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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
行けなかった修学旅行

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尾道のつもり

 朝、台所には甘辛い匂いが満ちていた。

 階段を降りる途中で、栞は足を止めた。

 味噌汁でも、焼き魚でも、炊きたての米でもない。砂糖と醤油と出汁の匂い。

 まだ寝起きの体には少し濃くて、けれど嫌ではなかった。

 台所を覗くと、静江は鍋の前に立っていた。白い割烹着の袖を肘まで上げ、菜箸で油揚げを返している。

 鍋の中で、油揚げはふっくらと膨らみ、端の方だけが少し濃い色になっていた。

「おはよう」

 静江が振り返る。

「おはようございます」

「よう眠れた?」

「はい」

「今日、行くんじゃろ」

 どこへ、と静江は言わなかった。

 栞も、すぐには答えなかった。

「……はい」

「ご飯、もうちょっとで炊けるけえね」

 静江は鍋の火を少し弱めた。

 台所のテーブルには、弁当箱が置かれていた。竹皮のような柄のものだった。その横に、白い手ぬぐいが畳まれている。

「これ、持って行きんさい」

 静江は、鍋から目を離さずに言った。

「昼ご飯。どこで食べてもええけえ」

 栞は弁当箱を見下ろした。蓋はまだ閉まっている。でも、中身は分かった。

「いなり寿司ですか」

「尾道のつもり」

「つもり」

「ほんまの尾道の人に怒られたらいけんけえね」

 静江は小さく笑って、菜箸で油揚げをもう一枚返した。

 鍋の底から、低い音がした。

「平和記念公園に、いなり寿司持って行くんですか」

「どこで食べてもええ言うたじゃろ」

「そうですけど」

「修学旅行みたいでええじゃろ」

 栞は返事をしようとして、できなかった。

 テーブルの上の弁当箱は、まだ空だった。空なのに、もう少し重そうに見えた。

「叔母さん、覚えてたんですか」

「何を」

「私が、修学旅行に行けなかったこと」

 静江は鍋の火を止めた。菜箸を小皿の上に置き、少しだけ考える顔をした。

「お姉ちゃんから聞いたけえね」

「母から」

「熱出したって」

「はい」

「残念じゃったね、とは言った気がする」

 静江は、昔の自分の声を探すように少し目を細めた。

「栞ちゃんは電話に出んかったけど」

「寝てたんだと思います」

「そうじゃろね。熱あったんじゃけえ」

 静江は米の炊ける炊飯器の方を見た。湯気が細く上がっている。

 栞は、あのときの布団の重さを思い出した。

 額に貼られた冷却シート、階下で母が学校へ電話する声、友人から届いた短いメッセージ。

 大丈夫? お土産買ってくるね。

 返事をすることもできず、目を閉じた。

 体は本当に熱かった。だから、嘘ではなかった。けれど、布団の中でほんの少しだけ息を吐いた。

 行かなくていい。

 そう思ってしまった。

「叔母さん」

「ん」

「私、ほんとは、ちょっと行きたくなかったんです」

 言ってから、栞は鍋を見た。油揚げは煮汁の中に沈んでいる。

 静江はしばらく黙っていた。

「修学旅行?」

「はい」

「そう」

 それだけだった。栞は少しだけ肩の力が抜けた。

 叱られなかった。笑われなかった。どうして、とも聞かれなかった。

「班行動とか、感想文とか、夜の部屋とか、そういうのが全部面倒で」

「うん」

「行きたくないなって思ってたら、本当に熱が出て」

「うん」

「休むって決まったとき、少しほっとしました」

 その言葉だけは、口に出すと少し苦かった。

 静江は炊飯器の蓋を開けた。白い湯気が、朝の光の中へ広がる。

「ほっとしたなら、そのときはそれで助かったんじゃろ」

 静江はしゃもじで米を返しながら言った。

「でも」

「でも、今になって気になるんじゃね」

 栞は、うなずいた。

「はい」

「じゃあ、今行ったらええよ」

 静江はあっさり言った。

 しゃもじに米粒がついている。その一粒を、指ではなく、茶碗の縁で落とした。

「遅れて行っても、行かんよりええこともあるじゃろ」

 栞は何も返せなかった。

 静江は皿に広げた酢飯を団扇で軽く仰いだ。米の湯気と酢の匂いが、油揚げの甘い匂いに混じる。それから、油揚げの口をそっと開いた。

 手つきは迷いがなかった。

 酢飯を詰める、形を整える、弁当箱に並べる。

 一つ。

 また一つ。

 栞はその手を見ていた。

 静江の手は、特別なことをしている風ではなかった。ただ、いつもしていることを、今日もしている。そういう手だった。

「手伝います」

 栞が言うと、静江は弁当箱を少しずらした。

「じゃあ、手ぇ洗って」

「はい」

 栞は流しで手を洗った。水は冷たかった。指の間まで洗い、布巾で拭く。

 静江は小さな油揚げを一枚、栞の前に置いた。

「破らんようにね」

「難しそうです」

「破れても食べられるけえ」

 栞は油揚げを持った。思っていたよりやわらかい。力を入れると、指の形がつく。口を開こうとして、端が少し裂けた。

「あ」

「ええよ。そこ、内側にしたら分からん」

 静江はそう言って、油揚げの中へ酢飯を入れる。詰めすぎない。でも、少なすぎると形が沈む。

 栞は真似をした。

 うまくはいかなかった。端がいびつに膨らみ、口のところから米粒が一つ出た。

 静江はそれを見て、上手上手、と言った。

「本当に?」

「最初にしては」

「最初にしては、ですね」

「最初から完璧な人は、だいたい嘘つきよ」

 静江は平然と言った。

 栞は少し笑った。

 弁当箱には、静江が作ったものが五つ、栞が作ったものが一つ入った。栞の一つだけ、形が少し傾いている。

「これ、私が食べます」

「どれを食べてもええよ」

「でも、これ」

「栞ちゃんが作ったんじゃけえ、栞ちゃんが食べてもええし、誰かが食べてもええ」

「誰かって」

「今日の栞ちゃんじゃない栞ちゃんとか」

 静江は蓋をしながら言った。

 栞はその意味をすぐには理解できなかった。

 けれど、聞き返さなかった。

 弁当箱は手ぬぐいで包まれた。結び目は、ほどきやすいように少しだけゆるい。

「暑いけえ、早めに食べんさいね」

「はい」

「しんどくなったら帰ってきたらええよ」

「はい」

「全部見ようとせんでもええけえ」

 栞は、弁当包みを両手で持った。まだ少し温かい。

「……はい」

 玄関で靴を履くと、静江が小さな紙袋に弁当を入れてくれた。

 ペットボトルの水も一本入っている。

「水、入れとくよ」

「あ、ありがとうございます」

「向こうで買えるけど、持っとった方がええ」

「はい」

 静江は玄関の戸を開けた。

 朝の光が入ってくる。昨日までより、少し空が高く見えた。

「行ってきます」

 栞が言うと、静江はうなずいた。

「行っておいで」

 その声は、軽かった。けれど、栞の足元に少しだけ重みを残した。

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