何を捨てたか
栞は、盆の縁を握り直した。
分かったような顔。
その言葉が、自分の方へも向けられたような気がした。
誰も栞を見ていない。
それでも、見られているようだった。
「分かってもらう入口を作らんと、誰も入ってこんでしょう」
透馬が言った。
「分かりやすくすることと、分かったことにすることは違う」
厳は、湯呑みに手を伸ばした。
やっと一口飲む。
それ以上は言わなかった。
航平は、手元の紙に何かを書きかけて、やめた。ボールペンの先が、紙の上に小さな点を残している。
栞はその点を見た。
言葉にならなかったものの跡みたいだった。
「川瀬さん」
今度は航平が呼んだ。
栞は、顔を上げた。
「無理に答えなくていいです」
「うん。でも、聞くだけ聞きたい」
透馬が言う。
「本屋のPOPって、どうやって書くん?」
どうやって。
栞は、その問いが一番困ると思った。
読んで、考えて、短くして、紙に書く。
それだけなら言える。
でも、本当はそれだけではなかった。
誰に手に取ってほしいか考える。この本を好きになりそうな人を、勝手に想像する。けれど決めつけすぎないようにする。あらすじを書きすぎない。感想を書きすぎない。帯と同じことを言わない。売り場で埋もれないようにする。でも、本より前に出ないようにする。
そんなことを、毎回きれいに考えているわけではない。
締切に追われて、売り場の空きに合わせて、店長に言われて、出版社の販促物を横目に、たまには自分でも何を書いているのか分からないまま書く。
「読んでない人に、手に取ってもらうための言葉じゃろ」
透馬が言った。
栞は、その通りだと思った。
その通りなのに、そこだけ言われると何かが欠ける。
「酒も似てると思うんです」
航平が静かに続けた。
「飲んでない人に、まず手に取ってもらわないといけない」
栞は、航平の顔を見た。
航平はまっすぐこちらを見ていた。接客の顔ではなかった。けれど、店の人の顔ではあった。売ることから逃げていない顔。
「手に取ってもらわないと、始まらないですから」
その言葉に、栞は小さくうなずいた。
分かる。
分かってしまう。
平台に置かれた本も、棚の奥の本も、誰かが手を伸ばさなければただそこにあるだけだ。
どれだけ良い本でも、売れなければ下げられる。どれだけ好きだと誰かが言っても、来てもらえなければ店は閉まる。
「でも」
栞は、知らないうちに声を出していた。
三人がこちらを見る。
栞は盆を胸の前に持ったまま、指先に少し力を入れた。
「手に取ってもらうために、どこまで言っていいのか、分からなくなることがあります」
部屋の外で、また水が落ちた。
「この本は泣けます、とか、人生が変わります、とか、救われます、とか。そういう言葉で本当に手に取ってもらえることもあります。でも、そう書いた瞬間に、その本が少しだけ別のものになるようなときがあって」
栞は、途中で言葉を止めた。
言いすぎた。
お茶を出しに来ただけの人間が、何を話しているのだろう。
「すみません」
反射で謝ると、厳が言った。
「謝ることじゃない」
短い声だった。
栞は厳を見た。
厳は、湯呑みを両手で包んでいた。
「書ける人間が、何でも書けるわけじゃない」
透馬が、少し気まずそうに息を吐いた。
航平は何も言わなかった。
栞は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
書ける人間。
自分がそうなのかどうかも分からない。
ただ、書けると思われている。書いてきたことはある。それだけだった。
「でも、必要なんです」
透馬が言った。
声が、少しだけ硬くなっていた。
「必要なんよ。うまく言葉にして、知らん人にも届くようにせんと。うちは、ただ待っとるだけじゃ残れん」
厳は、透馬を見なかった。
「残すためなら、何を薄めてもええんか」
「薄めたいわけじゃないです」
「なら、薄く聞こえる言葉を先に並べるな」
「じゃあどうすればいいんですか」
透馬の声が、初めて少し上がった。
静江がここにいなくてよかった、と栞は思った。いたら、たぶん何か言った。あるいは、何も言わずに鍋の火だけ見に戻ったかもしれない。
航平が、ボールペンを置いた。
「一回、棚で見せ方を変えます」
その声は、二人の間に布を一枚挟むような声だった。
「名前とラベルの案が決まったら、店で仮置きしてみます。そこで違和感があるか見ます」
「真鍋くん」
透馬が言う。
「言葉を先に決めすぎると、たぶんずれます」
航平は栞の方を見ないまま言った。
「僕も、昨日そう思いました」
昨日。
酒舗まなべの空いた棚、木の札、邪魔にならない言葉。
栞は、それを思い出した。
「川瀬さんにも、もしよければ見てもらって」
航平はそこで、ようやく栞を見た。
「文章を頼むというより、違和感があったら教えてもらうくらいで」
頼み方が、うまい。
栞はそう思った。
断れる余地を残している。それでいて、完全には逃がさない。
こういうところが、やはり少し苦手だった。
「私で分かるかどうかは」
「分からなくてもいいです」
航平が言った。
「分からないって言ってもらうのも、たぶん必要なので」
部屋の中が、少しだけ静かになった。
透馬は椅子にもたれ、厳は湯呑みを置く。
栞は盆を持ち直した。
「お茶、冷める前にどうぞ」
自分でも、急に何を言っているのだろうと思った。
けれど、誰かが少しだけ笑った。
透馬だった。
「そうじゃね」
航平も湯呑みを取った。
厳はもう飲んでいる。
栞は空いた湯呑みがないことを確認して、盆を持ったまま部屋を出た。
廊下へ出ると、体から少し力が抜けた。
水の音が近くなる。
どこかでホースの先から水が落ち続けているらしい。
ぽたり。
ぽたり。
栞はその音を聞きながら、台所へ戻った。
静江は鍋の前に立っていた。
「落とさんかったね」
第一声がそれだった。
栞は盆を流しの横へ置いた。
「落としませんでした」
「えらいえらい」
子ども扱いのようなのに、嫌ではなかった。
静江は鍋の中をかき混ぜた。
「巻き込まれた?」
「少し」
「そう」
「でも、お茶は出しました」
「それで十分よ」
栞は、流しの前に立ったまま、自分の手を見た。
盆を握っていた指が、少し赤くなっている。力を入れすぎていたらしい。手を開くと、ゆっくり戻った。
「叔母さん」
「ん」
「言葉って、薄くなりますか」
静江は鍋を見たまま、少し考えた。
「水で?」
「いえ」
「じゃあ、使いすぎたら?」
栞は答えられなかった。
静江は火を弱め、蓋をした。
「よう分からんけど、味噌汁は煮詰まることもあるよ」
「言葉も?」
「知らん」
静江はあっさり言った。
「でも、濃すぎても飲めんね」
栞は、少し笑いそうになった。静江は真面目な顔のままだった。それが、余計におかしかった。
「じゃあ、ちょうどいいところを探すんですね」
「だいたいのもんは、そうじゃろ」
台所に、味噌の匂いが広がっていた。
蔵の奥の部屋では、まだ話し声が続いている。
守る人、売る人、作る人、書くかもしれない人。
それぞれが、それぞれの言葉を持っている。
栞は、流しの水を少しだけ出した。
手を洗う。
冷たい水が指の赤みを流していく。薄くなっているのか、冷えているだけなのかは分からなかった。
夕方近くになって、蔵の奥の部屋の戸が開いた。
先に出てきたのは透馬だった。
ファイルを脇に挟み、片手で首の後ろを押さえている。朝に会ったときより、少しだけ顔の明るさが落ちていた。
「静江さん、すみません。長居しました」
「ええよ。晩ご飯食べてく?」
「食べたいですけど、今日は戻ります。資料、直さんといけんので」
「ちゃんと食べんさいよ」
「はい」
返事は軽かったが、たぶんちゃんとは食べないだろうと栞は思った。
東京の書店にも、似たような返事をする人がいた。忙しいときの「大丈夫です」は、たいてい大丈夫ではない。
透馬は勝手口で靴を履きながら、栞の方を見た。
「さっきはごめんね」
「いえ」
「来たばっかりなのに、変な話聞かせて」
「変ではなかったです」
栞がそう答えると、透馬は少しだけ目を丸くした。
「そう?」
「はい」
「なら、まあ、よかったんかな」
透馬は笑おうとして、うまく笑いきれない顔をした。
「栞ちゃん、ほんまに無理せんでええけえ。うちのことは、うちの人間が考えることじゃし」
その言葉に、栞はうなずいた。
うなずいたけれど、少しだけ違うとも思った。
うちのことは、うちの人間が考える。
それは正しい。
でも、棚に置かれたものは、うちの外へ出ていく。
本も酒も、作った人や売る人だけのところには留まらない。知らない人の手に渡る。知らない人の台所や食卓や本棚へ行く。そこまで行かなければ、届いたことにはならない。
栞はそれを知っている。知っているから、何も言えなかった。
「じゃあ、また」
透馬は車の鍵を指で回しながら出ていった。その後ろ姿は、昼間より少し小さく見えた。
厳はしばらくしてから出てきた。手には湯呑みを持っている。
「ごちそうさん」
それだけ言って、流しの横へ湯呑みを置いた。
静江が、はいはい、と受け取る。
栞は、厳がこちらを見ないまま通り過ぎると思っていた。
けれど厳は、勝手口のところで足を止めた。
「川瀬さん」
急に名前を呼ばれて、栞は背筋を伸ばした。
「はい」
「さっきの」
「はい」
「言葉が薄くなる話」
栞は、少しだけ息を止めた。
厳は、外を見ていた。
庭の洗濯物は、そろそろ取り込まれる時間だった。白いタオルの端が、夕方の風でゆるく動いている。
「薄くせんために、長く言えばええわけでもない」
厳は言った。
栞は返事をしなかった。
「短い言葉が、全部悪いわけじゃない」
そう言ってから、厳はやっと栞を見た。
「ただ、短くするなら、何を捨てたか分かっとらんといけん」
栞は、手元を見た。
右手の小指の横に、また薄いインクの跡があった。
今朝、何かを書いたわけではない。昨日までの跡が、まだ残っているだけだった。
「……はい」
栞が答えると、厳はそれ以上何も言わなかった。
勝手口を出て、蔵の方へ戻っていく。
静江が湯呑みを洗いながら、小さく笑った。
「久住さん、今日はようしゃべったね」
「今のでですか」
「うん。だいぶしゃべった」
栞は、厳の背中が見えなくなった方を見た。
だいぶ。
あれで。
けれど、たしかに短い言葉の方が残ることはある。
何を捨てたか分かっとらんといけん。
栞はその言葉を、心の中で一度だけ繰り返した。




