川向こうの店
翌朝、栞はいつもより少し早く目が覚めた。
洗濯ばさみの音はしなかった。その代わり、台所の方から水の流れる音がした。細く、長く、途切れずに続いている。
栞は布団の中でしばらくそれを聞いていた。
東京の部屋でも水の音はする。
蛇口をひねれば出るし、洗濯機を回せば溜まるし、風呂の湯を抜けば排水口へ流れていく。
けれど、東京の水の音はだいたい忙しなかった。
歯を磨くため、手を洗うため、こぼしたものを拭くため。そして洗わなければいけないものを、まとめて片づけるため。
ここで聞こえる水は、同じ水なのに、どこかゆったりと流れているような音がした。
栞は布団から起き上がった。
カーテンを開けると、庭に昨日とは違う洗濯物が並んでいた。白いタオルではなく、今日は薄い色のシャツが二枚と、紺色の前掛けが一枚。前掛けには、やはり河本酒造の文字がある。
少し離れたところに、昨日航平が運んできた空き瓶のケースが積まれていた。
栞はそれを見て、ポケットに入れたままの名刺を思い出した。
酒舗まなべ。
昨日、何度か取り出しては見た。
店の名前と、住所と、電話番号。それだけの紙なのに、ずいぶんいろいろなものがくっついているように思えた。
朝食は、昨日より簡単だった。
トーストと、ゆで卵と、きゅうりを切ったもの。
静江は、今日は米炊いてないけえ、と言った。
「毎朝おにぎりなわけじゃないんですね」
「そりゃそうよ」
静江はトーストにバターを塗りながら答えた。
「おにぎりにも休みがいるじゃろ」
「おにぎりが休むんですか」
「握る方が休むんよ」
栞は少し笑った。
食パンは少し厚くて、耳が硬かった。東京のコンビニで買うサンドイッチより、噛む回数が多い。それでも食べ終わる頃には、皿の上にはパン屑しか残らなかった。
「今日、どうするん」
静江が聞いた。
栞は水を飲んでから、少し迷った。
「真鍋さんのお店に、行こうかと」
「そう」
「昨日、見に来ませんかって言われたので」
「うん」
静江は、それ以上何も聞かなかった。
少し拍子抜けするくらいだった。
「行ってもいいんですか」
「栞ちゃんが行きたいなら」
「行きたい、というか」
「うん」
「本屋と似てるって言われたので」
「気になるんじゃね」
栞は、はい、と小さく答えた。
行きたいと言い切るには、まだ少し違う。けれど、行かないでいるには気になる。それだけだった。
「歩いて行けますか」
「歩けんことはないけど、暑いよ。バスでもええし、自転車使うてもええよ」
「自転車」
「乗れる?」
「乗れます」
「じゃあ、古いのでよければ」
静江は玄関横の物置から、自転車を出してくれた。
銀色の軽い自転車だった。前かごに少し錆があり、サドルの端が擦れている。けれど、タイヤには空気が入っていて、ベルも鳴った。
「道、分かる?」
「地図見ながら行きます」
「迷ったら電話しんさい」
「はい」
「航平くんの店は、駅の方。看板あるけえ、分かると思う」
静江はそれだけ言って、また台所へ戻ろうとした。
栞は自転車のハンドルを握ったまま、少し呼び止めた。
「あの、叔母さん」
「ん?」
「私、変じゃないですか」
静江は、栞の服装を見た。
白いブラウスに、薄い紺色のスカート。東京から持ってきた中では、しわの少ないものを選んだ。髪も一応、結んでいる。
「変じゃないよ」
「そうですか」
「酒屋に行く格好としては、真面目すぎるかもしれんけど」
「真面目すぎますか」
「まあ、栞ちゃんらしいんじゃない」
栞ちゃんらしい。
そう言われても、自分ではよく分からなかった。
けれど、静江がそれをダメなことのように言わなかったので、栞はそのまま自転車を押して門を出た。
道は、ゆるやかに駅の方へ続いていた。
朝のうちはまだ風があり、自転車で走ると少しだけ涼しかった。白い壁の酒蔵がいくつか見える。観光用に整えられたらしい通りもあり、古い建物の前で写真を撮っている人もいた。
栞はペダルをゆっくり踏んだ。
知らない町を自転車で走るのは、少し心許ない。歩くより速く、車より遅い。通り過ぎるものを全部見るには速すぎて、何も見ないで済ませるには遅すぎる。
小さなパン屋、閉まっている喫茶店、軒先に干された布団、酒蔵の前に置かれた杉玉、古い看板。
知らない町の生活は、いちいち栞の目に入ってきた。
東京では、ほとんどのものを見ないように歩いていたのだと思う。見ていたら、間に合わない。見ていたら、疲れる。
ここでも見すぎれば疲れるのかもしれない。けれど今は、まだ少しだけ見ていられた。
途中、小さな川を渡った。
橋の上で、自転車の速度を少し落とす。川幅は広くない。水は浅く、ところどころに石が見えている。東京で見かける川より、ずっと生活の近くにある川だった。
橋を渡りきると、道の向こうに駅前の通りが見えた。
酒舗まなべは、その川を越えた先の角にあった。
酒舗まなべ。
看板は大きすぎず、古すぎず、白い地に黒い文字で店名が書かれている。
入口の横には、冷蔵ケースの中に地酒の瓶が並んでいた。
木の札、手書きの値段、小さな試飲会の案内。
観光客向けの明るさと、地元の人が普段使う店の落ち着きが、同じ棚に並んでいるような店だった。
栞は自転車を端に止めた。すぐに入るつもりだったのに、入口の前で少し立ち止まった。
ガラス戸の向こうで、航平が客と話しているのが見えた。年配の女性だった。
小さな瓶を手に持ち、ラベルを見ながら何か聞いている。航平は、少し腰をかがめて、相手の手元を見ながら話していた。
笑っている。けれど、昨日静江と話していたときの笑い方とは違う。相手の速度に合わせている笑い方だった。
書店のカウンターで、自分が客に向かっていたときの顔を、栞はふと思い出した。
お探しの本はございますか。ご自宅用ですか、贈り物ですか。こちらは少し字が小さめですが、装丁がきれいです。店頭在庫がない場合は、お取り寄せになります。お時間いただきますが、よろしいでしょうか。
どれも、相手に合わせて少しずつ形を変える言葉だった。
女性客が笑って、航平も笑う。
一本買うことにしたらしい。航平は瓶を受け取り、丁寧に紙袋へ入れた。
栞はまだ外にいた。
入るタイミングを失っていると、航平が顔を上げた。
目が合う。
航平は少しだけ驚いた顔をして、それから入口の方へ歩いてきた。
ガラス戸が開く。
「川瀬さん」
「こんにちは」
「来てくれたんですね」
「はい。店、見てもいいですか」
「もちろんです。すみません、今ちょっとだけお会計してきます」
「あ、はい」
「涼しいので、中で待っててください」
航平はそう言って、戸を大きく開けたまま店内へ戻った。
栞は一歩、店へ入った。




