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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
行けなかった修学旅行

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手を合わせられなかった

 資料館へ向かう人の流れがあった。栞もその流れに混じった。

 建物の前で、少しだけ足が止まる。入る前から、体の内側が静かに固くなる。

 ここに入ったら、何かを見なければならない。何かを読まなければならない。何かを知って、それに見合う反応をしなければならない。

 高校生の頃と同じだった。

 感想文。

 その言葉が、今もまだ体のどこかに残っている。

 栞はチケットを買い、中へ入った。

 館内は、外よりも冷えていた。その冷気に、まず体が反応する。

 涼しい。

 そう思ってから、また少し自分が嫌になった。

 展示の前に立つ。

 読む。

 写真を見る。

 説明を読む。

 また次の展示を見る。

 人は多かった。

 それでも、声は自然と小さくなっている。

 誰かの足音。

 衣擦れ。

 小さな咳。

 子どもの声が一度して、すぐに親がなだめる声。

 栞は文字を追った。

 追っているうちに、頭の奥が白くなる。

 ひどい、と思うには、ひどいという言葉が小さすぎた。

 悲しい、と思うには、悲しいという言葉が自分のものすぎた。

 忘れられない、と言うには、まだ自分は何も覚えられていなかった。

 言葉が、どれも違う気がした。

 栞は展示の前で、何度も立ち止まった。立ち止まって、読んで、目を伏せて、また読む。

 涙は出なかった。出なかったことばかりが、体の中で大きくなる。

 隣で、年配の女性がハンカチを目元に当てていた。

 少し離れたところで、若い男性が長い時間、同じ展示の前に立っていた。

 外国から来たらしい人が、翻訳の説明を読みながら眉を寄せていた。

 それぞれの人の中で、何かが動いているように見える。

 栞の中では、何も動いていないように思えた。動いていないのではなく、動き方が分からないのかもしれない。

 でも、そんな言い訳を誰にするのだろう。

 展示室を出る頃には、足が少し重くなっていた。

 外へ出ると、光がまぶしかった。栞は目を細めた。外の空気は熱を持っていて、冷えた体にまとわりついた。

 紙袋はまだ手にある。保冷剤を挟んだ弁当箱は、朝よりも冷たくなっているだろう。

 お腹は空いていた。朝から、静江の小さなおにぎりを一つ食べただけだった。けれど、ベンチに座って包みをほどくことができなかった。

 ここで食べていいのか分からなかった。食べてはいけないわけがないのに、どこかで誰かに見られている気がした。

 栞は公園を歩いた。

 足元に落ち葉がある。水飲み場で子どもが手を洗っている。観光客の一人が、地図を見ながら連れの人に何か言っている。

 人の声が、少し遠く聞こえた。

 川沿いに出る。

 水はゆっくり流れていた。

 あの水はどこへ行くのだろう。

 そう思った。

 考えてから、海だ、と思った。

 海。

 そういえば、広島に来てから、まだ海を見ていない。

 修学旅行の栞には、海の写真が載っていただろうか。覚えていない。

 書店で見たガイドブックの表紙には、青い海があった。

 今、自分がその写真のような場所へ行きたいのかどうかは分からなかった。でも、このままここで弁当を開けることはできなかった。

 栞はスマートフォンを取り出し、海へ行ける場所を調べた。

 画面の上に、いくつかの候補が出る。

 路面電車。バス。港。知らない地名。知らない行き方。それでも、行けない距離ではなかった。

 栞は紙袋を持ち直した。静江のいなり寿司は、少しだけ重くなったような気がした。

 公園を出る前に、一度だけ振り返った。

 木の向こうに、折り鶴の色が少し見えた。

 赤。

 青。

 黄色。

 明るい色だった。

 栞は手を合わせなかった。ただ、ほんの少しだけ頭を下げた。それが祈りなのかどうかは分からなかった。分からないまま、川沿いの道を歩き出した。

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