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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
酒販店の真鍋さん

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空いた棚

「目立つ言葉じゃなくて?」

「目立つ言葉も必要です。でも、目立ちすぎると瓶より先に言葉が来るので」

 航平は、棚に置かれた小さな札を指で軽く叩いた。

「難しいです」

 栞は、札を見た。

 辛口、冷やして、魚に合います、普段の晩酌に。

 どれも短い。短いのに、それだけで誰かの食卓が少し見える。

「本屋のPOPも、そうかもしれません」

「そうですか」

「目立てばいいわけじゃないです」

 自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。

 目立てばいいわけではない。

 そんなことは分かっている。分かっていたはずだった。それなのに、最近の自分は目立つ言葉ばかり探している。

 泣ける、刺さる、救われる、広がる。

 そういう言葉が悪いわけではない。でも、言葉が先に来ると、本が少し後ろへ下がる。

「川瀬さん」

 航平が呼んだ。

「はい」

「無理にとは言いませんけど」

 その前置きだけで、栞は少し構えた。

「今度出す小瓶の棚、見てもらえませんか」

「棚、ですか」

「はい。文章を頼む前に、まず棚だけ」

「文章」

「本当は、お願いしたいです。でも、昨日あんまり乗り気じゃなさそうだったので」

 乗り気じゃなさそう。

 その通りだった。

 けれど、そう見えていたことが少し恥ずかしかった。

「私、いま、あんまり書けないと思います」

「そうですか」

「すみません」

「いえ。無理に頼むことじゃないので」

 航平はすぐに引いた。引き方が自然だった。だから、栞は余計に困った。

 押されたら断れる。しつこくされたら嫌いになれる。でも、航平は押してこない。ただ、棚の方へ歩いていく。

「ここです」

 店の奥寄り、冷蔵ケースの横に、小さな空きがあった。瓶が五本ほど置ける幅。今は何もない。木の札だけが置かれ、そこにもまだ何も書かれていなかった。

「まだ名前も決まっていません。透馬さんは、若い人にも買いやすいものにしたいって言ってます」

「若い人」

「僕も、それは必要だと思ってます」

「はい」

「でも、若い人向けって言った瞬間に、なんか軽くなるでしょう」

 航平は棚を見たまま言った。

 栞は返事をしなかった。

 それは、書店でも何度もあった。

 若い人向け、女性向け、泣きたい人向け、人生を変えたい人向け。

 誰かに届くように言葉を絞ると、その誰かを勝手に小さくしてしまうことがある。

「うまく売りたいんです」

 航平が言った。

 栞は、少しだけ顔を上げた。

「売る、ですか」

「はい」

 航平は、こちらを見た。

「売れないと、次が作れないので」

 それは、とてもまっすぐな言葉だった。

 栞は反論できなかった。

 売れることを悪いことみたいに思うのは簡単だ。

 でも、売れなかった本が平台から下げられることを、栞はよく知っている。売れなかった店が閉まることも知っている。

「でも、軽くしたいわけじゃないんです」

 航平は続けた。

「そこが、難しくて」

 店の外を、自転車が通った。ガラス戸の向こうで、誰かの影が一瞬流れる。

 栞は空いた棚を見た。

 何も置かれていない場所。そこに、これから瓶が並ぶ。その横に、言葉が置かれる。置かれた言葉によって、誰かが手を伸ばすかもしれない。伸ばさないかもしれない。

 そのことを考えると、胸の奥が少し詰まった。

「見ます」

 栞は言った。

 航平が、え、と小さく返した。

「文章は、まだ分かりません。でも、棚は見ます」

「ありがとうございます」

 航平は頭を下げた。

 きちんとしたお辞儀だった。

 栞は、それを見てやっぱり少し疲れた。けれど、さっきほど息苦しくはなかった。

 店を出るとき、航平はガラス戸の外まで来た。

「暑いので、気をつけて帰ってください」

「はい」

「送ります」

「いえ、大丈夫です」

「じゃあ、そこまで」

「そこって」

「店の前です」

 航平は真面目な顔で言った。

 栞は少しだけ笑った。

「それはもう送ってもらってます」

「そうですね」

 航平も笑った。

 店の前には、栞の借りた自転車が停まっている。ハンドルは少し熱くなっていた。

 栞はサドルに手を置き、ふと振り返った。

 ガラス戸の向こうに、空いた棚が見える。小さな場所だった。けれど、そこだけが妙に目に残る。

「川瀬さん」

 航平が呼んだ。

「はい」

「本屋さんの棚と、似てましたか」

 栞は少し考えた。

「似てました」

「それはよかった」

「よかったんですか」

「全然似てないって言われたら、ちょっと困るので」

 航平はそう言って笑った。

 栞は、自転車を押して歩き出した。

 角を曲がる前にもう一度だけ店を見る。

 酒舗まなべ。

 栞はやっぱり、真鍋航平のことが少し苦手だと思った。

 感じがいい。距離も近すぎない。言葉も丁寧で、仕事もきちんとしている。嫌なところは、今のところ何もない。

 だから、苦手だった。その苦手さの奥にあるものを、まだ見たくなかった。

 帰り道、自転車の前かごに、名刺が一枚入っている。

 酒舗まなべ。

 栞は信号待ちの間に、それを鞄へしまった。

 空いた棚のことが、なかなか頭から離れなかった。

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