すごい
少し歩くと、折り鶴が見えた。
最初は、色だった。
赤、青、黄色。
緑。
桃色。
金色。
銀色。
遠くから見ても、そこだけが濃く、明るく、重なっていた。
近づくにつれて、それが一羽ずつの鶴だと分かる。透明な壁の向こうに、ぎっしりと並んでいる。吊るされているものも、束ねられているものも、形を作るように並べられたものもあった。
祈りというものは、もっと白くて、静かで、音のしないものだと思っていた。
けれど、そこにあるものは違った。紙の端が少し折れているもの。首の角度が曲がっているもの。
羽の大きさが左右で違うもの。きれいに折られたものも、不器用なものも、同じ場所に積まれている。
栞は、手に持っていた紙袋を握り直した。
一羽なら、指先でつまめる。紙一枚を折っただけのものだ。軽くて、小さくて、机の上に置いたら風で動くかもしれない。
けれど、これだけ集まると、見上げるほどになる。
すごい、と思った。
それ以外の言葉が出てこなかった。
すごい。
その言葉は、あまりにも雑だった。雑だと分かっているのに、他の言葉が出ない。
栞は透明な壁の向こうを見た。
誰かが折ったもの。誰かが運んだもの。誰かが束ねたもの。誰かがここへ置いたもの。
その誰かの数が多すぎて、栞の想像はすぐに追いつかなくなった。
書店の返本の箱を思い出した。
一冊なら持てる。一枚のPOPなら、指で剥がせる。一つの言葉なら、捨てられる。けれど、積もると動かせない。
そう思ってから、栞はすぐに心の中で首を振った。
同じにしてはいけない。
自分の疲れと、ここにあるものを、同じ場所に置いてはいけない。
そう思う。
そう思うのに、手の中の紙袋が少し重くなる。
横に、学生が何人か来た。先生らしい人が、少し離れたところで見守っている。
学生たちは折り鶴を見て、しばらく黙っていた。ひとりが、小さく、すご、と言った。
栞は、その声に少しだけ救われた。
同じ言葉だった。雑で、足りなくて、けれど最初に出る言葉。それしか出ないこともある。
栞は少し下がった。学生たちに場所を譲るようにして、通路の端へ移る。
そこからも、折り鶴の色は見えた。明るすぎるほど明るい色が、透明な壁の中で重なっている。
泣くだろうかと思っていた。ここへ来たら、何かがこみ上げるのだろうかと思っていた。
けれど、涙は出なかった。胸が痛いというのとも違った。
ただ、何かの前に立っているのに、自分の中にそれを受け止める場所が足りない感じがした。
栞は、ゆっくり歩き出した。
日差しが少し強くなっている。木の影に入ると、ほんの少しだけ涼しい。その涼しさにほっとしてしまう自分がいた。
ここで、涼しいと思っていいのだろうか。お腹が空いたと思っていいのだろうか。喉が渇いたと思っていいのだろうか。
そう考えていると、何もかもがぎこちなくなる。
栞は紙袋からペットボトルの水を取り出した。
蓋を開ける。
飲む。
水はぬるくなりかけていた。
それでも、喉を通ると体が少し楽になった。
楽になったことに、また少し戸惑う。
横を、自転車を押した男の人が通った。灰色の帽子をかぶって、前かごにはスーパーの袋が入っていた。大根の葉が、袋の口から少し出ている。
男の人は、栞の少し前で足を止めた。何を見るでもなく、姿勢を正すでもなく、ただ、片手をハンドルから離した。
両手を合わせる。
ほんの二秒か、三秒だった。
それからまたハンドルを握り、何事もなかったように歩き出す。
スーパーの袋が揺れて、大根の葉も揺れた。
栞は、その背中を見送った。
祈るという行為が、こんなにも生活の中にあることを知らなかった。もっと特別なものだと思っていた。誰かに教わり、場所を整え、時間を取って、静かな顔でするものだと思っていた。
でも、男の人は買い物の途中だった。大根を前かごに入れたまま、ほんの数秒だけ手を合わせた。そのあと、また歩いていった。
栞は、自分の手を見た。
右手にはペットボトル。左手には弁当の紙袋。合わせるには、どちらかを置かなければならない。
置けばいい。それだけのことだった。
近くにベンチもある。紙袋を置いて、水を置いて、両手を合わせればいい。
けれど、栞は動けなかった。
今さら真似をするようで。見られたからするようで。しなければいけないからするようで。何を祈ればいいのかも分からなくて。
その分からなさの全部が、両手の間に入ってしまいそうだった。
栞は、手を合わせられないまま立っていた。
自分は冷たい人間なのかもしれない。
ふいに、そう思った。
そう思った瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
ここへ来て、泣けない。
折り鶴を見ても、すごい以外の言葉が出ない。祈る人を見ても、自分の手を合わせられない。お弁当を開く場所ばかり気にしている。喉が渇いたら水を飲み、木陰に入れば涼しいと思う。
それが悪いことなのかどうかも分からない。
分からないことが、もうずっと情けなかった。




