窓側の席
その夜、栞はドラッグストアへ寄った。
洗剤の棚の前で、しばらく立つ。
詰め替え用、本体、香り付き、無香料、部屋干し用。
少し迷ったあと、栞は家にある洗剤と同じメーカーの、一番小さな本体を選んだ。
広島へ行く前に、部屋の洗濯物を全部片づけることはできないかもしれない。それでも、空の容器だけがそこにあるよりはましだった。
レジで袋はいらないと言い、洗剤を鞄に入れる。一番小さなものを選んだのに、肩にずしんと重さがかかった。
帰宅すると、部屋はやはり薄暗かった。
栞はカーテンを開けた。夜の窓に、自分の顔が映る。朝と同じ顔だ。けれど、鞄の中には洗剤がある。
それだけで、無敵だとまでは思えないまでも、少しは違っているような気がした。
洗濯物を一度に洗うには量が多すぎた。
栞は、まずタオルだけを選んだ。白いもの、薄い灰色のもの、端がほつれたもの。洗ったものかどうか分からないものも、まとめて洗濯機に入れた。
洗剤のキャップを開ける。新しい匂いがした。
洗剤を入れてボタンを押すと、洗濯機が音を立て始めた。
タオルがゆっくり沈んでいく。栞はその様子をしばらく眺めていた。
洗濯が終わるまでの間に、栞は叔母へ返事を送った。
『来週の火曜の夜に着きます』
少し経って、返事が来た。
『駅まで迎えに行くけえ、時間分かったら教えて』
栞は、新幹線の予約画面を開いた。
今度は、最後まで進んだ。
東京から広島。座席を選ぶ。窓側にした。決済完了の画面が出る。
栞はそれを見て、息を吐いた。
行くことになった。いや、自分で行くことに決めた。
予定到着時間を送ったら、叔母からは『了解』とだけ返事が来た。
洗濯機が止まった。蓋を開けると、湿ったタオルの匂いが上がる。栞はそれを一枚ずつ取り出した。
部屋干し用の折りたたみスタンドを広げる。久しぶりに使ったせいで、金具が少し固かった。白いタオルをかける。灰色のタオルをかける。端のほつれたタオルをかける。
窓は少しだけ開けた。夜の空気が入ってくる。東京の、埃が混じったような風だった。広島の風ではなかった。それでも、タオルは少し揺れた。
洗濯物は、まだかごに残っている。山は小さくなっただけで、なくなったわけではない。
洗い終えた服の山は、そのまま残っている。
仕事もある。返本もある。書けないPOPだってある。
広島へ行ったところで、何かが変わる保証はない。
それでも、水を吸ったタオルが風に揺られ、少しずつ乾いていく。それを見ていると、少しずつまぶたが重くなって、いつの間にか眠っていた。
翌週の火曜日、栞は仕事を少し早く上がった。同僚たちに軽く挨拶をして、ロッカールームの端に置いた小さなキャリーケースを手に取る。
中には、着回しができる数日分の服と、充電器と、化粧品。外に引っかけた小さな鞄には、貴重品と、メモ帳と、読みかけの文庫本が一冊入っている。
読みかけの本には、栞が昔もらった紙の栞が挟まっていた。捨てられないままずっと使っている、もう閉店した店の名前が印字された栞だった。
東京駅のホームは、人でいっぱいだった。
スーツケースの車輪の音、弁当の袋を提げた人、イヤホンをした学生、改札前で手を振る親子。
栞は、自分の指定席を確認して列に並んだ。
新幹線がホームに入ってくる。白い車体が、長く、静かに滑り込む。
乗り込む前に、栞はスマートフォンを取り出した。
叔母に、これから新幹線に乗ることを連絡したら、すぐに返事が来た。
『気をつけて来んさい。晩ご飯、軽いもん作っとくね』
栞は、その文字を読んでから新幹線に乗った。窓側の席に座り、鞄を引っかけたままのキャリーケースを足元に置く。
発車のベルが鳴る。少し遅れて、車体がゆっくり動き出した。
東京のホームが後ろへ流れる。
栞は窓の外を見た。
行けなかったのではなく、行かなかったのかもしれない。そう思った夜から、何日も経っていない。
膝の上で、手を重ねる。手の甲に、ペンの跡が薄く残っていた。今日の昼、最後に書いた発注メモのインクだった。
栞は親指でそれをこすった。少し薄くなった。けれど、完全には消えなかった。
新幹線は速度を上げていく。
栞は目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。けれど、気持ちは落ち着いていた。




