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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
守る酒、売る酒

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14/35

何を捨てたか

 栞は、盆の縁を握り直した。

 分かったような顔。

 その言葉が、自分の方へも向けられたような気がした。

 誰も栞を見ていない。

 それでも、見られているようだった。

「分かってもらう入口を作らんと、誰も入ってこんでしょう」

 透馬が言った。

「分かりやすくすることと、分かったことにすることは違う」

 厳は、湯呑みに手を伸ばした。

 やっと一口飲む。

 それ以上は言わなかった。

 航平は、手元の紙に何かを書きかけて、やめた。ボールペンの先が、紙の上に小さな点を残している。

 栞はその点を見た。

 言葉にならなかったものの跡みたいだった。

「川瀬さん」

 今度は航平が呼んだ。

 栞は、顔を上げた。

「無理に答えなくていいです」

「うん。でも、聞くだけ聞きたい」

 透馬が言う。

「本屋のPOPって、どうやって書くん?」

 どうやって。

 栞は、その問いが一番困ると思った。

 読んで、考えて、短くして、紙に書く。

 それだけなら言える。

 でも、本当はそれだけではなかった。

 誰に手に取ってほしいか考える。この本を好きになりそうな人を、勝手に想像する。けれど決めつけすぎないようにする。あらすじを書きすぎない。感想を書きすぎない。帯と同じことを言わない。売り場で埋もれないようにする。でも、本より前に出ないようにする。

 そんなことを、毎回きれいに考えているわけではない。

 締切に追われて、売り場の空きに合わせて、店長に言われて、出版社の販促物を横目に、たまには自分でも何を書いているのか分からないまま書く。

「読んでない人に、手に取ってもらうための言葉じゃろ」

 透馬が言った。

 栞は、その通りだと思った。

 その通りなのに、そこだけ言われると何かが欠ける。

「酒も似てると思うんです」

 航平が静かに続けた。

「飲んでない人に、まず手に取ってもらわないといけない」

 栞は、航平の顔を見た。

 航平はまっすぐこちらを見ていた。接客の顔ではなかった。けれど、店の人の顔ではあった。売ることから逃げていない顔。

「手に取ってもらわないと、始まらないですから」

 その言葉に、栞は小さくうなずいた。

 分かる。

 分かってしまう。

 平台に置かれた本も、棚の奥の本も、誰かが手を伸ばさなければただそこにあるだけだ。

 どれだけ良い本でも、売れなければ下げられる。どれだけ好きだと誰かが言っても、来てもらえなければ店は閉まる。

「でも」

 栞は、知らないうちに声を出していた。

 三人がこちらを見る。

 栞は盆を胸の前に持ったまま、指先に少し力を入れた。

「手に取ってもらうために、どこまで言っていいのか、分からなくなることがあります」

 部屋の外で、また水が落ちた。

「この本は泣けます、とか、人生が変わります、とか、救われます、とか。そういう言葉で本当に手に取ってもらえることもあります。でも、そう書いた瞬間に、その本が少しだけ別のものになるようなときがあって」

 栞は、途中で言葉を止めた。

 言いすぎた。

 お茶を出しに来ただけの人間が、何を話しているのだろう。

「すみません」

 反射で謝ると、厳が言った。

「謝ることじゃない」

 短い声だった。

 栞は厳を見た。

 厳は、湯呑みを両手で包んでいた。

「書ける人間が、何でも書けるわけじゃない」

 透馬が、少し気まずそうに息を吐いた。

 航平は何も言わなかった。

 栞は、その言葉をすぐには受け取れなかった。

 書ける人間。

 自分がそうなのかどうかも分からない。

 ただ、書けると思われている。書いてきたことはある。それだけだった。

「でも、必要なんです」

 透馬が言った。

 声が、少しだけ硬くなっていた。

「必要なんよ。うまく言葉にして、知らん人にも届くようにせんと。うちは、ただ待っとるだけじゃ残れん」

 厳は、透馬を見なかった。

「残すためなら、何を薄めてもええんか」

「薄めたいわけじゃないです」

「なら、薄く聞こえる言葉を先に並べるな」

「じゃあどうすればいいんですか」

 透馬の声が、初めて少し上がった。

 静江がここにいなくてよかった、と栞は思った。いたら、たぶん何か言った。あるいは、何も言わずに鍋の火だけ見に戻ったかもしれない。

 航平が、ボールペンを置いた。

「一回、棚で見せ方を変えます」

 その声は、二人の間に布を一枚挟むような声だった。

「名前とラベルの案が決まったら、店で仮置きしてみます。そこで違和感があるか見ます」

「真鍋くん」

 透馬が言う。

「言葉を先に決めすぎると、たぶんずれます」

 航平は栞の方を見ないまま言った。

「僕も、昨日そう思いました」

 昨日。

 酒舗まなべの空いた棚、木の札、邪魔にならない言葉。

 栞は、それを思い出した。

「川瀬さんにも、もしよければ見てもらって」

 航平はそこで、ようやく栞を見た。

「文章を頼むというより、違和感があったら教えてもらうくらいで」

 頼み方が、うまい。

 栞はそう思った。

 断れる余地を残している。それでいて、完全には逃がさない。

 こういうところが、やはり少し苦手だった。

「私で分かるかどうかは」

「分からなくてもいいです」

 航平が言った。

「分からないって言ってもらうのも、たぶん必要なので」

 部屋の中が、少しだけ静かになった。

 透馬は椅子にもたれ、厳は湯呑みを置く。

 栞は盆を持ち直した。

「お茶、冷める前にどうぞ」

 自分でも、急に何を言っているのだろうと思った。

 けれど、誰かが少しだけ笑った。

 透馬だった。

「そうじゃね」

 航平も湯呑みを取った。

 厳はもう飲んでいる。

 栞は空いた湯呑みがないことを確認して、盆を持ったまま部屋を出た。

 廊下へ出ると、体から少し力が抜けた。

 水の音が近くなる。

 どこかでホースの先から水が落ち続けているらしい。

 ぽたり。

 ぽたり。

 栞はその音を聞きながら、台所へ戻った。

 静江は鍋の前に立っていた。

「落とさんかったね」

 第一声がそれだった。

 栞は盆を流しの横へ置いた。

「落としませんでした」

「えらいえらい」

 子ども扱いのようなのに、嫌ではなかった。

 静江は鍋の中をかき混ぜた。

「巻き込まれた?」

「少し」

「そう」

「でも、お茶は出しました」

「それで十分よ」

 栞は、流しの前に立ったまま、自分の手を見た。

 盆を握っていた指が、少し赤くなっている。力を入れすぎていたらしい。手を開くと、ゆっくり戻った。

「叔母さん」

「ん」

「言葉って、薄くなりますか」

 静江は鍋を見たまま、少し考えた。

「水で?」

「いえ」

「じゃあ、使いすぎたら?」

 栞は答えられなかった。

 静江は火を弱め、蓋をした。

「よう分からんけど、味噌汁は煮詰まることもあるよ」

「言葉も?」

「知らん」

 静江はあっさり言った。

「でも、濃すぎても飲めんね」

 栞は、少し笑いそうになった。静江は真面目な顔のままだった。それが、余計におかしかった。

「じゃあ、ちょうどいいところを探すんですね」

「だいたいのもんは、そうじゃろ」

 台所に、味噌の匂いが広がっていた。

 蔵の奥の部屋では、まだ話し声が続いている。

 守る人、売る人、作る人、書くかもしれない人。

 それぞれが、それぞれの言葉を持っている。

 栞は、流しの水を少しだけ出した。

 手を洗う。

 冷たい水が指の赤みを流していく。薄くなっているのか、冷えているだけなのかは分からなかった。

 夕方近くになって、蔵の奥の部屋の戸が開いた。

 先に出てきたのは透馬だった。

 ファイルを脇に挟み、片手で首の後ろを押さえている。朝に会ったときより、少しだけ顔の明るさが落ちていた。

「静江さん、すみません。長居しました」

「ええよ。晩ご飯食べてく?」

「食べたいですけど、今日は戻ります。資料、直さんといけんので」

「ちゃんと食べんさいよ」

「はい」

 返事は軽かったが、たぶんちゃんとは食べないだろうと栞は思った。

 東京の書店にも、似たような返事をする人がいた。忙しいときの「大丈夫です」は、たいてい大丈夫ではない。

 透馬は勝手口で靴を履きながら、栞の方を見た。

「さっきはごめんね」

「いえ」

「来たばっかりなのに、変な話聞かせて」

「変ではなかったです」

 栞がそう答えると、透馬は少しだけ目を丸くした。

「そう?」

「はい」

「なら、まあ、よかったんかな」

 透馬は笑おうとして、うまく笑いきれない顔をした。

「栞ちゃん、ほんまに無理せんでええけえ。うちのことは、うちの人間が考えることじゃし」

 その言葉に、栞はうなずいた。

 うなずいたけれど、少しだけ違うとも思った。

 うちのことは、うちの人間が考える。

 それは正しい。

 でも、棚に置かれたものは、うちの外へ出ていく。

 本も酒も、作った人や売る人だけのところには留まらない。知らない人の手に渡る。知らない人の台所や食卓や本棚へ行く。そこまで行かなければ、届いたことにはならない。

 栞はそれを知っている。知っているから、何も言えなかった。

「じゃあ、また」

 透馬は車の鍵を指で回しながら出ていった。その後ろ姿は、昼間より少し小さく見えた。

 厳はしばらくしてから出てきた。手には湯呑みを持っている。

「ごちそうさん」

 それだけ言って、流しの横へ湯呑みを置いた。

 静江が、はいはい、と受け取る。

 栞は、厳がこちらを見ないまま通り過ぎると思っていた。

 けれど厳は、勝手口のところで足を止めた。

「川瀬さん」

 急に名前を呼ばれて、栞は背筋を伸ばした。

「はい」

「さっきの」

「はい」

「言葉が薄くなる話」

 栞は、少しだけ息を止めた。

 厳は、外を見ていた。

 庭の洗濯物は、そろそろ取り込まれる時間だった。白いタオルの端が、夕方の風でゆるく動いている。

「薄くせんために、長く言えばええわけでもない」

 厳は言った。

 栞は返事をしなかった。

「短い言葉が、全部悪いわけじゃない」

 そう言ってから、厳はやっと栞を見た。

「ただ、短くするなら、何を捨てたか分かっとらんといけん」

 栞は、手元を見た。

 右手の小指の横に、また薄いインクの跡があった。

 今朝、何かを書いたわけではない。昨日までの跡が、まだ残っているだけだった。

「……はい」

 栞が答えると、厳はそれ以上何も言わなかった。

 勝手口を出て、蔵の方へ戻っていく。

 静江が湯呑みを洗いながら、小さく笑った。

「久住さん、今日はようしゃべったね」

「今のでですか」

「うん。だいぶしゃべった」

 栞は、厳の背中が見えなくなった方を見た。

 だいぶ。

 あれで。

 けれど、たしかに短い言葉の方が残ることはある。

 何を捨てたか分かっとらんといけん。

 栞はその言葉を、心の中で一度だけ繰り返した。

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