直したらええだけ
勝手口の外に出ると、航平が車の後ろでケースを動かしていた。
空き瓶を積み直しているらしい。瓶どうしが触れて、軽い音が何度も鳴る。
栞が外へ出たことに気づくと、航平は手を止めた。
「あ、すみません。通ります?」
「いえ。外の空気を吸いに」
「中、重かったですよね」
「少し」
「ですよね」
航平はケースを車へ押し込み、後ろの扉を半分だけ閉めた。完全には閉めない。まだ何か積むものがあるのかもしれない。
「すみませんでした」
航平が言った。
栞は庭の端を見た。
謝られると、こちらが何かを許さなければならないような気がする。
何を許すのかも分からないのに。
「何がですか」
「巻き込むつもりじゃなかったんですけど」
栞は、少しだけ航平を見た。
「巻き込むつもりじゃない人って、だいたい巻き込みますよね」
言ってから、自分でも少し驚いた。
東京の店では、こういう言い方はしない。相手が客でなくても、同僚でなくても、できるだけ角の立たない言葉を選ぶ。
なのに、今はそのまま出た。
航平は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、小さく息を吐いた。
「それは、返す言葉がないです」
困ったように笑うかと思った。けれど、航平は笑わなかった。そのせいで、栞の言葉だけが少し地面に残ったように見えた。
「すみません。嫌な言い方をしました」
「嫌ではないです。正しいので」
「正しいかどうかは」
「だいたい、巻き込んでます」
航平は車の扉に手をかけたまま言った。
「透馬さんも、僕も」
栞は返事をしなかった。
蔵の方から、水の流れる音がする。
昼よりも少し遠い。
「でも、売りたいんです」
航平が言った。
栞は、その言葉を聞くのが二度目だった。
昨日、店の棚の前でも同じようなことを言っていた。
「売れないと、残せないので」
航平の声は、穏やかだった。穏やかなのに、手は車の扉を握ったままだった。
「真鍋さんは」
栞は言った。
「売ることが、嫌にならないんですか」
航平はすぐには答えなかった。
夕方の風が、庭を抜けていく。
洗濯物が揺れる。
物干し竿の端で、白いタオルが一枚だけ、洗濯ばさみから少し外れかけていた。
「なりますよ」
航平は言った。
「なるんですか」
「なります」
「見えません」
「見せない仕事なので」
その言い方は、静かだった。
栞は、航平の横顔を見た。
昨日見た名刺の角。揃えられた瓶の向き。客に合わせて少しずつ変わる声。
見せない仕事。
それは、栞にも分かる。
疲れていても、レジでは笑う。怒られても、声を荒げない。知らない本でも、端末で調べて、分かる範囲で案内する。泣ける本を探している人には泣ける本を、読みやすい本を探している人には読みやすい本を、贈り物を探している人にはきれいな装丁の本を出す。
その間、自分が何を読みたいかは、あまり関係がない。
「嫌になっても、売るんですか」
「売ります」
「どうして」
「売るのが仕事なので」
航平は、一度そこで言葉を切った。
それから、少しだけ声を落とした。
「それだけだと、きつい日もありますけど」
栞は、何も言えなかった。
それだけだと、きつい日。
その言葉だけで、航平が少し近くなった気がした。近くなったと思った瞬間、栞は一歩引きたくなった。
「川瀬さんは、どうですか」
「何がですか」
「本を売ること」
栞は、庭の洗濯物を見た。
白いタオルが、今度こそ外れそうになっている。
「嫌になりました」
言ってから、取り消せないと思った。
航平は、黙っていた。
「本が嫌になったわけじゃないです」
「はい」
「でも、売るための言葉を書くのは、少し」
そこまで言って、栞は手を握った。
少し、ではなかった。
だいぶ。
かなり。
もうほとんど、というところまで来ていた。
けれど、そこまで言うには航平の前ではまだ早かった。
「少し、嫌になりました」
「そうですか」
航平は、それ以上深く聞かなかった。
その引き方が、やはりうまかった。うまい人は、怖い。相手が入りたくない場所の手前で止まれる人は、自分がどこで止まっているかも知っている。
栞は、それが少し苦手だった。
「でも」
航平が言った。
「昨日、棚を見てるとき、川瀬さん、少し楽しそうでしたよ」
「楽しくは」
言いかけて、栞は止まった。
楽しかったわけではない。
でも、空いた棚を見た。
どこに瓶を置くか。どんな札なら邪魔にならないか。本屋と似ているところ、違うところ。
考えてしまった。
それは、嫌なだけの時間ではなかった。
「……気になっただけです」
「それなら、よかったです」
「よかったんですか」
「嫌なだけだったら、頼めないので」
航平はそう言ってから、車の扉を閉めた。
軽い音がした。
「でも、無理には頼みません」
「そういう言い方も、少しずるいです」
「そうですね」
航平は、今度は少し笑った。
「それも、返す言葉がないです」
栞も、ほんの少しだけ笑った。
すぐに、庭の方から静江の声がした。
「栞ちゃん、ちょっと手ぇ貸して」
振り向くと、静江が物干し竿の前に立っている。
白いタオルが、やはり片方だけ外れていた。
「はい」
栞は航平に軽く頭を下げ、庭へ向かった。
静江は、外れかけたタオルを片手で押さえていた。
「これ、もう乾いとるけえ取り込むよ」
「はい」
「端、持って」
栞はタオルの端を持った。
乾いた布は、朝よりずっと軽い。
けれど、風を含んでいるせいか、手の中で少し抵抗した。
静江が洗濯ばさみを外す。
かち。
小さな音がした。
「乾いたねえ」
静江が言った。
「はい」
栞はタオルを広げた。
朝は水を含んで重かったものが、夕方にはこうして畳める。
当たり前のことだった。当たり前のことが、今日は少し不思議に見える。
端と端を合わせる。白い布の角は、少しずれていた。
栞はもう一度合わせ直した。
航平は車のそばで、こちらを見ているわけではなかった。
けれど、まだ帰っていない気配があった。
透馬はもういない。
厳は蔵の中に戻った。
静江は洗濯物を取り込んでいる。
自分はタオルを畳んでいる。
少し前まで、蔵の奥の部屋で、残すとか、売るとか、薄くなるとか、届くとか、そんな話をしていた。
今は白いタオルの端を合わせている。
言葉も、こうやって畳めればいいのにと思った。
使ったあと、広げたあと、濡れたあと、風に当てて、乾いたら、また使える形に戻す。
けれど言葉は、どこが端なのか分からない。合わせたつもりでも、少しずれる。
「栞ちゃん」
静江が言った。
「はい」
「そこ、ちょっと曲がっとる」
栞は手元を見た。
たしかに、タオルの端が斜めになっている。
「すみません」
「謝らんでええ。直したらええだけ」
静江はそう言って、次のタオルを外した。
直したらええだけ。
栞は、斜めになった布の端をほどき、もう一度合わせた。
今度はさっきより、少しまっすぐになった。完全ではない。でも、畳めないほどではなかった。
航平の車が、門の外へ出ていく音がした。
栞は顔を上げなかった。
白いタオルを畳み終えると、静江がかごの中へ入れた。
「晩ご飯、もうすぐできるけえ」
「はい」
「明日、どうする?」
静江は何でもない声で聞いた。
栞は、タオルをもう一枚受け取った。
明日。
広島に来てから、明日のことを考えるのが少し怖かった。
何をしに来たのか、まだ決めていないからだ。
休むため、逃げるため、行けなかった修学旅行のため。全部違うようで、全部どこか当たっている。
栞はタオルの端を持ったまま、少し黙った。
「平和記念公園に」
言葉は、思っていたより小さく出た。
静江は洗濯ばさみを外す手を止めなかった。
「行くん?」
「はい」
「そう」
かち、と音がする。
「お弁当、いる?」
栞は顔を上げた。
「お弁当?」
「昼ご飯」
「買うので大丈夫です」
「まあ、買ってもええけど」
静江は白いタオルをかごに入れた。
「いなり寿司なら、朝に作れるよ」
いなり寿司。
栞は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
「修学旅行みたいでええじゃろ」
静江は笑った。
栞は、畳みかけのタオルを胸の前で持ったまま、しばらく立っていた。
平和記念公園に、いなり寿司。
夕方の風が、空になった物干し竿を揺らした。金属がかすかに鳴る。
行けなかったのだ。
そう言うには、あまりにも昔のことだった。
でも、行けなかったのだと、今さらのように分かってしまった。
栞はタオルを畳み直した。端と端が、少しだけずれた。今度は、すぐに直せなかった。




