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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
返本の日

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返本の日

 川瀬栞(かわせしおり)は、床に置いたままの洗濯かごをまたいだ。

 昨日の夜、白いものと色の濃いものを分けて、ネットに入れるものを避けて、それから洗剤の残りを見たところまでは覚えている。

 そこから先がない。

 栞は、かごの一番上にある薄い水色のシャツをつまみ上げた。

 襟元に顔を寄せる。

 柔軟剤の匂いがしたような気がして、もう一度確かめる。

 ……違う。

 これは柔軟剤ではなく、昨日の匂いだった。紙と、埃と、電車ですれ違った誰かの香水の匂い。

 やめよう。

 シャツをかごに戻すと、端に引っかかっていた別の服がずり落ちた。

 栞はそれを拾わなかった。

 時計を見る。七時四十二分。朝ご飯は、今日も食べていない。

 食べるものがないわけではなかった。ただ、冷蔵庫を開けて、入っているであろうヨーグルトの賞味期限を見て、スプーンを出して、食べ終わった容器を洗って、ゴミを分別するところまで想像したら、それだけでお腹がいっぱいになった。

 栞は、カーテンを開けないまま鞄を持った。

 玄関には昨日脱いだ靴が斜めに転がっていて、片方の踵が潰れていた。直さなければと思いながら、別の靴に足を入れる。

 鍵を閉める前に、部屋を一度振り返った。

 薄暗い部屋の床には、いつだかに洗濯を終えた服が直に積もっている。ひとつひとつは軽いのに、まとめて見ると動かせない山のように見えた。

 栞は鍵を閉めた。

 九月も半ばを過ぎたのに、東京の朝はまだ夏のようだった。そのくせ、駅までの道は秋の静けさを示すかのように、しんとしていた。

 パン屋のシャッターが半分だけ上がっている。

 自転車の前かごに子どもの鞄を入れた母親が、信号の変わり目を見て急いでペダルを踏む。

 スーツ姿の男の人が、片手でスマートフォンを操作しながらコンビニの袋を提げて歩いている。

 栞はその横を通り過ぎた。

 誰も、栞の朝ご飯を気にしない。

 誰も、洗濯物を気にしない。

 それが当然で、ありがたくて、少しだけ心細かった。


 書店には、開店の四十分前に着いた。従業員用の入口から入ると、バックヤードにはすでに段ボールが積まれていた。新刊の箱だった。

 平台に出すもの、棚差しにするもの、コミック担当へ回すもの、雑誌の担当が確認するもの。箱の側面には、黒いマジックで書名と冊数が記されている。

 栞は鞄をロッカーに入れ、エプロンを身につけた。名札の向きが少し曲がっていたので、指で直す。

 川瀬。

 名前はまっすぐになった。

 中身までまっすぐになるわけではないけれど。

「川瀬さん、おはようございます」

 児童書担当の三木が、台車を押しながら通りかかった。

「おはようございます」

「今日、小説の新刊多いですね」

「そうですね」

「平台、大変そう」

「まあ、いつも通りです」

 栞が笑うと、三木も笑った。

 いつも通り。

 口に出すと、それだけで今日一日がそこに収まる気がした。

 ――よくも悪くも。

 文芸の棚へ行くと、昨日まで中央に置いていた本を下げるところから始まった。売れ行きが悪いわけではない。ただ、新しい本が来た。それだけで場所は空けなければならない。

 栞は、平台の右端に置いていた単行本を手に取った。

 三日前に、自分でPOPを書いた本だった。薄いクリーム色の紙に、黒のペンで書いてある。

『今読むべき一冊』

 その下に、三行だけ紹介文を添えた。

『静かな物語です。

 けれど、読み終えたあと、

 自分の中に長く雨が降っていたと気づきます』

 たった三日前の自分が、よくこんなことを書けたものだと思う。

 嘘ではなかった。読んだとき、本当にそう思った。けれど、今見ると、その言葉は少しだけ恥ずかしかった。

 栞はPOPの端に爪をかけた。両面テープが棚板にしっかり残っていて、紙だけが先にめくれた。ゆっくり剥がしたつもりだったのに、角が破れる。紙の白い繊維が、平台に薄く残った。

『今読むべき一冊』

 まだインクの色は濃い。

 なのに、もう外される。

 栞は破れたPOPを二つに折り、さらにもう一度折った。捨てるには小さく、取っておくには邪魔な大きさになった。

 結局、エプロンのポケットに入れる。いつもの癖だった。

 あとでまとめて捨てる。そう思って、いつも忘れる。

 開店の音楽が流れる頃には、平台は装い新たに別の顔になっていた。

 昨日までそこにあった本の気配は、平台に薄く残った紙の繊維として残っている。

 栞は、新刊を一冊ずつ手に取り、表紙の向きを揃えた。

 帯の言葉が並ぶ。

『泣ける』

『救われる』

『胸に刺さる』

『人生が変わる』

『今、届けたい物語』

 どれも見慣れた言葉だった。どれも間違ってはいないのだろう。間違っていない言葉ほど、扱いに困る。

 開店してすぐ、取り寄せカウンターから呼ばれた。

「川瀬さん、文芸の取り寄せのお客様なんですけど」

 声の調子で、だいたい分かった。

 栞は返事をして、カウンターへ向かった。

 六十代くらいの男性が、腕を組んで立っていた。白いキャップをかぶり、片手にレシートを持っている。

 注文票を確認すると、出版社在庫はあり、入荷予定日は明後日になっていた。

「申し訳ございません。こちら、まだ入荷しておりませんで、明後日以降のお渡し予定となっております」

「明後日?」

「はい。ご注文の際にも、入荷まで一週間ほどとご案内していたかと思うのですが」

「そんなこと聞いとらんよ」

 男性の声が少し大きくなった。

 近くにいた客が一人、こちらを見る。

 栞は、頭を下げた。

「ご案内が足りず、申し訳ございません」

「ネットならすぐ来るんだよ」

「はい」

「こっちはわざわざ店に来てるのに」

「申し訳ございません」

「本屋って、何のためにあるの」

 その言葉だけが、妙にはっきり残った。

 男性はまだ何か言っていた。

入荷したら電話をするのか。キャンセルできるのか。前も別の本で待たされた。昔はもっとちゃんとしていた。

 栞は、一つずつ答えた。

 声を荒げず、遮らず、相手が言い終わるまで待つ。謝るところでは謝る。説明するところでは説明する。最後にもう一度頭を下げる。

 男性は不機嫌な顔のまま帰っていった。

 栞は顔を上げた。

 カウンター横の棚に、旅行ガイドが並んでいる。

 京都、金沢、長崎、広島。表紙の広島は、青い空と海だった。

 栞はそれを見て、すぐに目を逸らした。

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