今じゃないと、行かない気がして
翌朝、洗濯物はやはり洗濯かごに積まれていた。
減ってはいない。むしろ、昨日着ていた服が上に積まれた分だけ、山は大きくなっていた。
出勤前にドラッグストアへ寄ればいい。洗剤を買って、帰ってから洗濯機を回せばいい。
そう思いながら、栞は結局いつもより五分遅く部屋を出た。
晴れていた。
昨夜の雨が嘘のように、アスファルトは乾きはじめていた。歩道の端にだけ、濡れた葉と小さな水たまりが残っている。栞はそれを避けながら歩いた。
駅へ向かう途中、昨夜の叔母からのメッセージをもう一度開いた。
『ええよ。洗濯物干す場所くらいあるけえ』
文字は変わっていない。当たり前だった。
何度読んでも、叔母の返事はそれだけだった。理由も聞かない。いつ来るのかとも、何泊するのかとも聞かない。母に言っておいた方がいいのか、とも聞かない。
栞は画面を閉じた。
なんとなく、今なら広島の海が写ったあの表紙を、真正面から見られるような気がした。
書店では、朝から電話が続いた。
発売前の本の予約、在庫確認、出版社取り寄せ、雑誌の取り置き。
栞は、メモを取り、端末で検索し、在庫棚へ走り、電話口で頭を下げた。
電話では、頭を下げても見えない。それでも下げる。見えないと分かっていても、体はいつものように動く。
「川瀬さん、来週のシフトなんだけど」
昼前、店長に呼ばれた。
栞は文芸の棚へ文庫を差していた手を止めた。
「はい」
「火曜、出られる?」
来週の火曜は、もともと休みだった。
誰かの代わりに入るのだろう。店長の手元のシフト表には、赤いペンで何か書き足されている。
いつもなら、少し迷ってから引き受けていた。
断る理由がなければ、断ってはいけない気がしていた。予定がない休みは、休みではないように思っていた。
栞は、エプロンのポケットに入れたメモ帳を指先で押さえた。
「あの」
「うん」
「来週、火曜日は出られるので、そのあとに何日か休みをいただいてもいいですか」
店長は、顔を上げた。
栞はその視線から少しだけ逃げて、棚の背表紙を見た。
作家名が五十音順に並んでいる。人の名前は、棚の中では規則正しい。
栞の呼吸だけが、少し乱れていた。
「何日くらい?」
「三日か、四日くらい。できれば一週間」
「どこか行くの?」
責める声ではなかった。ただの確認だった。
栞は、少し間を置いた。
「……広島に」
「広島」
「叔母のところへ」
「そう。急ぎ?」
「急ぎというか……今じゃないと、行かない気がして」
言ってから、言いすぎたと思った。けれど店長は、何も聞き返さなかった。
シフト表に目を落とし、赤いペンのキャップを外す。
「来週の水曜から一週間なら、なんとかなると思う。その次の水曜には戻れる?」
「はい」
「じゃあ、そこ休みにしようか。入ってくれるなら、来週の火曜日も少し早く終わってもらうようにしよう」
「すみません」
「いいよ。川瀬さん、最近ずっと入ってくれてたし。たまにはわがまま言いなね」
店長はそう言って、シフト表に線を引いた。一本の赤い線で、栞の一週間が空いた。
それを見て、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
休みをもらえた。それなのに、逃げ道を失ったようでもあった。
「広島、暑いだろうから気をつけて」
「はい」
「お土産はいいから、ちゃんと休んで」
店長は、軽く笑った。栞も笑った。
ちゃんと休む。それがどういうことなのか、栞にはまだ分からなかった。
休憩時間、栞は従業員用の細い机でスマートフォンを開いた。
新幹線の予約画面で、東京から広島へ。そして広島から西条へ。
乗り換え案内の文字を見ていると、急に現実味が増して、手が止まった。
広島は、画面の中では数時間先にある。行こうと思えば行ける場所だった。
高校の修学旅行のときも、そうだった。行こうと思えば行けた。熱が出なければ。……いや、熱が出る前に、行きたくないと思わなければ。
そこまで考えて、栞は画面を一度伏せた。
休憩室の隅に置かれた電子レンジが、誰かの弁当を温め終えて鳴った。同僚が、あ、と小さく言って立ち上がる。温められたご飯の匂いが広がった。
栞はコンビニで買ったおにぎりを一つ取り出した。朝、駅の売店で買った鮭おにぎり。海苔は少ししんなりしている。袋を開けると、指先に米粒がついた。
栞はそれを見て、なぜか昨日の叔母のメッセージを思い出した。
『新米送るけえ』
叔母の家では、米を炊いているのだろうか。朝から炊飯器の蓋を開けて、湯気が上がって、しゃもじで返して、茶碗によそうのだろうか。
そういう場面を最後にちゃんと見たのは、いつだっただろう。
栞がおにぎりを口にすると、冷たくて少しかたいお米の食感がした。おいしいとは思わなかったけれど、食べられた。
午後の売り場は、昨日より少し穏やかだった。
それでも返本はある。問い合わせもある。平台はまた少し入れ替わる。
栞は、広島へ行くための数日分の仕事を前倒しで片づけた。
来月のフェア用に、本を十冊選ぶ。帯の言葉を見て、出版社の紹介文を読み、既刊の売れ行きを確認する。店長に頼まれた短いコメントも添えなければならない。
若い人に刺さる感じで、泣ける、救われる、共感。
栞は白い紙を前にして、ペンを持った。
何も出てこない。何と書けばいいのか、分からなかった。
栞は紙の隅に、小さく一行だけ書いた。
『まだうまく言えない人のための棚』
書いてから、すぐに線を引いた。フェア名には向かない。店長に見せたら困らせる。でも、その線を引いた紙は、なぜか捨てられなかった。
閉店後、栞は店を出る前に旅行ガイドの棚へ寄った。
広島のガイドブックを一冊手に取る。表紙には、昨日見たものと同じように海があった。
青い水。白い船。小さな島。その明るさが、今の自分には少し痛かった。
ページをめくると、平和記念公園の写真が出てきた。
栞はそこで手を止めた。
高校二年の秋、配られたしおりにも、似たような写真が載っていた。他には班行動の予定、集合時間、持ち物、感想文提出日なんかが載っていたはずだ。
栞は、あのしおりをどこにやったのだろう。捨てたのか、まだ実家の押し入れにあるのか。
覚えていないのに、行かなかったことだけは残っている。
栞はガイドブックを閉じた。買うかどうか迷って、棚に戻す。
今はまだ、違う気がした。




