洗濯物干す場所くらいあるけえ
部屋に帰ると、空気が湿っていた。
洗濯物の山は、朝と同じ場所にあった。同じ場所にあるのに、少し増えて見える。
栞は鞄を床に置き、洗面所へ行った。洗濯機の蓋を開ける。空だった。そこへ服を入れればいい。洗剤を入れて、ボタンを押せばいい。それだけのことだった。
栞は洗剤の容器を持ち上げた。軽い。振ってみる。何も音がしなかった。
そうだった。昨日も、それでやめたのだった。
買いに行けばいい。コンビニにもドラッグストアにも売っている。財布は鞄の中にある。雨も弱い。
栞はしばらく洗剤の容器を持ったまま立っていた。それから、そっと元の場所に戻した。
手を洗い、タオルで拭く。タオルも、洗ったものなのかどうか分からなかった。
リビングの床に座る。カーテンは朝のまま閉まっている。冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。
短くスマートフォンが震えた。
画面を見ると、叔母の名前が表示されていた。
河本静江。広島に住む母の妹。
最後に会ったのは、いつだっただろう。法事だった気がする。
メッセージには愛想も何もなく、端的に用件だけが書かれていた。
『新米送るけえ、住所変わってない?』
栞は画面を見つめた。
新米。
米。
そういえば、しばらく炊いていない。
炊飯器の中は空だろうか。それとも、洗っていない内釜が入っているだろうか。
思い出せなかった。
『住所は変わっていません』とだけ返せばよかった。そこに、ありがとうございます、と添えればいい。それだけで終わる。
栞は文字を打った。
『住所、変わってません』
そこまで打って、指が止まった。画面の中の文字が、少し遠く見えた。
窓の外からは雨の音が流れ込む。
――広島。
ふいに、旅行ガイドの青い表紙を思い出した。朝、カウンター横の棚にあった海の写真。
高校二年の秋。事前学習の間もずっと修学旅行に行きたくないと思っていた。班行動も、平和学習も、感想文も、夜の部屋割りも、全部が面倒だった。
そう思っていたら、本当に熱が出た。
体温計の数字を見て、母が学校へ電話をした。栞は布団の中で、申し訳ないような顔をしていた。でも、本当は少しほっとしていた。行かなくていいと、思ってしまった。
そのまま、何年も忘れていた。忘れていたはずだった。
栞は、打ちかけの文章を消した。
しばらく何も打たなかった。
それから、ゆっくり指を動かした。
『広島って、今行ってもいいですか』
送信したあとで、何を送っているのだろうと思った。すぐに取り消したくなった。でも、既読がついた。
栞は息を止めた。
返信は、思ったより早かった。
『ええよ。洗濯物干す場所くらいあるけえ』
栞は、その文字を何度も読んだ。
洗濯物。
画面の向こうで、叔母は何も知らない。
この部屋の床の状態も、空の洗剤容器も、朝ご飯を食べていないことも、POPを捨てられないことも知らない。知らないのに、洗濯物を干す場所くらいあると言った。
栞はスマートフォンを膝の上に置いた。目の奥が少し熱くなった。
泣くほどではない。でも、胸の奥で何かが少しだけ音を立てて動いた。
雨の音が続いている。
栞は、洗濯かごに積まれた洗濯物を見た。
明日もたぶん、これはこのままだ。けれど、広島には干す場所があるらしい。
そう思うと、部屋の空気がほんの少しだけ変わった気がした。




