海がきれいだった
ペットボトルの水を取り出す。飲む。今度は、ほとんどぬるかった。それでも喉は鳴った。
紙袋の中から、弁当箱を出す。手ぬぐいの結び目は、朝より少し固くなっているように感じた。
栞は指先でほどいた。白い布が開く。竹皮のような柄の弁当箱。保冷剤を避けて、蓋を取る。
いなり寿司が、きちんと並んでいた。少しだけ片側に寄っている。それでも、崩れてはいなかった。
静江が作った五つと、栞が作った一つ。どれが自分のものなのか、すぐに分かった。端が少し裂けて、形が斜めになっている。中の米が一粒、油揚げの口から見えていた。
栞はそれを見て、少しだけ笑った。ここまで来ても、下手なものは下手なままだった。
箸は入っていなかった。いなり寿司だから、手で食べればいいのだ。
栞は一つ持ち上げた。油揚げの端が、指先に少し張りついた。
迷ってから、口に運ぶ。
甘い。思っていたよりも甘くて、少し濃い。
米はぎゅっと詰まっているのに固くはなく、噛むと油揚げの汁気がじんわり広がった。
冷めている。でも、冷たいとは違う。
朝の台所の匂いが、少しだけ残っているようだった。
おいしい、と思った。
それから、海を見た。
風が吹いて、水面の光が細かく割れた。遠くの船が、ほとんど動いていないような速さで進んでいる。島の影は薄く、空との境目が少し滲んでいた。
きれいだ。
何の前触れもなく、そう思った。
栞は、いなり寿司を持ったまま動けなくなった。
きれいだと思った。
自分が。
今、この場所で。
それがあまりにも不意だったから、息の仕方が分からなくなった。
平和記念公園では何も言えなかった。折り鶴の前でも、手を合わせる人の横でも、資料館の薄暗い通路でも、涙なんか出なかった。
なのに、海がきれいだと思った。
そのことに、驚いた。
涙が一粒だけ落ちて、弁当箱のふちに当たった。
栞は慌てて目元を拭いた。
指に油揚げの匂いが残っていて、少しだけおかしかった。
泣いているのに、おかしいと思えた。
それにも少し驚いた。
栞は、手の中のいなり寿司をもう一口食べた。
甘かった。やっぱり、少し濃かった。飲み込むと、喉の奥がゆっくり動いた。
涙は、止まったと思ったらまた出てきた。
声は出なかった。
肩も震えなかった。
ただ、目元から水が落ちる。
海の前で泣く人は、ほかにもいるのかもしれない。
けれど周りの人は、誰も栞を見ていなかった。
釣りをする人は釣り糸を見ている。子どもは海ではなく、自分の靴の砂を気にしている。遠くの船は、ゆっくり進んでいる。
誰も、栞の涙を気にしない。
それが、ありがたかった。
栞は二つ目のいなり寿司を取った。今度は、栞が作ったいびつなものだった。
自分で食べるつもりだった。
でも、それを見ていると、朝の静江の言葉を思い出した。
栞ちゃんが作ったんじゃけえ、栞ちゃんが食べてもええし、誰かが食べてもええ。今日の栞ちゃんじゃない栞ちゃんとか。
今日の栞ちゃんじゃない栞ちゃん。
高校二年の秋、布団の中でほっとしていた栞。
東京の部屋で洗濯かごをまたいでいた栞。
本屋の平台からPOPを剥がしていた栞。
折り鶴の前で、すごい、としか思えなかった栞。
その全員が、少しずつ遅れて、紙袋の中に入っていたのかもしれない。
栞は、いびつないなり寿司を食べた。
端が裂けているせいで、米が少しこぼれた。
膝の上に落ちた米粒を拾い、口に入れる。行儀が悪い。でも、捨てる気にはならなかった。
海は、相変わらず静かだった。
光が割れる。
船が進む。
島影が少しだけ濃くなる。
きれいだと思っただけだった。
けれど、その「だけ」が、今の栞には大きすぎた。
ペットボトルの水を飲む。
ぬるい水が、喉を通る。水が通るたびに、体の中のどこかがゆっくりほどけるようだった。
栞は残りのいなり寿司を、一つずつ食べた。
全部食べられるとは思っていなかった。でも、気づくと弁当箱は空になっていた。
最後の一つを食べ終えたあと、栞はしばらく箸のない弁当箱を見た。
空。
空なのに、朝より軽いだけではなかった。何かがなくなったあとに、ちゃんと残る場所があるように見えた。
栞は弁当箱の蓋を閉めた。
手ぬぐいを畳み直す。結び目は、朝よりうまくできなかった。けれど、ほどけなければいいと思った。
スマートフォンを取り出す。
静江に何か送ろうとして、画面を開いた。
文字を打つ。
平和記念公園に行きました。
消す。
海に来ました。
消す。
泣きました。
もちろん、消す。
何も分からなかったです。
これも、消す。
いなり寿司を食べたら、海がきれいでした。
打ってから、しばらく見た。
嘘ではない。
でも、そのまま送るには少しだけ裸すぎた。
栞は全部消して、短く打った。
お弁当、おいしかったです。
送信する。
すぐには返事が来なかった。
栞はスマートフォンを膝に置き、海を見た。
返信を待っているのか、待っていないのか、自分でも分からなかった。
五分ほどして、画面が光った。静江からだった。
よかった。帰り、遅くなるなら連絡しんさい。
それだけだった。栞は、その短さにほっとした。
泣いたことも、きれいだと思ったことも、何も分からなかったことも、今は説明しなくていい。
おいしかった。
よかった。遅くなるなら連絡しなさい。
それだけでいい。
栞は、もう一度海を見た。さっきよりも、ほんの少し色が変わっているように見えた。
太陽の位置が動いただけかもしれない。
見る側の目が変わっただけかもしれない。
どちらでもよかった。
しばらく座っていると、釣りをしていた男の子の一人が、小さな魚を釣り上げた。もう一人が、すご、と言った。
栞は思わずそちらを見た。
すご。
今日、二度目に聞く言葉だった。
折り鶴の前で聞いた声と、少し似ていた。
足りない言葉。でも、最初に出る言葉。
男の子たちは魚をバケツに入れ、少しはしゃいだあと、また海へ向き直った。
栞は、空になった弁当箱を紙袋へ戻した。
手のひらには、油揚げの匂いがまだ残っている。ウェットティッシュを探したが、鞄の中には入っていなかった。
代わりに、静江が一緒に入れてくれていた小さな紙おしぼりが見つかった。
袋を破る。
おしぼりは冷たかった。
指を一本ずつ拭く。
油の匂いは薄くなったが、完全には消えなかった。
消えなくてもいいかと思った。
栞はベンチから立ち上がった。
弁当箱の入った紙袋は、来たときよりもずっと軽い。けれど、空っぽではなかった。
帰り道を調べる。でも、来たときほど不安ではなかった。
停留所の名前も、乗る方向も、まだ完全には覚えていない。それでも、一度来た道だった。
歩き出す前に、栞はもう一度だけ海を見た。
きれいだ。
今度は、さっきより少し静かに思った。
涙は出なかった。
けれど、さっき出た涙のあとが、目元に少しだけ残っている気がした。
風が吹く。
紙袋が軽く揺れる。
栞はそれを持ち直し、停留所へ向かって歩き出した。




