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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
返本の日

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好きだったなら

「川瀬さん、大丈夫ですか」

 取り寄せ担当の佐伯が、小さな声で聞いた。

「大丈夫です」

 栞は答えた。

 大丈夫。その言葉は、もうずいぶん言い慣れていた。

 昼過ぎ、バックヤードには返本の箱が増えた。

 朝に届いた新刊の箱とは違い、返本の箱は少し古い。角が潰れていたり、前の送り状を剥がした跡が残っていたり、ガムテープの上にまたガムテープが貼られていたりする。

 栞は平台から下げた本を、一冊ずつ注文票と照らし合わせた。

 冊数を数える。

 帯が破れていないか見る。

 返品不可のものが混じっていないか確認する。

 指先が紙で乾いていく。

 段ボールの中に本を寝かせていくと、表紙が少しずつ見えなくなった。

 この本にも、著者がいる。

 担当編集者がいて、装丁を考えた人がいて、帯の文言を決めた人がいて、営業の人がいて、どこかで発売日を待っていた人がいる。

 栞はそれを知っている。知っているのに、箱へ入れる。そうしないと、次の本が置けない。

「川瀬さん、こっちの棚も戻していいですか」

 アルバイトの高校生が、文庫の平台を指さしていた。

 今月のフェアの棚だった。映画化作品を集めた棚。

 栞が先週、夜に残って並べた。

「あ、はい。こっちは通常棚に戻してください」

「POPは?」

「外してもらって大丈夫です」

「捨てます?」

 栞は一瞬だけ迷った。

「……はい。お願いします」

 高校生は、はい、と返事をして、ためらいなくPOPを剥がした。

 その手は早かった。

 紙が破れないように爪を入れ、両面テープごときれいに剥がす。

 栞よりずっと上手だった。

 映画の中で泣く前に、原作で一度泣いてください。

 そんなことを書いた紙が、くるりと丸められてゴミ箱に入る。丸められると、どんな言葉もただの紙になった。

 栞は返本の箱にガムテープを貼った。テープを引く音が、バックヤードに長く響いた。

 夕方になると、店は少し混み始めた。

 仕事帰りの人。

 塾へ行く前の中学生。

 参考書を探す親子。

 平台の前でスマートフォンを見ながら、同じ本をネットで買うかどうか迷っている人。

 栞は、レジ応援に入った。

「カバーおかけしますか」

「お願いします」

「こちら、袋は有料ですがご利用ですか」

「いらないです」

「ポイントカードはお持ちですか」

「ないです」

「かしこまりました」

 同じ言葉を何度も言う。少しずつ声が平らになっていく。それでも、最後だけは笑う。

「ありがとうございました」

 レジ横には、今月のおすすめ文庫が積まれている。

 栞の書いた小さなPOPが、透明なカード立てに入っていた。

 大切な人に、言えなかった言葉がある人へ。

 自分で書いたくせに、よく分からない言葉だった。

 言えなかった言葉なんて、誰にでもある。だから誰かには届く。それを知っているから書いた。知っているから、少し嫌だった。

 閉店一時間前、店長に呼ばれた。事務所の机には、来月のフェア予定表が置かれている。

「川瀬さん、来月の文芸フェアなんだけど」

「はい」

「若い人向けに、もうちょっと刺さる感じで作れないかな」

 店長は悪い人ではない。

 いつも穏やかで、スタッフの勤務希望にもできるだけ応えてくれる。

 だから、栞は余計に困った。

「刺さる感じ、ですか」

「うん。最近、文芸の動きがちょっと鈍いから。SNSで紹介しやすいような、短い言葉があると助かるんだよね」

「はい」

「泣ける、救われる、共感、みたいな。あ、もちろん作品に合う範囲で」

「はい」

「川瀬さん、そういうの上手いから」

 褒められている。分かっている。

 栞は、ありがとうございます、と言った。口が勝手に動いた。

 事務所を出ると、閉店の音楽が流れ始めていた。

 売り場の明かりはまだ明るいのに、その音楽だけが一日の終わりを示している。

 栞は文芸の棚へ戻った。

 平台の端に、朝剥がしたPOPの跡が残っている。紙の繊維が少しだけ棚板に貼りついていた。爪でこすると、白い屑になって落ちた。

 閉店後、レジ締めの音と掃除機の音が店内に混じった。

 栞は返本の箱を台車に乗せ、バックヤードの指定の場所へ運んだ。段ボールは思ったより重い。一冊ずつなら片手で持てるのに、まとまると腰にくる。

 栞は台車を押しながら、ふと朝の洗濯かごを思い出した。

 一枚ずつなら軽い。でも、積もると動かせない。

 箱を置き、送り状を貼る。明日の朝、この箱は店を出る。そのあと、どこへ行くのだろう。出版社へ戻るのか、倉庫へ行くのか、もっと別の場所へ行くのか。

 栞は、手についた紙の粉を払った。

 エプロンのポケットに、朝折り畳んだPOPが入ったままだった。取り出すと、角がさらに潰れていた。

『今読むべき一冊』

 栞はそれをゴミ箱へ入れようとして、途中で手を止めた。それから、ロッカーの鞄の内ポケットへしまった。

 取っておきたいわけではない。捨てるタイミングを、また失っただけだった。

 店を出ると、雨が降っていた。

 天気予報を見ていなかった。傘はロッカーに一本あるはずだったが、探す気になれなかった。

 駅までは走れば五分。走らなくても八分。

 栞は、走らなかった。

 雨は強くない。髪の表面が湿り、肩に細かな粒がつく。

 通りの向こうに、閉店した書店の跡があった。半年ほど前まで、文具も扱う小さな本屋だった。今はシャッターが下り、上から不動産会社の張り紙が貼られている。

<テナント募集>

 その紙は雨に濡れない場所に貼られていて、妙に白かった。

 栞は、信号が変わるまでそれを見ていた。

 青になっても、少しだけ足が出なかった。後ろから来た人に追い越され、ようやく歩き出す。

 駅のホームで、濡れた前髪を指で払った。スマートフォンを開く。ニュースアプリには、地方の老舗書店が今月末で閉店するという記事が出ていた。写真には、木の棚と、手書きの貼り紙と、店主らしい年配の人の横顔が写っている。

 栞は記事を最後まで読まなかった。

 コメント欄だけが目に入った。

『昔よく行っていました』

『残念です』

『こういう店がなくなるのは寂しい』

『最近は行けていなかったけど、大好きでした』

 電車が来た。栞はスマートフォンを閉じて、足下に目をやった。

 好きだったなら、行けばよかったのに。

 そう思ってから、自分も同じだと思った。

 好きなものを、好きだと言うだけでは残せない。

 分かっている。分かっているのに、どうしたらいいのか分からない。

 電車の窓に、栞の顔が映った。濡れた髪が頬に張りついている。目の下には薄く影があった。

 知らない人みたいだと思った。でも、毎朝鏡で見ている顔だった。

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