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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
酒販店の真鍋さん

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10/35

川向こうの店

 翌朝、栞はいつもより少し早く目が覚めた。

 洗濯ばさみの音はしなかった。その代わり、台所の方から水の流れる音がした。細く、長く、途切れずに続いている。

 栞は布団の中でしばらくそれを聞いていた。

 東京の部屋でも水の音はする。

 蛇口をひねれば出るし、洗濯機を回せば溜まるし、風呂の湯を抜けば排水口へ流れていく。

 けれど、東京の水の音はだいたい忙しなかった。

 歯を磨くため、手を洗うため、こぼしたものを拭くため。そして洗わなければいけないものを、まとめて片づけるため。

 ここで聞こえる水は、同じ水なのに、どこかゆったりと流れているような音がした。

 栞は布団から起き上がった。

 カーテンを開けると、庭に昨日とは違う洗濯物が並んでいた。白いタオルではなく、今日は薄い色のシャツが二枚と、紺色の前掛けが一枚。前掛けには、やはり河本酒造の文字がある。

 少し離れたところに、昨日航平が運んできた空き瓶のケースが積まれていた。

 栞はそれを見て、ポケットに入れたままの名刺を思い出した。

 酒舗まなべ。

 昨日、何度か取り出しては見た。

 店の名前と、住所と、電話番号。それだけの紙なのに、ずいぶんいろいろなものがくっついているように思えた。

 朝食は、昨日より簡単だった。

 トーストと、ゆで卵と、きゅうりを切ったもの。

 静江は、今日は米炊いてないけえ、と言った。

「毎朝おにぎりなわけじゃないんですね」

「そりゃそうよ」

 静江はトーストにバターを塗りながら答えた。

「おにぎりにも休みがいるじゃろ」

「おにぎりが休むんですか」

「握る方が休むんよ」

 栞は少し笑った。

 食パンは少し厚くて、耳が硬かった。東京のコンビニで買うサンドイッチより、噛む回数が多い。それでも食べ終わる頃には、皿の上にはパン屑しか残らなかった。

「今日、どうするん」

 静江が聞いた。

 栞は水を飲んでから、少し迷った。

「真鍋さんのお店に、行こうかと」

「そう」

「昨日、見に来ませんかって言われたので」

「うん」

 静江は、それ以上何も聞かなかった。

 少し拍子抜けするくらいだった。

「行ってもいいんですか」

「栞ちゃんが行きたいなら」

「行きたい、というか」

「うん」

「本屋と似てるって言われたので」

「気になるんじゃね」

 栞は、はい、と小さく答えた。

 行きたいと言い切るには、まだ少し違う。けれど、行かないでいるには気になる。それだけだった。

「歩いて行けますか」

「歩けんことはないけど、暑いよ。バスでもええし、自転車使うてもええよ」

「自転車」

「乗れる?」

「乗れます」

「じゃあ、古いのでよければ」

 静江は玄関横の物置から、自転車を出してくれた。

 銀色の軽い自転車だった。前かごに少し錆があり、サドルの端が擦れている。けれど、タイヤには空気が入っていて、ベルも鳴った。

「道、分かる?」

「地図見ながら行きます」

「迷ったら電話しんさい」

「はい」

「航平くんの店は、駅の方。看板あるけえ、分かると思う」

 静江はそれだけ言って、また台所へ戻ろうとした。

 栞は自転車のハンドルを握ったまま、少し呼び止めた。

「あの、叔母さん」

「ん?」

「私、変じゃないですか」

 静江は、栞の服装を見た。

 白いブラウスに、薄い紺色のスカート。東京から持ってきた中では、しわの少ないものを選んだ。髪も一応、結んでいる。

「変じゃないよ」

「そうですか」

「酒屋に行く格好としては、真面目すぎるかもしれんけど」

「真面目すぎますか」

「まあ、栞ちゃんらしいんじゃない」

 栞ちゃんらしい。

 そう言われても、自分ではよく分からなかった。

 けれど、静江がそれをダメなことのように言わなかったので、栞はそのまま自転車を押して門を出た。

 道は、ゆるやかに駅の方へ続いていた。

 朝のうちはまだ風があり、自転車で走ると少しだけ涼しかった。白い壁の酒蔵がいくつか見える。観光用に整えられたらしい通りもあり、古い建物の前で写真を撮っている人もいた。

 栞はペダルをゆっくり踏んだ。

 知らない町を自転車で走るのは、少し心許ない。歩くより速く、車より遅い。通り過ぎるものを全部見るには速すぎて、何も見ないで済ませるには遅すぎる。

 小さなパン屋、閉まっている喫茶店、軒先に干された布団、酒蔵の前に置かれた杉玉、古い看板。

 知らない町の生活は、いちいち栞の目に入ってきた。

 東京では、ほとんどのものを見ないように歩いていたのだと思う。見ていたら、間に合わない。見ていたら、疲れる。

ここでも見すぎれば疲れるのかもしれない。けれど今は、まだ少しだけ見ていられた。

 途中、小さな川を渡った。

 橋の上で、自転車の速度を少し落とす。川幅は広くない。水は浅く、ところどころに石が見えている。東京で見かける川より、ずっと生活の近くにある川だった。

 橋を渡りきると、道の向こうに駅前の通りが見えた。

 酒舗まなべは、その川を越えた先の角にあった。

 酒舗まなべ。

 看板は大きすぎず、古すぎず、白い地に黒い文字で店名が書かれている。

 入口の横には、冷蔵ケースの中に地酒の瓶が並んでいた。

 木の札、手書きの値段、小さな試飲会の案内。

 観光客向けの明るさと、地元の人が普段使う店の落ち着きが、同じ棚に並んでいるような店だった。

 栞は自転車を端に止めた。すぐに入るつもりだったのに、入口の前で少し立ち止まった。

 ガラス戸の向こうで、航平が客と話しているのが見えた。年配の女性だった。

 小さな瓶を手に持ち、ラベルを見ながら何か聞いている。航平は、少し腰をかがめて、相手の手元を見ながら話していた。

 笑っている。けれど、昨日静江と話していたときの笑い方とは違う。相手の速度に合わせている笑い方だった。

 書店のカウンターで、自分が客に向かっていたときの顔を、栞はふと思い出した。

 お探しの本はございますか。ご自宅用ですか、贈り物ですか。こちらは少し字が小さめですが、装丁がきれいです。店頭在庫がない場合は、お取り寄せになります。お時間いただきますが、よろしいでしょうか。

 どれも、相手に合わせて少しずつ形を変える言葉だった。

 女性客が笑って、航平も笑う。

 一本買うことにしたらしい。航平は瓶を受け取り、丁寧に紙袋へ入れた。

 栞はまだ外にいた。

 入るタイミングを失っていると、航平が顔を上げた。

 目が合う。

 航平は少しだけ驚いた顔をして、それから入口の方へ歩いてきた。

 ガラス戸が開く。

「川瀬さん」

「こんにちは」

「来てくれたんですね」

「はい。店、見てもいいですか」

「もちろんです。すみません、今ちょっとだけお会計してきます」

「あ、はい」

「涼しいので、中で待っててください」

 航平はそう言って、戸を大きく開けたまま店内へ戻った。

 栞は一歩、店へ入った。

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