表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
守る酒、売る酒

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/35

直したらええだけ

 勝手口の外に出ると、航平が車の後ろでケースを動かしていた。

 空き瓶を積み直しているらしい。瓶どうしが触れて、軽い音が何度も鳴る。

 栞が外へ出たことに気づくと、航平は手を止めた。

「あ、すみません。通ります?」

「いえ。外の空気を吸いに」

「中、重かったですよね」

「少し」

「ですよね」

 航平はケースを車へ押し込み、後ろの扉を半分だけ閉めた。完全には閉めない。まだ何か積むものがあるのかもしれない。

「すみませんでした」

 航平が言った。

 栞は庭の端を見た。

 謝られると、こちらが何かを許さなければならないような気がする。

 何を許すのかも分からないのに。

「何がですか」

「巻き込むつもりじゃなかったんですけど」

 栞は、少しだけ航平を見た。

「巻き込むつもりじゃない人って、だいたい巻き込みますよね」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 東京の店では、こういう言い方はしない。相手が客でなくても、同僚でなくても、できるだけ角の立たない言葉を選ぶ。

 なのに、今はそのまま出た。

 航平は一瞬だけ目を瞬かせた。

 それから、小さく息を吐いた。

「それは、返す言葉がないです」

 困ったように笑うかと思った。けれど、航平は笑わなかった。そのせいで、栞の言葉だけが少し地面に残ったように見えた。

「すみません。嫌な言い方をしました」

「嫌ではないです。正しいので」

「正しいかどうかは」

「だいたい、巻き込んでます」

 航平は車の扉に手をかけたまま言った。

「透馬さんも、僕も」

 栞は返事をしなかった。

 蔵の方から、水の流れる音がする。

 昼よりも少し遠い。

「でも、売りたいんです」

 航平が言った。

 栞は、その言葉を聞くのが二度目だった。

 昨日、店の棚の前でも同じようなことを言っていた。

「売れないと、残せないので」

 航平の声は、穏やかだった。穏やかなのに、手は車の扉を握ったままだった。

「真鍋さんは」

 栞は言った。

「売ることが、嫌にならないんですか」

 航平はすぐには答えなかった。

 夕方の風が、庭を抜けていく。

 洗濯物が揺れる。

 物干し竿の端で、白いタオルが一枚だけ、洗濯ばさみから少し外れかけていた。

「なりますよ」

 航平は言った。

「なるんですか」

「なります」

「見えません」

「見せない仕事なので」

 その言い方は、静かだった。

 栞は、航平の横顔を見た。

 昨日見た名刺の角。揃えられた瓶の向き。客に合わせて少しずつ変わる声。

見せない仕事。

 それは、栞にも分かる。

 疲れていても、レジでは笑う。怒られても、声を荒げない。知らない本でも、端末で調べて、分かる範囲で案内する。泣ける本を探している人には泣ける本を、読みやすい本を探している人には読みやすい本を、贈り物を探している人にはきれいな装丁の本を出す。

 その間、自分が何を読みたいかは、あまり関係がない。

「嫌になっても、売るんですか」

「売ります」

「どうして」

「売るのが仕事なので」

 航平は、一度そこで言葉を切った。

 それから、少しだけ声を落とした。

「それだけだと、きつい日もありますけど」

 栞は、何も言えなかった。

 それだけだと、きつい日。

 その言葉だけで、航平が少し近くなった気がした。近くなったと思った瞬間、栞は一歩引きたくなった。

「川瀬さんは、どうですか」

「何がですか」

「本を売ること」

 栞は、庭の洗濯物を見た。

 白いタオルが、今度こそ外れそうになっている。

「嫌になりました」

 言ってから、取り消せないと思った。

 航平は、黙っていた。

「本が嫌になったわけじゃないです」

「はい」

「でも、売るための言葉を書くのは、少し」

 そこまで言って、栞は手を握った。

 少し、ではなかった。

 だいぶ。

 かなり。

 もうほとんど、というところまで来ていた。

 けれど、そこまで言うには航平の前ではまだ早かった。

「少し、嫌になりました」

「そうですか」

 航平は、それ以上深く聞かなかった。

 その引き方が、やはりうまかった。うまい人は、怖い。相手が入りたくない場所の手前で止まれる人は、自分がどこで止まっているかも知っている。

 栞は、それが少し苦手だった。

「でも」

 航平が言った。

「昨日、棚を見てるとき、川瀬さん、少し楽しそうでしたよ」

「楽しくは」

 言いかけて、栞は止まった。

 楽しかったわけではない。

 でも、空いた棚を見た。

 どこに瓶を置くか。どんな札なら邪魔にならないか。本屋と似ているところ、違うところ。

 考えてしまった。

 それは、嫌なだけの時間ではなかった。

「……気になっただけです」

「それなら、よかったです」

「よかったんですか」

「嫌なだけだったら、頼めないので」

 航平はそう言ってから、車の扉を閉めた。

 軽い音がした。

「でも、無理には頼みません」

「そういう言い方も、少しずるいです」

「そうですね」

 航平は、今度は少し笑った。

「それも、返す言葉がないです」

 栞も、ほんの少しだけ笑った。

 すぐに、庭の方から静江の声がした。

「栞ちゃん、ちょっと手ぇ貸して」

 振り向くと、静江が物干し竿の前に立っている。

 白いタオルが、やはり片方だけ外れていた。

「はい」

 栞は航平に軽く頭を下げ、庭へ向かった。

 静江は、外れかけたタオルを片手で押さえていた。

「これ、もう乾いとるけえ取り込むよ」

「はい」

「端、持って」

 栞はタオルの端を持った。

 乾いた布は、朝よりずっと軽い。

 けれど、風を含んでいるせいか、手の中で少し抵抗した。

 静江が洗濯ばさみを外す。

 かち。

 小さな音がした。

「乾いたねえ」

 静江が言った。

「はい」

 栞はタオルを広げた。

 朝は水を含んで重かったものが、夕方にはこうして畳める。

 当たり前のことだった。当たり前のことが、今日は少し不思議に見える。

 端と端を合わせる。白い布の角は、少しずれていた。

 栞はもう一度合わせ直した。

 航平は車のそばで、こちらを見ているわけではなかった。

 けれど、まだ帰っていない気配があった。

 透馬はもういない。

 厳は蔵の中に戻った。

 静江は洗濯物を取り込んでいる。

 自分はタオルを畳んでいる。

 少し前まで、蔵の奥の部屋で、残すとか、売るとか、薄くなるとか、届くとか、そんな話をしていた。

 今は白いタオルの端を合わせている。

 言葉も、こうやって畳めればいいのにと思った。

 使ったあと、広げたあと、濡れたあと、風に当てて、乾いたら、また使える形に戻す。

 けれど言葉は、どこが端なのか分からない。合わせたつもりでも、少しずれる。

「栞ちゃん」

 静江が言った。

「はい」

「そこ、ちょっと曲がっとる」

 栞は手元を見た。

 たしかに、タオルの端が斜めになっている。

「すみません」

「謝らんでええ。直したらええだけ」

 静江はそう言って、次のタオルを外した。

 直したらええだけ。

 栞は、斜めになった布の端をほどき、もう一度合わせた。

 今度はさっきより、少しまっすぐになった。完全ではない。でも、畳めないほどではなかった。

 航平の車が、門の外へ出ていく音がした。

 栞は顔を上げなかった。

 白いタオルを畳み終えると、静江がかごの中へ入れた。

「晩ご飯、もうすぐできるけえ」

「はい」

「明日、どうする?」

 静江は何でもない声で聞いた。

 栞は、タオルをもう一枚受け取った。

 明日。

 広島に来てから、明日のことを考えるのが少し怖かった。

 何をしに来たのか、まだ決めていないからだ。

 休むため、逃げるため、行けなかった修学旅行のため。全部違うようで、全部どこか当たっている。

 栞はタオルの端を持ったまま、少し黙った。

「平和記念公園に」

 言葉は、思っていたより小さく出た。

 静江は洗濯ばさみを外す手を止めなかった。

「行くん?」

「はい」

「そう」

 かち、と音がする。

「お弁当、いる?」

 栞は顔を上げた。

「お弁当?」

「昼ご飯」

「買うので大丈夫です」

「まあ、買ってもええけど」

 静江は白いタオルをかごに入れた。

「いなり寿司なら、朝に作れるよ」

 いなり寿司。

 栞は、その言葉をすぐには受け取れなかった。

「修学旅行みたいでええじゃろ」

 静江は笑った。

 栞は、畳みかけのタオルを胸の前で持ったまま、しばらく立っていた。

 平和記念公園に、いなり寿司。

 夕方の風が、空になった物干し竿を揺らした。金属がかすかに鳴る。

 行けなかったのだ。

 そう言うには、あまりにも昔のことだった。

 でも、行けなかったのだと、今さらのように分かってしまった。

 栞はタオルを畳み直した。端と端が、少しだけずれた。今度は、すぐに直せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ