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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
うまいこと書いてあるだけ

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23/35

分からないまま見る

 翌日は、朝から薄く曇っていた。

 庭の洗濯物は少なかった。白いタオルが二枚と、静江の割烹着が一枚。

 物干し竿の向こうの空は、昨日の海の色に少し似ていた。青ではなく、灰色でもなく、その間のどこか。

 栞は台所で、静江が焼いたトーストを食べていた。昨日と同じような朝なのに、体の奥が少し重い。

 平和記念公園へ行ったからか。海まで歩いたからか。泣いたからか。

 理由は一つではなかった。

「今日はどうするん」

 静江が聞いた。

「少し、蔵の方を見てもいいですか」

「蔵?」

「昨日、真鍋さんから連絡があって。明日、棚の仮置きをするらしくて」

「うん」

「その前に、少し見ておいた方がいいのかなと」

 静江はジャムの瓶の蓋を閉めながら、栞を見た。

「見て分かるもん?」

「分からないと思います」

「じゃあ、見たらええよ」

 静江はあっさり言った。

「分からんもんは、見ても分からんけど。見んかったら、分からんままじゃけえ」

 栞はトーストを一口かじった。焼き目のところが少し硬い。噛むと、バターの塩気が広がった。

 分からないまま。

 昨日の自分は、ずっとその中にいた。今日もたぶん、まだそこにいる。

 けれど、分からないまま歩いた先で、海がきれいだと思えた。それなら、分からないまま見ることも、少しはできるかもしれない。

 朝食のあと、栞は蔵へ向かった。

 勝手口からではなく、庭を回って、白い壁の前に立つ。

 河本酒造。

 ここ数日で何度も見た文字だった。

 今朝は、その文字の下に小さな水たまりができていた。ホースの先から水が少し漏れている。

 ぽたり。

 ぽたり。

 栞はその音を聞いてから、中へ声をかけた。

「おはようございます」

 奥から、短く返事があった。

「おはようございます」

 久住厳だった。

 作業着の袖をまくり、大きな道具を洗っている。水が跳ね、床に細かく散った。

 栞は邪魔にならないよう、入口の脇に立った。

「見てもいいですか」

 厳は一度だけこちらを見た。

「邪魔せんなら」

 以前と同じ返事だった。

 栞は、はい、と答えた。

 蔵の中は、昨日より少し湿っているように感じた。曇っているせいかもしれない。

 水の匂いが濃い。

 厳は道具を洗い、布巾で拭き、また別の道具を動かした。ひとつひとつの動作に、説明はなかった。

 栞も聞かなかった。

 聞けば教えてくれるのかもしれない。けれど今は、聞くとすぐに分かったことにしてしまいそうだった。

 水が流れる。米の入った袋が少し動かされる。白い布が広げられる。誰かが奥で声をかけ、厳が短く返す。

 全部を見ても、何をしているのか分からない。分からないのに、手順があることだけは分かる。

 ここでは、ものが勝手にできるわけではない。誰かが朝から動き、水を使い、道具を洗い、乾かし、確かめる。それを毎日する。

 栞は、昨日の男の人の祈りを思い出した。

 買い物の途中に、数秒だけ手を合わせた人。

 祈りも、酒も、たぶん、特別な場所だけでできているのではない。生活の中に、何度も手を入れる人がいる。

 そう思った。

 けれど、その思いにぴったり合う言葉は、まだ出てこなかった。

「川瀬さん」

 厳が言った。

 栞は顔を上げた。

「はい」

「見るのはええけど、顔が忙しい」

「顔」

「考えすぎじゃ」

 栞は、少しだけ口を閉じた。

 考えすぎ。

 書店でも何度か言われたことがあった。

 そんなに考えなくていいよ。もっとぱっと分かりやすく。川瀬さん、真面目だね。

 それらの声と、厳の声は少し違った。

「すみません」

「謝ることでもない」

 厳は布巾を絞った。水が落ちる。白い布は、強くねじられても破れなかった。

「何か書くんか」

「まだ、分かりません」

「ほう」

「書けるなら、書いた方がいいんだろうとは思います」

「書いた方がええものと、書かん方がええものがある」

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