分からないまま見る
翌日は、朝から薄く曇っていた。
庭の洗濯物は少なかった。白いタオルが二枚と、静江の割烹着が一枚。
物干し竿の向こうの空は、昨日の海の色に少し似ていた。青ではなく、灰色でもなく、その間のどこか。
栞は台所で、静江が焼いたトーストを食べていた。昨日と同じような朝なのに、体の奥が少し重い。
平和記念公園へ行ったからか。海まで歩いたからか。泣いたからか。
理由は一つではなかった。
「今日はどうするん」
静江が聞いた。
「少し、蔵の方を見てもいいですか」
「蔵?」
「昨日、真鍋さんから連絡があって。明日、棚の仮置きをするらしくて」
「うん」
「その前に、少し見ておいた方がいいのかなと」
静江はジャムの瓶の蓋を閉めながら、栞を見た。
「見て分かるもん?」
「分からないと思います」
「じゃあ、見たらええよ」
静江はあっさり言った。
「分からんもんは、見ても分からんけど。見んかったら、分からんままじゃけえ」
栞はトーストを一口かじった。焼き目のところが少し硬い。噛むと、バターの塩気が広がった。
分からないまま。
昨日の自分は、ずっとその中にいた。今日もたぶん、まだそこにいる。
けれど、分からないまま歩いた先で、海がきれいだと思えた。それなら、分からないまま見ることも、少しはできるかもしれない。
朝食のあと、栞は蔵へ向かった。
勝手口からではなく、庭を回って、白い壁の前に立つ。
河本酒造。
ここ数日で何度も見た文字だった。
今朝は、その文字の下に小さな水たまりができていた。ホースの先から水が少し漏れている。
ぽたり。
ぽたり。
栞はその音を聞いてから、中へ声をかけた。
「おはようございます」
奥から、短く返事があった。
「おはようございます」
久住厳だった。
作業着の袖をまくり、大きな道具を洗っている。水が跳ね、床に細かく散った。
栞は邪魔にならないよう、入口の脇に立った。
「見てもいいですか」
厳は一度だけこちらを見た。
「邪魔せんなら」
以前と同じ返事だった。
栞は、はい、と答えた。
蔵の中は、昨日より少し湿っているように感じた。曇っているせいかもしれない。
水の匂いが濃い。
厳は道具を洗い、布巾で拭き、また別の道具を動かした。ひとつひとつの動作に、説明はなかった。
栞も聞かなかった。
聞けば教えてくれるのかもしれない。けれど今は、聞くとすぐに分かったことにしてしまいそうだった。
水が流れる。米の入った袋が少し動かされる。白い布が広げられる。誰かが奥で声をかけ、厳が短く返す。
全部を見ても、何をしているのか分からない。分からないのに、手順があることだけは分かる。
ここでは、ものが勝手にできるわけではない。誰かが朝から動き、水を使い、道具を洗い、乾かし、確かめる。それを毎日する。
栞は、昨日の男の人の祈りを思い出した。
買い物の途中に、数秒だけ手を合わせた人。
祈りも、酒も、たぶん、特別な場所だけでできているのではない。生活の中に、何度も手を入れる人がいる。
そう思った。
けれど、その思いにぴったり合う言葉は、まだ出てこなかった。
「川瀬さん」
厳が言った。
栞は顔を上げた。
「はい」
「見るのはええけど、顔が忙しい」
「顔」
「考えすぎじゃ」
栞は、少しだけ口を閉じた。
考えすぎ。
書店でも何度か言われたことがあった。
そんなに考えなくていいよ。もっとぱっと分かりやすく。川瀬さん、真面目だね。
それらの声と、厳の声は少し違った。
「すみません」
「謝ることでもない」
厳は布巾を絞った。水が落ちる。白い布は、強くねじられても破れなかった。
「何か書くんか」
「まだ、分かりません」
「ほう」
「書けるなら、書いた方がいいんだろうとは思います」
「書いた方がええものと、書かん方がええものがある」




