海へ向かう道
海へ向かう道は、思っていたよりも分かりにくかった。
地図の上では一本の線でつながっているように見えたのに、実際には、停留所を探し、乗り場を確かめ、行き先を見て、知らない名前の場所で降りなければならなかった。
栞は何度もスマートフォンを見た。画面の中の青い点が、自分の現在地を少し遅れて追いかけてくる。
そのたびに、紙袋の持ち手が手のひらに食い込んだ。
弁当箱は冷えている。朝、静江が包んでくれたときの温かさは、もうほとんど残っていない。けれど、冷えたぶんだけ重さがはっきりしたようにも思えた。
路面電車の窓から、町が少しずつ変わっていくのを見た。公園の近くにあった人の流れが遠ざかり、道幅が変わり、建物の高さが少し低くなる。途中で降りる人がいて、乗ってくる人がいる。
買い物帰りらしい人が、栞の隣に座った。手にはスーパーの袋。中で、何か硬いものが小さく音を立てている。
栞は反射的に、大根の葉を思い出した。自転車を押していた男の人。ほんの二秒か、三秒だけ手を合わせて、また歩き出した背中。
あの人はいま、もう家に着いただろうか。
大根は味噌汁になっただろうか。それとも、漬物になっただろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、栞は少しだけ目を伏せた。
祈りのあとに、大根のことを考えている。それは不謹慎なのかもしれない。けれど、あの人の祈りは、大根の葉と一緒にあった。買い物袋と、自転車と、帽子と、昼の光の中にあった。
それを切り離したら、むしろ違うものになってしまう気がした。
車内アナウンスが流れる。
栞は慌てて顔を上げた。
降りる停留所だった。
紙袋を持ち直し、人の間をすり抜けるようにして電車を降りる。
外の空気は、さっきより少し湿っていた。海が近いからなのか、ただ午後の空気が重くなっただけなのか、栞には分からなかった。
地図を見ながら歩く。
道路の向こうに、倉庫のような建物がある。車が通る。バスが通る。遠くで船の汽笛のような音がした。海はまだ見えない。
けれど、見えない場所から、少しずつ近づいてくるものがあった。匂いなのか、風なのか、音なのか。どれとも言えない。
歩道の端に、釣り具を持った男の子が二人いた。
一人がリールをいじり、もう一人がコンビニの袋からパンを出している。その横を通り過ぎるとき、パンの甘い匂いが少しだけした。
栞のお腹が、小さく鳴った。誰にも聞こえていないのに、少し恥ずかしかった。
その先で、急に視界が開けた。
海があった。思っていたよりも静かな海だった。
もっと青くて、もっと広くて、見た瞬間に何かが変わるようなものを、勝手に想像していた。
けれど目の前にあるのは、鈍く光る水面と、防波堤に腰を下ろす人の背中と、遠くをゆっくり進む船だった。
海の向こうには、島の影が薄く見える。空との境目ははっきりしない。水は青というより、灰色と緑を混ぜたような色をしていた。
栞は、少し拍子抜けした。
それから、自分が何を期待していたのか分からなくなった。
劇的な景色。救いのような風。見た瞬間に胸が開くような青。そんなものを、どこかで待っていたのかもしれない。
それはそれで、ずいぶん勝手な話だった。
海は、栞のためにあるわけではない。
船が通る。釣りをする人がいる。ベンチで休む人がいる。小さな子どもが、母親に手を引かれて歩いている。
海は、普通にそこにあった。
栞はベンチを見つけて座った。紙袋を膝に置く。持ち手の跡が手のひらに残っていた。




