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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
返本の日

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4/35

今じゃないと、行かない気がして

 翌朝、洗濯物はやはり洗濯かごに積まれていた。

 減ってはいない。むしろ、昨日着ていた服が上に積まれた分だけ、山は大きくなっていた。

 出勤前にドラッグストアへ寄ればいい。洗剤を買って、帰ってから洗濯機を回せばいい。

 そう思いながら、栞は結局いつもより五分遅く部屋を出た。

 晴れていた。

 昨夜の雨が嘘のように、アスファルトは乾きはじめていた。歩道の端にだけ、濡れた葉と小さな水たまりが残っている。栞はそれを避けながら歩いた。

 駅へ向かう途中、昨夜の叔母からのメッセージをもう一度開いた。

『ええよ。洗濯物干す場所くらいあるけえ』

 文字は変わっていない。当たり前だった。

 何度読んでも、叔母の返事はそれだけだった。理由も聞かない。いつ来るのかとも、何泊するのかとも聞かない。母に言っておいた方がいいのか、とも聞かない。

 栞は画面を閉じた。

 なんとなく、今なら広島の海が写ったあの表紙を、真正面から見られるような気がした。

 書店では、朝から電話が続いた。

 発売前の本の予約、在庫確認、出版社取り寄せ、雑誌の取り置き。

 栞は、メモを取り、端末で検索し、在庫棚へ走り、電話口で頭を下げた。

 電話では、頭を下げても見えない。それでも下げる。見えないと分かっていても、体はいつものように動く。

「川瀬さん、来週のシフトなんだけど」

 昼前、店長に呼ばれた。

 栞は文芸の棚へ文庫を差していた手を止めた。

「はい」

「火曜、出られる?」

 来週の火曜は、もともと休みだった。

 誰かの代わりに入るのだろう。店長の手元のシフト表には、赤いペンで何か書き足されている。

 いつもなら、少し迷ってから引き受けていた。

 断る理由がなければ、断ってはいけない気がしていた。予定がない休みは、休みではないように思っていた。

 栞は、エプロンのポケットに入れたメモ帳を指先で押さえた。

「あの」

「うん」

「来週、火曜日は出られるので、そのあとに何日か休みをいただいてもいいですか」

 店長は、顔を上げた。

 栞はその視線から少しだけ逃げて、棚の背表紙を見た。

 作家名が五十音順に並んでいる。人の名前は、棚の中では規則正しい。

 栞の呼吸だけが、少し乱れていた。

「何日くらい?」

「三日か、四日くらい。できれば一週間」

「どこか行くの?」

 責める声ではなかった。ただの確認だった。

 栞は、少し間を置いた。

「……広島に」

「広島」

「叔母のところへ」

「そう。急ぎ?」

「急ぎというか……今じゃないと、行かない気がして」

 言ってから、言いすぎたと思った。けれど店長は、何も聞き返さなかった。

 シフト表に目を落とし、赤いペンのキャップを外す。

「来週の水曜から一週間なら、なんとかなると思う。その次の水曜には戻れる?」

「はい」

「じゃあ、そこ休みにしようか。入ってくれるなら、来週の火曜日も少し早く終わってもらうようにしよう」

「すみません」

「いいよ。川瀬さん、最近ずっと入ってくれてたし。たまにはわがまま言いなね」

 店長はそう言って、シフト表に線を引いた。一本の赤い線で、栞の一週間が空いた。

 それを見て、胸の奥が少し落ち着かなくなった。

 休みをもらえた。それなのに、逃げ道を失ったようでもあった。

「広島、暑いだろうから気をつけて」

「はい」

「お土産はいいから、ちゃんと休んで」

 店長は、軽く笑った。栞も笑った。

 ちゃんと休む。それがどういうことなのか、栞にはまだ分からなかった。

 休憩時間、栞は従業員用の細い机でスマートフォンを開いた。

 新幹線の予約画面で、東京から広島へ。そして広島から西条へ。

 乗り換え案内の文字を見ていると、急に現実味が増して、手が止まった。

 広島は、画面の中では数時間先にある。行こうと思えば行ける場所だった。

 高校の修学旅行のときも、そうだった。行こうと思えば行けた。熱が出なければ。……いや、熱が出る前に、行きたくないと思わなければ。

 そこまで考えて、栞は画面を一度伏せた。

 休憩室の隅に置かれた電子レンジが、誰かの弁当を温め終えて鳴った。同僚が、あ、と小さく言って立ち上がる。温められたご飯の匂いが広がった。

 栞はコンビニで買ったおにぎりを一つ取り出した。朝、駅の売店で買った鮭おにぎり。海苔は少ししんなりしている。袋を開けると、指先に米粒がついた。

 栞はそれを見て、なぜか昨日の叔母のメッセージを思い出した。

『新米送るけえ』

 叔母の家では、米を炊いているのだろうか。朝から炊飯器の蓋を開けて、湯気が上がって、しゃもじで返して、茶碗によそうのだろうか。

 そういう場面を最後にちゃんと見たのは、いつだっただろう。

 栞がおにぎりを口にすると、冷たくて少しかたいお米の食感がした。おいしいとは思わなかったけれど、食べられた。

 午後の売り場は、昨日より少し穏やかだった。

 それでも返本はある。問い合わせもある。平台はまた少し入れ替わる。

 栞は、広島へ行くための数日分の仕事を前倒しで片づけた。

 来月のフェア用に、本を十冊選ぶ。帯の言葉を見て、出版社の紹介文を読み、既刊の売れ行きを確認する。店長に頼まれた短いコメントも添えなければならない。

 若い人に刺さる感じで、泣ける、救われる、共感。

 栞は白い紙を前にして、ペンを持った。

 何も出てこない。何と書けばいいのか、分からなかった。

 栞は紙の隅に、小さく一行だけ書いた。

『まだうまく言えない人のための棚』

 書いてから、すぐに線を引いた。フェア名には向かない。店長に見せたら困らせる。でも、その線を引いた紙は、なぜか捨てられなかった。

 閉店後、栞は店を出る前に旅行ガイドの棚へ寄った。

 広島のガイドブックを一冊手に取る。表紙には、昨日見たものと同じように海があった。

 青い水。白い船。小さな島。その明るさが、今の自分には少し痛かった。

 ページをめくると、平和記念公園の写真が出てきた。

 栞はそこで手を止めた。

 高校二年の秋、配られたしおりにも、似たような写真が載っていた。他には班行動の予定、集合時間、持ち物、感想文提出日なんかが載っていたはずだ。

 栞は、あのしおりをどこにやったのだろう。捨てたのか、まだ実家の押し入れにあるのか。

 覚えていないのに、行かなかったことだけは残っている。

 栞はガイドブックを閉じた。買うかどうか迷って、棚に戻す。

 今はまだ、違う気がした。

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