表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
海がきれいだった

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/35

海がきれいだった

 ペットボトルの水を取り出す。飲む。今度は、ほとんどぬるかった。それでも喉は鳴った。

 紙袋の中から、弁当箱を出す。手ぬぐいの結び目は、朝より少し固くなっているように感じた。

 栞は指先でほどいた。白い布が開く。竹皮のような柄の弁当箱。保冷剤を避けて、蓋を取る。

 いなり寿司が、きちんと並んでいた。少しだけ片側に寄っている。それでも、崩れてはいなかった。

 静江が作った五つと、栞が作った一つ。どれが自分のものなのか、すぐに分かった。端が少し裂けて、形が斜めになっている。中の米が一粒、油揚げの口から見えていた。

 栞はそれを見て、少しだけ笑った。ここまで来ても、下手なものは下手なままだった。

 箸は入っていなかった。いなり寿司だから、手で食べればいいのだ。

 栞は一つ持ち上げた。油揚げの端が、指先に少し張りついた。

 迷ってから、口に運ぶ。

 甘い。思っていたよりも甘くて、少し濃い。

 米はぎゅっと詰まっているのに固くはなく、噛むと油揚げの汁気がじんわり広がった。

 冷めている。でも、冷たいとは違う。

 朝の台所の匂いが、少しだけ残っているようだった。

 おいしい、と思った。

 それから、海を見た。

 風が吹いて、水面の光が細かく割れた。遠くの船が、ほとんど動いていないような速さで進んでいる。島の影は薄く、空との境目が少し滲んでいた。

 きれいだ。

 何の前触れもなく、そう思った。

 栞は、いなり寿司を持ったまま動けなくなった。

 きれいだと思った。

 自分が。

 今、この場所で。

 それがあまりにも不意だったから、息の仕方が分からなくなった。

 平和記念公園では何も言えなかった。折り鶴の前でも、手を合わせる人の横でも、資料館の薄暗い通路でも、涙なんか出なかった。

 なのに、海がきれいだと思った。

 そのことに、驚いた。

 涙が一粒だけ落ちて、弁当箱のふちに当たった。

 栞は慌てて目元を拭いた。

 指に油揚げの匂いが残っていて、少しだけおかしかった。

 泣いているのに、おかしいと思えた。

 それにも少し驚いた。

 栞は、手の中のいなり寿司をもう一口食べた。

 甘かった。やっぱり、少し濃かった。飲み込むと、喉の奥がゆっくり動いた。

 涙は、止まったと思ったらまた出てきた。

 声は出なかった。

 肩も震えなかった。

 ただ、目元から水が落ちる。

 海の前で泣く人は、ほかにもいるのかもしれない。

 けれど周りの人は、誰も栞を見ていなかった。

 釣りをする人は釣り糸を見ている。子どもは海ではなく、自分の靴の砂を気にしている。遠くの船は、ゆっくり進んでいる。

 誰も、栞の涙を気にしない。

 それが、ありがたかった。

 栞は二つ目のいなり寿司を取った。今度は、栞が作ったいびつなものだった。

 自分で食べるつもりだった。

 でも、それを見ていると、朝の静江の言葉を思い出した。

 栞ちゃんが作ったんじゃけえ、栞ちゃんが食べてもええし、誰かが食べてもええ。今日の栞ちゃんじゃない栞ちゃんとか。

 今日の栞ちゃんじゃない栞ちゃん。

 高校二年の秋、布団の中でほっとしていた栞。

 東京の部屋で洗濯かごをまたいでいた栞。

 本屋の平台からPOPを剥がしていた栞。

 折り鶴の前で、すごい、としか思えなかった栞。

 その全員が、少しずつ遅れて、紙袋の中に入っていたのかもしれない。

 栞は、いびつないなり寿司を食べた。

 端が裂けているせいで、米が少しこぼれた。

 膝の上に落ちた米粒を拾い、口に入れる。行儀が悪い。でも、捨てる気にはならなかった。

 海は、相変わらず静かだった。

 光が割れる。

 船が進む。

 島影が少しだけ濃くなる。

 きれいだと思っただけだった。

 けれど、その「だけ」が、今の栞には大きすぎた。

 ペットボトルの水を飲む。

 ぬるい水が、喉を通る。水が通るたびに、体の中のどこかがゆっくりほどけるようだった。

 栞は残りのいなり寿司を、一つずつ食べた。

 全部食べられるとは思っていなかった。でも、気づくと弁当箱は空になっていた。

 最後の一つを食べ終えたあと、栞はしばらく箸のない弁当箱を見た。

 空。

 空なのに、朝より軽いだけではなかった。何かがなくなったあとに、ちゃんと残る場所があるように見えた。

 栞は弁当箱の蓋を閉めた。

 手ぬぐいを畳み直す。結び目は、朝よりうまくできなかった。けれど、ほどけなければいいと思った。

 スマートフォンを取り出す。

 静江に何か送ろうとして、画面を開いた。

 文字を打つ。

 平和記念公園に行きました。

 消す。

 海に来ました。

 消す。

 泣きました。

 もちろん、消す。

 何も分からなかったです。

 これも、消す。

 いなり寿司を食べたら、海がきれいでした。

 打ってから、しばらく見た。

 嘘ではない。

 でも、そのまま送るには少しだけ裸すぎた。

 栞は全部消して、短く打った。

 お弁当、おいしかったです。

 送信する。

 すぐには返事が来なかった。

 栞はスマートフォンを膝に置き、海を見た。

 返信を待っているのか、待っていないのか、自分でも分からなかった。

 五分ほどして、画面が光った。静江からだった。

 よかった。帰り、遅くなるなら連絡しんさい。

 それだけだった。栞は、その短さにほっとした。

 泣いたことも、きれいだと思ったことも、何も分からなかったことも、今は説明しなくていい。

 おいしかった。

 よかった。遅くなるなら連絡しなさい。

 それだけでいい。

 栞は、もう一度海を見た。さっきよりも、ほんの少し色が変わっているように見えた。

 太陽の位置が動いただけかもしれない。

 見る側の目が変わっただけかもしれない。

 どちらでもよかった。

 しばらく座っていると、釣りをしていた男の子の一人が、小さな魚を釣り上げた。もう一人が、すご、と言った。

 栞は思わずそちらを見た。

 すご。

 今日、二度目に聞く言葉だった。

 折り鶴の前で聞いた声と、少し似ていた。

 足りない言葉。でも、最初に出る言葉。

 男の子たちは魚をバケツに入れ、少しはしゃいだあと、また海へ向き直った。

 栞は、空になった弁当箱を紙袋へ戻した。

 手のひらには、油揚げの匂いがまだ残っている。ウェットティッシュを探したが、鞄の中には入っていなかった。

 代わりに、静江が一緒に入れてくれていた小さな紙おしぼりが見つかった。

 袋を破る。

 おしぼりは冷たかった。

 指を一本ずつ拭く。

 油の匂いは薄くなったが、完全には消えなかった。

 消えなくてもいいかと思った。

 栞はベンチから立ち上がった。

 弁当箱の入った紙袋は、来たときよりもずっと軽い。けれど、空っぽではなかった。

 帰り道を調べる。でも、来たときほど不安ではなかった。

 停留所の名前も、乗る方向も、まだ完全には覚えていない。それでも、一度来た道だった。

 歩き出す前に、栞はもう一度だけ海を見た。

 きれいだ。

 今度は、さっきより少し静かに思った。

 涙は出なかった。

 けれど、さっき出た涙のあとが、目元に少しだけ残っている気がした。

 風が吹く。

 紙袋が軽く揺れる。

 栞はそれを持ち直し、停留所へ向かって歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ