邪魔にならない言葉
最初に感じたのは、冷蔵ケースの冷気だった。外の暑さが背中に残っていたぶん、ひやりとする。
次に、瓶の匂い。
酒の匂いというより、ガラスと紙と段ボールが混じった匂い。どこか書店のバックヤードに似ているような、まるで違うような匂いだった。
棚には、瓶が並んでいた。
一升瓶、四合瓶、小さな飲み比べ用の瓶、紙パックの酒、梅酒、甘酒。レジ横には、地元の菓子や、酒粕を使った何かも置かれている。
全部が酒ではない。そのことに、少しほっとした。
栞は棚の前をゆっくり歩いた。
ラベルの文字を読む。聞いたことのない名前ばかりだった。けれど、どの瓶にも誰かの手があり、時間があり、場所があるのだろうと思う。
それは本と似ていた。知らない作家名が並ぶ棚を、初めて見る人はこんな気持ちなのかもしれない。
どれも何かを持っていそうなのに、どこから手を伸ばせばいいか分からない。
「お待たせしました」
航平が戻ってきた。
栞は、いえ、と首を振った。
「お客さん、よく来るんですね」
「時間によります。さっきの方は近所の常連さんです」
「何を買われたんですか」
「お孫さんの家に持って行く小さい瓶です。重いのは嫌だけど、地元のものを持って行きたいって」
「そういう選び方もあるんですね」
「あります。飲むためだけじゃないですね、酒は」
航平は棚の一角を少し整えた。
瓶の向きを揃える。ラベルが正面を向く。ただそれだけで、棚が少ししゃんとした。
「本も、読むためだけじゃないでしょう」
航平が言った。
栞は少し考えた。
「たぶん」
「贈る本とか」
「あります」
「買っただけで安心する本とか」
「あります」
「積んでおく本とか」
「それもあります」
「酒も似てます」
航平は笑った。
「買っただけで安心する酒、あるんですか」
「ありますよ。正月用とか、お客さんが来たとき用とか、何かあったときのために置いておく酒」
「何か」
「何か、です」
栞は棚を見た。
何かあったときのために置いておくもの。
東京の部屋には、そういうものがほとんどなかった。
洗剤は空だった。冷蔵庫のヨーグルトは期限が分からない。米は、たぶんまだ少しあるが、炊く気になれなかった。
何かあったときどころか、何もない日を越すためのものすら、あまり置けていなかった。
「本屋さんも、こういう感じですか」
航平が聞いた。
「似てます」
栞は答えた。
「でも、本は賞味期限がないので」
「酒も、売りどきを逃すと棚の奥で古くなります」
航平は、冷蔵ケースの奥を指した。
「もちろん、寝かせた方がいいものもありますけど。全部がそうじゃないです」
「本もそうです」
栞は言った。
「古くなってから届く本もあります。でも、今出したい本もある」
「それは、返本されるんですか」
栞は航平を見た。
航平はすぐに、すみません、と言った。
「聞き方が悪かったですね」
「いえ。返本されます」
言ってしまうと、思ったより平気だった。
「届かなかった本は、戻ります。戻ったあと、どうなるかは本によります」
「酒も、戻したいときありますよ」
「戻せるんですか」
「戻せないです。だいたいは」
航平は少しだけ笑った。
「だから、棚に置くときに考えます。どこに置いたら手に取ってもらえるか。誰にすすめるか。どの言葉なら、邪魔にならないか」
邪魔にならない言葉。
栞は、その言い方に少しだけ引っかかった。




