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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
行けなかった修学旅行

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17/35

遅れてきた修学旅行

 駅までの道を、自転車ではなく歩いた。

 紙袋が手に当たる。中の弁当箱は、歩くたびに少しだけ揺れた。

 朝の町には、すでに人がいた。

 蔵の前を掃く人、犬を連れて歩く人、店のシャッターを上げる人、制服姿の高校生。

 どの人も、栞が平和記念公園へ行くことを知らない。知らないまま、それぞれの朝を過ごしている。それが少し不思議だった。

 西条駅から電車に乗る。

 紙袋は膝の上に置いた。手ぬぐいの結び目が、袋の口から少し見える。

 向かいの席には、年配の女性が二人座っていた。買い物へ行くらしく、膝の上に折りたたみのエコバッグを置いている。

 隣には、イヤホンをした学生が座った。リュックの横ポケットに、ペットボトルが入っている。

 電車が動き出す。

 窓の外に、朝の町が流れる。

 栞は紙袋の持ち手を指でなぞった。

 高校二年の秋、修学旅行の集合場所は学校だった。朝早く、体育館の前に集まる予定だった。

 栞は前日の夜、荷物をほとんど詰めていた。旅の栞は机の上に置いていた。

 母に、早く寝なさいと言われた。栞は布団に入ってから、天井を見ていた。

 行きたくない。

 何度も思った。でも、行きたくないと言えるほどの理由はなかった。

 いじめられていたわけではない。友達が一人もいなかったわけでもない。

 ただ、ずっと誰かといることが嫌だった。

 班の人に合わせて歩き、同じものを見て、同じ時間に食べて、同じ部屋で眠ることを考えるだけで、体の内側が少し硬くなった。

 それから、平和学習の感想文。何を書けばいいのか、行く前から分からなかった。

 大切なことなのは分かっていた。でも、大切なことほど、感想を書けと言われると逃げたくなった。

 何か正しいことを思わなければならない。何かきちんとした言葉を出さなければならない。そのことが、もう苦しかった。

 翌朝、熱が出た。

 母は驚き、担任に電話をした。

 栞は布団の中で、目を閉じた。

 体は本当にだるかった。喉も痛かった。だから、行けなかったのだと言える。

 それでも、休むことが決まった瞬間、肩の力が抜けた。ほっとした。そのほっとした感じだけが、ずっとどこかに残っていた。

 電車の窓に、今の自分の顔が映っている。

 二十九歳。

 高校生の頃より、うまく頭を下げられるようになった。うまく笑えるようになった。うまく短い言葉も書けるようになった。その代わり、何かを見る前から、そこに置くべき言葉を探す癖がついた。

 広島駅に着くと、人の流れが一気に増えた。

 栞は紙袋を持ち直し、路面電車の案内を探した。観光客らしい人たちが、地図を見ながら話している。外国語も聞こえる。学生の集団もいた。先生らしい人が、列からはみ出さないように声をかけている。

 栞は少しだけ足を止めた。

 修学旅行生だろうか。制服は自分の高校のものではない。当たり前だった。けれど、その集団の端に、昔の自分が一人だけ混じっているような気がした。

 栞は目を逸らし、乗り場へ向かった。

 市電に乗ると、窓の外の景色がゆっくり動いた。車より遅く、歩くより速い。知らない町の中を、線路に沿って進む。

 紙袋の中の弁当は、もう温かくはなかった。けれど、膝の上にはっきりと重さがあった。

 停留所の名前が流れる。

 人が乗り、人が降りる。

 誰かの買い物袋が腕に触れ、すみません、と小さな声がした。栞も小さく会釈した。

 平和記念公園に近づくにつれ、観光客らしい人が増えた。

 カメラを持った人、パンフレットを見ている人、無言の人、楽しそうに話している人。

 ここへ向かう人たちが、全員同じような顔をしているわけではない。

 そのことに、栞は少し戸惑った。

 もっと静かな顔で行く場所なのだと思っていた。けれど、町は普通に動いていた。

 信号が変わる。車が走る。自転車が通る。コンビニの前に人が立つ。誰かが笑う。その普通さの中に、自分だけが構えすぎている気がした。

 電車を降りると、日差しが強かった。

 栞は紙袋を持ち直した。弁当の中身が、片側に寄っていないか少し気になる。

 歩道を進む。

 橋が見えた。

 川が見えた。水は、思っていたより静かに流れていた。

 栞は橋の手前で、一度足を止めた。

 この場所へ、高校生の自分は来なかった。来なかったまま、今日まで来た。

 何かを思わなければならない。そう思った。

 けれど、橋の上では風が吹いていて、川の水面が少し揺れているだけだった。

 栞は息を吸い、ゆっくり歩き出した。


 公園の中は、思っていたより明るかった。もっと音が少ない場所を想像していた。

 けれど、ばたばたと走るような足音がある。誰かと誰かのわいわいとした話し声もある。カメラのシャッター音も、紙のパンフレットをめくる音も、自転車のベルも、遠くを走る車の音もある。

 木陰では、学生たちが先生の話を聞いていた。数人はまっすぐ前を見ている。数人は暑そうに首元を指で引いている。ひとりは、持っていた水筒を開けようとして、隣の子に肘をつつかれていた。

 その様子を見て、栞は目を逸らした。

 高校生だった自分も、もしここへ来ていたら、あの中のどこかにいたのだろうか。真面目に聞くふりをしながら、集合時間を気にしていたかもしれない。班の子と昼に何を食べるか相談していたかもしれない。

 暑い。疲れた。早くホテルへ行きたい。そんなことを考えていたかもしれない。

 そう思うと、少しだけ肩がこわばった。

 大切な場所にいるとき、人はずっと大切な場所を思う顔をしていなければならないのだろうか。

 栞には分からなかった。

 分からないまま、歩く。

 川の方から風が来る。

 紙袋が膝ではなく手にあることを思い出し、栞は持ち手を握り直した。中の弁当箱は、歩くたびに小さく揺れる。

 いなり寿司。尾道のつもり。修学旅行みたいでええじゃろ。静江の声が、紙袋の中に一緒に入っているようだった。

 どこで食べてもいいと言われた。けれど、この場所で開けていいのかどうか、まだ分からなかった。

 ベンチはあった。木陰もあった。水筒を飲んでいる人も、パンを食べている人もいた。

 食べてはいけない場所ではない。それでも、弁当を開く気にはなれなかった。

 栞は、案内板の前で足を止めた。

 文字が並んでいる。

 読む。

 読んでいるつもりなのに、目だけが上を滑っていく。

 年月日。場所。名前。説明。どれも大切な情報のはずだった。

 けれど、大切なものほど、栞の中で形になる前に遠ざかっていく。

 ちゃんと読まなければ。

 ちゃんと覚えなければ。

 ここへ来たからには、何かを受け取らなければ。

 そう思えば思うほど、言葉が紙の上で乾いていくようだった。

 栞は案内板から離れた。

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