守る酒、売る酒
酒舗まなべから戻ると、静江は台所で小松菜を洗っていた。水の中で、葉が何度か揺れる。
栞は勝手口のところで靴を脱ぎながら、ただいま、と言った。
「おかえり。迷わんかった?」
「はい」
「店、分かった?」
「分かりました」
「航平くん、おった?」
「いました」
静江はそれ以上聞かなかった。
栞は少しだけ待った。
どんな店だったとか、何を話したとか、頼まれたのかとか、聞かれるかもしれないと思った。
けれど静江は、小松菜をざるに上げて、今度はまな板の上に置いた。包丁の音が始まる。
栞はその音を聞きながら、鞄から名刺を出した。
酒舗まなべ。
何度見ても、文字は変わらない。
店の中の冷気、瓶の並んだ棚、空いた小さな場所。航平の、売れないと次が作れないので、という声。
それらが、紙の角に薄く染みているようだった。
「お店、本屋に似てました」
栞は、自分から言った。
静江の包丁が止まる。
「そう」
「でも、違いました」
「そりゃ違うよ。酒屋じゃもん」
「そうなんですけど」
栞は名刺を見たまま、言葉を探した。
似ている。違う。どちらも本当だった。
棚に並べる、誰かが手を伸ばすのを待つ、短い言葉を添える。売れなければ、残らない。
それは似ていた。
でも、酒は飲めばなくなる。
本は読んでも残る。それなのに、手に取られない本は戻っていく。残っているのか、残っていないのか、分からなくなる。
「分からなくなりました」
栞が言うと、静江は小松菜を切りながら、そう、とだけ返した。
その声が、答えを急がない形をしていた。
夕方、透馬から静江の携帯に電話が入った。
栞は台所の端で、湯呑みを拭いていた。
静江は、うん、うん、と短く返事をしてから、少しだけ眉を上げた。
「今から?」
向こうで、透馬が何か言っている。
静江は鍋の火を弱めた。
「ええけど。栞ちゃん、巻き込まんようにしんさいよ」
その言葉で、栞は手を止めた。
巻き込む。
昨日から何度も、その気配だけがある言葉だった。
静江は電話を切ると、栞の方を見た。
「透馬くんと航平くん、もう一回ちょっと話したいんと」
「ここでですか」
「蔵の奥の部屋」
「私は」
「お茶だけ出してくれる?」
「はい」
「重かったら二回に分けんさい」
「これくらいなら、大丈夫です」
栞がそう答えると、静江は少しだけ笑った。
「大丈夫な人ほど、よう落とすけえね」
返す言葉に迷っているうちに、静江は湯呑みを四つ盆に並べた。
「四つ?」
「巻き込まれる覚悟だけは、しときんさいね」
栞が、え、と思っている内に、急須から湯気が上がる。
栞は盆を持ち上げた。
湯呑みの底が、盆の上で小さく鳴った。
酒蔵の奥の部屋には、透馬と真鍋航平と久住厳がいた。
透馬は書類を広げている。
航平はボールペンを持っていた。
厳は壁に近い椅子に座り、何も持っていなかった。
何も持っていないのに、その場で一番重いものを抱えているように見えた。
「すみません、お茶です」
栞が盆を置くと、透馬が顔を上げた。
「栞ちゃん、ちょうどええわ」
その言い方に、栞は嫌な予感がした。
「本屋さんやったら、こういう酒、どう売る?」
湯呑みから、細く湯気が上がっていた。
栞はそれを見たまま、すぐには返事ができなかった。
「透馬さん」
航平が静かに言った。
「いきなりそれは」
「あ、ごめん。いや、ほんまに聞きたかっただけなんよ」
透馬は片手を上げた。悪気はなさそうだった。悪気がないことは、助けにならないときがある。
栞は盆を両手で持ったまま立っていた。
「座ったら?」
透馬が空いている椅子を指さす。
「いえ、私は」
「まあ、お茶出しに来てくれた人をそのまま帰すのも悪いし」
そう言いながら、透馬は書類を栞の方へ少し動かした。
紙には、新商品の案らしい文字が並んでいた。
小瓶、低アルコール、観光客、若年層、ギフト、試飲会。
見慣れた言葉ではないのに、見慣れた形をしていた。
企画書の言葉。誰かに通すために整えられた言葉。
「若い人にも飲んでもらいたいんよ」
透馬は言った。
「日本酒ってだけで、ちょっと構えられるけえ。重いとか、古いとか、おじさんの飲み物とか。実際はそんなことないのに」
航平は黙って聞いている。
厳は湯呑みを手に取らなかった。
「小さい瓶なら持ち帰りやすいし、アルコールも少し軽めにして、食事にも合わせやすくして。ラベルも少しやわらかくして」
透馬はそこで、厳の方を見た。
「味を変えたいわけじゃないんです。入口を増やしたいだけなんよ」
厳はしばらく黙っていた。
部屋の外から、水の落ちる音がする。
ぽたり。
少し間が空く。
また、ぽたり。
「入口だけ見て帰る人間のために、蔵を変えるんか」
厳の声は、怒鳴っているわけではなかった。そのせいで、余計に部屋の空気が動かなくなった。
透馬は、書類の端を指で押さえた。
「変えんかったら、入口ごとなくなるんです」
航平のボールペンが、紙の上で止まった。
栞は、自分がまだ盆を持っていることに気づいた。
指が少しこわばっている。
お茶はもう置いた。
盆だけなら、台所へ戻せばいい。
それなのに、足が動かなかった。
「若い人に飲んでもらうのが嫌なんじゃない」
厳が言った。
透馬が顔を上げる。
「じゃあ、何が嫌なんですか」
「分かったような顔で売られることじゃ」




