表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
返本の日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/35

洗濯物干す場所くらいあるけえ

 部屋に帰ると、空気が湿っていた。

 洗濯物の山は、朝と同じ場所にあった。同じ場所にあるのに、少し増えて見える。

 栞は鞄を床に置き、洗面所へ行った。洗濯機の蓋を開ける。空だった。そこへ服を入れればいい。洗剤を入れて、ボタンを押せばいい。それだけのことだった。

 栞は洗剤の容器を持ち上げた。軽い。振ってみる。何も音がしなかった。

 そうだった。昨日も、それでやめたのだった。

 買いに行けばいい。コンビニにもドラッグストアにも売っている。財布は鞄の中にある。雨も弱い。

 栞はしばらく洗剤の容器を持ったまま立っていた。それから、そっと元の場所に戻した。

 手を洗い、タオルで拭く。タオルも、洗ったものなのかどうか分からなかった。

 リビングの床に座る。カーテンは朝のまま閉まっている。冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。

 短くスマートフォンが震えた。

 画面を見ると、叔母の名前が表示されていた。

 河本静江(かわもとしずえ)。広島に住む母の妹。

 最後に会ったのは、いつだっただろう。法事だった気がする。

 メッセージには愛想も何もなく、端的に用件だけが書かれていた。

『新米送るけえ、住所変わってない?』

 栞は画面を見つめた。

 新米。

 米。

 そういえば、しばらく炊いていない。

 炊飯器の中は空だろうか。それとも、洗っていない内釜が入っているだろうか。

 思い出せなかった。

『住所は変わっていません』とだけ返せばよかった。そこに、ありがとうございます、と添えればいい。それだけで終わる。

 栞は文字を打った。

『住所、変わってません』

 そこまで打って、指が止まった。画面の中の文字が、少し遠く見えた。

 窓の外からは雨の音が流れ込む。

 ――広島。

 ふいに、旅行ガイドの青い表紙を思い出した。朝、カウンター横の棚にあった海の写真。

 高校二年の秋。事前学習の間もずっと修学旅行に行きたくないと思っていた。班行動も、平和学習も、感想文も、夜の部屋割りも、全部が面倒だった。

 そう思っていたら、本当に熱が出た。

 体温計の数字を見て、母が学校へ電話をした。栞は布団の中で、申し訳ないような顔をしていた。でも、本当は少しほっとしていた。行かなくていいと、思ってしまった。

 そのまま、何年も忘れていた。忘れていたはずだった。

 栞は、打ちかけの文章を消した。

 しばらく何も打たなかった。

 それから、ゆっくり指を動かした。

『広島って、今行ってもいいですか』

 送信したあとで、何を送っているのだろうと思った。すぐに取り消したくなった。でも、既読がついた。

 栞は息を止めた。

 返信は、思ったより早かった。

『ええよ。洗濯物干す場所くらいあるけえ』

 栞は、その文字を何度も読んだ。

 洗濯物。

 画面の向こうで、叔母は何も知らない。

 この部屋の床の状態も、空の洗剤容器も、朝ご飯を食べていないことも、POPを捨てられないことも知らない。知らないのに、洗濯物を干す場所くらいあると言った。

 栞はスマートフォンを膝の上に置いた。目の奥が少し熱くなった。

 泣くほどではない。でも、胸の奥で何かが少しだけ音を立てて動いた。

 雨の音が続いている。

 栞は、洗濯かごに積まれた洗濯物を見た。

 明日もたぶん、これはこのままだ。けれど、広島には干す場所があるらしい。

 そう思うと、部屋の空気がほんの少しだけ変わった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ