海でした
帰りの電車では、座れなかった。吊り革につかまり、紙袋を片手で持つ。
中の弁当箱は空だった。手放すとどこかへ転がっていきそうで、栞は持ち手を指に巻くようにして握っていた。
窓の外の景色は、来たときより少しだけ暗くなっている。
海の近くの湿った空気から、町の中の熱の残る空気へ戻っていく。
停留所ごとに人が乗り降りした。
制服の高校生が乗ってきて、栞の近くに立った。鞄には小さなぬいぐるみのキーホルダーがついている。友達同士で何かを話して、すぐに笑った。
栞はその声を聞きながら、目だけを窓へ向けた。
自分にも、ああいう時間があったはずだった。なかったわけではない。けれど、今思い出そうとすると、修学旅行の日だけが抜け落ちた写真のように残っている。
行かなかった一日。
行けなかった一日。
どちらでもある一日。
その一日を、今日、取り戻したのかどうかは分からなかった。
ただ、空になった弁当箱が手にある。それだけは確かだった。
広島駅で乗り換え、西条へ戻る電車に座る頃には、足が少し重くなっていた。眠いような、眠くないような、体の奥だけが水を含んでいるような疲れ方だった。
スマートフォンを開くと、職場のグループチャットに通知がたまっていた。
見なければと思った。けれど、画面を開く前に、静江からのメッセージが一番上にあることに気づいた。
駅まで迎えに行こうか。
栞は少し迷ってから、返信した。
大丈夫です。歩いて帰ります。
すぐに返事が来た。
気をつけて。味噌汁あっためとくね。
味噌汁。
それだけで、帰る先が急に近くなった。
栞は職場の通知を見ないまま、スマートフォンを閉じた。
西条駅に着いたとき、空は濃い青に変わりかけていた。駅前の明かりがつきはじめている。
行きと同じ道を、今度は歩いて帰る。紙袋は軽い。けれど、右手から左手へ持ち替えるたびに、手のひらに残った持ち手の跡が少し痛んだ。
酒蔵の白い壁が、夕方の光の中でぼんやり浮かんでいる。
観光客の姿はもう少なく、道を歩く人はみな、それぞれの家へ向かっているように見えた。
栞も、その中に混じって歩いた。
河本家の門灯が見えたとき、思っていたよりほっとした。
玄関を開ける前に、少しだけ立ち止まる。ここは自分の家ではない。それでも、ただいま、と言ってもいい場所のような気がした。
「ただいま」
戸を開けて言うと、台所の方から静江の声がした。
「おかえり」
短い返事だった。それだけで十分だった。
台所では、鍋から湯気が上がっていた。味噌汁の匂いがする。
テーブルには、小さな皿にきゅうりの浅漬けと、焼いた厚揚げが置かれていた。
「食べられる?」
「はい」
「お弁当、食べたんじゃろ」
「全部食べました」
静江は少しだけ目を細めた。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
栞は紙袋から弁当箱を出した。
「洗います」
「あとでええよ」
「洗わせてください」
静江は一瞬だけ栞を見た。
それから、流しの横を少し空けた。
「じゃあ、そこ置いて。洗剤はこれ」
「はい」
栞は手ぬぐいをほどき、弁当箱の蓋を外した。中には、小さな米粒がひとつだけ残っていた。
それを指で取り、流しへ落とそうとして、やめた。
口に入れる。味はほとんどしなかった。
スポンジに洗剤をつけ、弁当箱を洗う。油揚げの甘い匂いが、少しずつ薄くなる。水で流すと、箱の表面がきゅっと鳴った。
栞は水を止めた。洗った弁当箱を伏せる。手ぬぐいは、軽く水洗いしてから絞った。うまく絞れず、端から水がぽたぽた落ちる。
静江が横から手を出した。
「貸して」
栞が渡すと、静江は手ぬぐいを半分に折り、もう一度ねじった。
水が細く落ちた。
「手首で絞るんよ」
「手首」
「力だけ入れても疲れるけえ」
静江はそう言って、手ぬぐいを広げた。
台所の端に、洗濯ばさみで留める。
朝、いなり寿司を包んでいた白い布が、今は流しの横で揺れていた。
栞はそれを見た。
今日一日、自分の手にあったもの。公園にも、海にも、電車にもあったもの。それが今、台所で水を切っている。
何かが終わったというより、戻ってきたように見えた。
「どうじゃった」
静江が聞いた。
栞は、すぐには答えられなかった。
椅子に座る。
味噌汁の椀が前に置かれる。
湯気が上がる。
「分からなかったです」
栞は言った。
静江は、うん、とだけ返した。
「何も、ちゃんとは」
「うん」
「折り鶴が、すごくて」
「うん」
「手を合わせてる人がいて」
「うん」
「私は、できなくて」
静江は味噌汁をすすった。
栞も椀を持つ。
湯気が目に近づいた。
「でも、海に行きました」
「海」
「はい」
「遠かったじゃろ」
「少し」
「お弁当、そこで食べたん?」
「はい」
「そう」
静江は少しだけ笑った。
「海でいなり寿司か」
「変ですか」
「ええんじゃない」
栞は味噌汁を一口飲んだ。
あたたかい。
海で飲んだぬるい水とは違う。
「海が」
そこまで言って、栞は箸を置いた。
きれいでした。
そう言えばいい。言えるはずだった。けれど、言ってしまうと、昼間のあの瞬間が少しだけ小さくなる気がした。
静江は待っていた。急かさなかった。
栞は、味噌汁の中の豆腐を見た。
「……海でした」
結局、そんな言葉になった。
静江は、そう、と言った。
「海じゃったんじゃね」
それで会話は終わった。
終わってくれた。
栞は厚揚げを食べた。表面は少し香ばしく、醤油がしみている。
お腹は空いていないと思っていたのに、食べられた。食べていると、体が一日を終えようとしているのが分かった。
風呂に入り、髪を乾かし、二階の部屋へ上がる。
布団の上に座ると、足の裏がじんとした。
よく歩いた。
そう思った。
ただ歩いただけのことが、少し誇らしいような、恥ずかしいような気がした。
スマートフォンを開く。
職場の通知は、まだ見ていなかった。開こうとして、先に別の通知が目に入る。
真鍋航平。
昨日、酒舗まなべで連絡先を交換した。棚の写真を送るかもしれないので、と言われて、断る理由が見つからなかった。
メッセージは短かった。
昨日の打ち合わせでは、お疲れさまでした。透馬さんから、週明けの月曜日には、新しい小瓶を店に出したいと話がありました。無理のない範囲で、見てもらえたら助かります。
栞は画面を見つめた。
無理のない範囲。助かります。
航平らしい言葉だった。きちんとしていて、こちらが断れる余白もあって、でも頼まれていることは分かる。
少し苦手だと思った。その苦手さが、昨日よりはっきり形を持っている。
航平の言葉は、自分が書店で使ってきた言葉に似ている。
相手を押しすぎない。でも必要なことは伝える。角を立てない。断られても崩れない。
それができる人。それをし続けている人。
栞は返信欄を開いた。
分かりました。
そう打つ。
消す。
見に行きます。
打って、また消す。
今日、平和記念公園へ行って、海でいなり寿司を食べて、泣きました。
そんなことを送る必要はどこにもない。
けれど、その一日のあとで、ただ仕事のように返すことが少し難しかった。
栞はしばらく画面を見ていた。
それから、短く打った。
伺います。文章はまだ書けるか分かりませんが、棚は見ます。
送信する。
すぐに既読がついた。
航平からの返事は、少し間があって届いた。
ありがとうございます。それで十分です。
それで十分。栞は、その文字を見た。
今日、静江にも似たようなことを言われた気がする。
全部見ようとせんでもええけえ。
どこで食べてもええけえ。
食べられる分だけ食べんさい。
栞の周りで、十分の形が少しずつ違っていく。東京では、十分だと思える線がどこにも見えなかった。
もっと売る。もっと書く。もっと刺さる。もっと早く返す。もっときちんとする。
もっと、もっと。
そのうち、自分がどこまでやれば一日を終えていいのか分からなくなった。
ここでは、食べられる分だけでいいと言われる。棚を見るだけでいいと言われる。海だった、としか言えなくても、そう、と返される。
栞はスマートフォンを伏せた。
布団に入る。目を閉じると、折り鶴の色が浮かんだ。
赤。
青。
黄色。
それから、海の鈍い光。
いなり寿司の甘い匂い。
大根の葉。
手を合わせられなかった自分の手。
どれも、きれいには並ばなかった。頭の中で、少しずつ重なり、ずれていく。
それでも、昨日までのように全部を押しのけたいとは思わなかった。
栞は寝返りを打った。
階下で、静江が何かを片づける音がする。
水が流れる。
止まる。
また少し流れる。
その音を聞いているうちに、栞は眠った。




