひとりの部屋で食べるときには言わない。コンビニのおにぎりを歩きながら食べるときにも言わない。
「いただきます」
声に出すと、空気が少し変わった気がした。
味噌汁をすする。熱かった。舌先が少し驚いて、喉の奥がゆっくり動く。おいしい、と思うより先に、熱いと思った。それから、少し遅れて、ああ、と思った。
体の中に、温かいものが入っていく。
おにぎりは、塩だけだった。海苔も具もない。
一つ持つと、まだ少し温かかった。力を入れすぎると崩れそうで、栞はそっと口へ運ぶ。
米の粒が、思ったよりはっきりしていた。
噛む。
飲み込む。
もう一口食べる。
静江は向かいに座らず、流しで布巾を絞っていた。
食べるところを見られていないのが、ありがたかった。
「布団、二階に敷いとるけえ」
「すみません」
「謝らんでええよ。洗濯したいもんあったら、出しんさい」
栞は、おにぎりを持つ手を止めた。
キャリーケースの中には、東京から持ってきた服が入っている。
きちんと畳んだつもりだった。けれど、出発前に慌てて詰めたものだから、今はもう底の方でしわになっているはずだった。東京の部屋には、それよりずっと大きな山が残っている。
「そんなにないので」
「そう」
静江はそれ以上言わなかった。
食べ終えた茶碗を流しへ運ぶと、静江が受け取ろうとした。
「あ、自分で洗います」
「今日はええよ」
「でも」
「来た日くらい、座っときんさい」
静江が笑って言う。栞は茶碗を持ったまま、少しだけ立っていた。
広島に来た。それだけなのに、まだ足元がふわふわと少し浮いている気がする。
静江は栞の手から茶碗を取って、流しに置いた。
「お風呂、沸いてるから先に入って」
「はい。いただきます」
「タオルは洗面所の棚にあるけえ。好きなん使って」
好きなん使って。
その言葉に、栞は少し戸惑った。
東京の部屋では、使えるタオルを探すだけで時間がかかる。ここでは、棚に畳まれたタオルがあるらしい。
洗面所へ行くと、本当に白いタオルが重ねられていた。
端の揃ったタオル。乾いた匂いのするタオル。
栞は一番上の一枚を取った。
風呂では、久しぶりに湯船に浸かって、体をほぐした。
タオルを使わせてもらって、湯船に浸からせてもらって。なぜだか泣きそうになるような、誰かの生活の中に入れてもらっているような、変な気分だった。
風呂から上がると、台所の明かりはまだついていた。
静江はテーブルで何かを書いていた。家計簿か、メモか、栞には分からない。眼鏡を鼻の下の方へずらし、ペンを持つ手だけを動かしている。
「お風呂、ありがとうございました」
「温まった?」
「はい」
「髪、乾かしてから寝んさいね」
「はい」
子どもみたいな返事になった。
けれど、静江はそれを笑わなかった。
二階の部屋には、布団が敷かれていた。
小さな座卓と、低い棚と、薄いカーテン。窓の外は暗く、遠くで車の音がした。
栞は玄関から持って上がったキャリーケースを開け、寝間着を出した。少ししわになっているけれど、気になるほどではなかった。
着替えて、布団に入る。
畳の匂いがした。
スマートフォンを見ると、職場のグループチャットにいくつか通知が来ていた。明日の入荷予定、レジ締めの確認、フェア棚の写真。
栞は画面を伏せた。
今見ても、何もできない。何もできないのに、見たら気になる。
布団の中で目を閉じる。すぐには眠れなかった。
知らない家の音がする。
冷蔵庫の低い音、どこかで水が流れる音、階下で静江が何かを片づける音。
どれも小さかった。けれど、小さい音があることで、ひとりではないことが分かった。
それが落ち着くのか、落ち着かないのか、栞には分からなかった。
いつの間にか寝入って、夜中に一度、目が覚めた。
部屋は暗い。カーテンの隙間から、外の灯りが少しだけ入っている。
ここは東京ではない。
そう思った。
それから、ここは広島なのだと。
高校二年の秋、来なかった場所。来なかったまま、何年もそのことを忘れていた場所。
その近くで、いま自分は布団に入っている。
栞は寝返りを打った。目を閉じる。眠りは、さっきよりずっと近くにあった。




