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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
海がきれいだった

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22/35

海でした

 帰りの電車では、座れなかった。吊り革につかまり、紙袋を片手で持つ。

 中の弁当箱は空だった。手放すとどこかへ転がっていきそうで、栞は持ち手を指に巻くようにして握っていた。

 窓の外の景色は、来たときより少しだけ暗くなっている。

 海の近くの湿った空気から、町の中の熱の残る空気へ戻っていく。

 停留所ごとに人が乗り降りした。

 制服の高校生が乗ってきて、栞の近くに立った。鞄には小さなぬいぐるみのキーホルダーがついている。友達同士で何かを話して、すぐに笑った。

 栞はその声を聞きながら、目だけを窓へ向けた。

 自分にも、ああいう時間があったはずだった。なかったわけではない。けれど、今思い出そうとすると、修学旅行の日だけが抜け落ちた写真のように残っている。

 行かなかった一日。

 行けなかった一日。

 どちらでもある一日。

 その一日を、今日、取り戻したのかどうかは分からなかった。

 ただ、空になった弁当箱が手にある。それだけは確かだった。

 広島駅で乗り換え、西条へ戻る電車に座る頃には、足が少し重くなっていた。眠いような、眠くないような、体の奥だけが水を含んでいるような疲れ方だった。

 スマートフォンを開くと、職場のグループチャットに通知がたまっていた。

 見なければと思った。けれど、画面を開く前に、静江からのメッセージが一番上にあることに気づいた。

 駅まで迎えに行こうか。

 栞は少し迷ってから、返信した。

 大丈夫です。歩いて帰ります。

 すぐに返事が来た。

 気をつけて。味噌汁あっためとくね。

 味噌汁。

 それだけで、帰る先が急に近くなった。

 栞は職場の通知を見ないまま、スマートフォンを閉じた。


 西条駅に着いたとき、空は濃い青に変わりかけていた。駅前の明かりがつきはじめている。

 行きと同じ道を、今度は歩いて帰る。紙袋は軽い。けれど、右手から左手へ持ち替えるたびに、手のひらに残った持ち手の跡が少し痛んだ。

 酒蔵の白い壁が、夕方の光の中でぼんやり浮かんでいる。

 観光客の姿はもう少なく、道を歩く人はみな、それぞれの家へ向かっているように見えた。

 栞も、その中に混じって歩いた。

 河本家の門灯が見えたとき、思っていたよりほっとした。

 玄関を開ける前に、少しだけ立ち止まる。ここは自分の家ではない。それでも、ただいま、と言ってもいい場所のような気がした。

「ただいま」

 戸を開けて言うと、台所の方から静江の声がした。

「おかえり」

 短い返事だった。それだけで十分だった。

 台所では、鍋から湯気が上がっていた。味噌汁の匂いがする。

 テーブルには、小さな皿にきゅうりの浅漬けと、焼いた厚揚げが置かれていた。

「食べられる?」

「はい」

「お弁当、食べたんじゃろ」

「全部食べました」

 静江は少しだけ目を細めた。

「そう」

 それ以上は何も言わなかった。

 栞は紙袋から弁当箱を出した。

「洗います」

「あとでええよ」

「洗わせてください」

 静江は一瞬だけ栞を見た。

 それから、流しの横を少し空けた。

「じゃあ、そこ置いて。洗剤はこれ」

「はい」

 栞は手ぬぐいをほどき、弁当箱の蓋を外した。中には、小さな米粒がひとつだけ残っていた。

 それを指で取り、流しへ落とそうとして、やめた。

 口に入れる。味はほとんどしなかった。

 スポンジに洗剤をつけ、弁当箱を洗う。油揚げの甘い匂いが、少しずつ薄くなる。水で流すと、箱の表面がきゅっと鳴った。

 栞は水を止めた。洗った弁当箱を伏せる。手ぬぐいは、軽く水洗いしてから絞った。うまく絞れず、端から水がぽたぽた落ちる。

 静江が横から手を出した。

「貸して」

 栞が渡すと、静江は手ぬぐいを半分に折り、もう一度ねじった。

 水が細く落ちた。

「手首で絞るんよ」

「手首」

「力だけ入れても疲れるけえ」

 静江はそう言って、手ぬぐいを広げた。

 台所の端に、洗濯ばさみで留める。

 朝、いなり寿司を包んでいた白い布が、今は流しの横で揺れていた。

 栞はそれを見た。

 今日一日、自分の手にあったもの。公園にも、海にも、電車にもあったもの。それが今、台所で水を切っている。

 何かが終わったというより、戻ってきたように見えた。

「どうじゃった」

 静江が聞いた。

 栞は、すぐには答えられなかった。

 椅子に座る。

 味噌汁の椀が前に置かれる。

 湯気が上がる。

「分からなかったです」

 栞は言った。

 静江は、うん、とだけ返した。

「何も、ちゃんとは」

「うん」

「折り鶴が、すごくて」

「うん」

「手を合わせてる人がいて」

「うん」

「私は、できなくて」

 静江は味噌汁をすすった。

 栞も椀を持つ。

 湯気が目に近づいた。

「でも、海に行きました」

「海」

「はい」

「遠かったじゃろ」

「少し」

「お弁当、そこで食べたん?」

「はい」

「そう」

 静江は少しだけ笑った。

「海でいなり寿司か」

「変ですか」

「ええんじゃない」

 栞は味噌汁を一口飲んだ。

 あたたかい。

 海で飲んだぬるい水とは違う。

「海が」

 そこまで言って、栞は箸を置いた。

 きれいでした。

 そう言えばいい。言えるはずだった。けれど、言ってしまうと、昼間のあの瞬間が少しだけ小さくなる気がした。

 静江は待っていた。急かさなかった。

 栞は、味噌汁の中の豆腐を見た。

「……海でした」

 結局、そんな言葉になった。

 静江は、そう、と言った。

「海じゃったんじゃね」

 それで会話は終わった。

 終わってくれた。

 栞は厚揚げを食べた。表面は少し香ばしく、醤油がしみている。

 お腹は空いていないと思っていたのに、食べられた。食べていると、体が一日を終えようとしているのが分かった。

 風呂に入り、髪を乾かし、二階の部屋へ上がる。

 布団の上に座ると、足の裏がじんとした。

 よく歩いた。

 そう思った。

 ただ歩いただけのことが、少し誇らしいような、恥ずかしいような気がした。

 スマートフォンを開く。

 職場の通知は、まだ見ていなかった。開こうとして、先に別の通知が目に入る。

 真鍋航平。

 昨日、酒舗まなべで連絡先を交換した。棚の写真を送るかもしれないので、と言われて、断る理由が見つからなかった。

 メッセージは短かった。

 昨日の打ち合わせでは、お疲れさまでした。透馬さんから、週明けの月曜日には、新しい小瓶を店に出したいと話がありました。無理のない範囲で、見てもらえたら助かります。

 栞は画面を見つめた。

 無理のない範囲。助かります。

 航平らしい言葉だった。きちんとしていて、こちらが断れる余白もあって、でも頼まれていることは分かる。

 少し苦手だと思った。その苦手さが、昨日よりはっきり形を持っている。

 航平の言葉は、自分が書店で使ってきた言葉に似ている。

 相手を押しすぎない。でも必要なことは伝える。角を立てない。断られても崩れない。

 それができる人。それをし続けている人。

 栞は返信欄を開いた。

 分かりました。

 そう打つ。

 消す。

 見に行きます。

 打って、また消す。

 今日、平和記念公園へ行って、海でいなり寿司を食べて、泣きました。

 そんなことを送る必要はどこにもない。

 けれど、その一日のあとで、ただ仕事のように返すことが少し難しかった。

 栞はしばらく画面を見ていた。

 それから、短く打った。

 伺います。文章はまだ書けるか分かりませんが、棚は見ます。

 送信する。

 すぐに既読がついた。

 航平からの返事は、少し間があって届いた。

 ありがとうございます。それで十分です。

 それで十分。栞は、その文字を見た。

 今日、静江にも似たようなことを言われた気がする。

 全部見ようとせんでもええけえ。

 どこで食べてもええけえ。

 食べられる分だけ食べんさい。

 栞の周りで、十分の形が少しずつ違っていく。東京では、十分だと思える線がどこにも見えなかった。

 もっと売る。もっと書く。もっと刺さる。もっと早く返す。もっときちんとする。

 もっと、もっと。

 そのうち、自分がどこまでやれば一日を終えていいのか分からなくなった。

 ここでは、食べられる分だけでいいと言われる。棚を見るだけでいいと言われる。海だった、としか言えなくても、そう、と返される。

 栞はスマートフォンを伏せた。

 布団に入る。目を閉じると、折り鶴の色が浮かんだ。

 赤。

 青。

 黄色。

 それから、海の鈍い光。

 いなり寿司の甘い匂い。

 大根の葉。

 手を合わせられなかった自分の手。

 どれも、きれいには並ばなかった。頭の中で、少しずつ重なり、ずれていく。

 それでも、昨日までのように全部を押しのけたいとは思わなかった。

 栞は寝返りを打った。

 階下で、静江が何かを片づける音がする。

 水が流れる。

 止まる。

 また少し流れる。

 その音を聞いているうちに、栞は眠った。

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