うまいこと書いてあるだけ
厳は布巾を広げ、台の上を拭いた。
水の筋が薄く残る。
「それは、どうやって分かるんですか」
「分からん」
栞は少しだけ目を瞬かせた。
厳は続けた。
「分からんけえ、何回も見る」
台の上の水の筋は、少しずつ消えていく。
何回も読んだ本のことを思い出した。初めて読んだときには、ただきれいだと思った一文が、二度目には苦く、三度目には少しだけ優しく見えたことがある。
それでも、POPに書くときには一行にしなければならなかった。短く、売り場に置ける形に。
そのとき、何を捨てたのか。何を残したのか。
最近の栞は、それをあまり見ていなかったのかもしれない。
「酒は」
不意に、厳が言った。
栞は顔を上げた。
「派手な言葉より先に、毎日見とるもんが出る」
厳は栞を見ていなかった。
拭いた台の端を指で確かめている。
「毎日、ですか」
「そうじゃ」
それきりだった。
栞は、拭かれた台の上を見た。
水の筋が薄く残り、すぐに消えていく。そこに何かを書けと言われたら、今なら何も書かない気がした。何も書かないで、少し待つ。水が乾くまで。
昼前、透馬が蔵に来た。
少し寝不足の顔をしている。片手には、ラベル案の紙と、商品説明らしい資料があった。
「栞ちゃん、いたんじゃ」
「少し見せてもらってました」
「久住さん、怖くなかった?」
透馬が軽く言うと、厳が奥から、聞こえとる、と返した。
静江がいたら笑っただろう。
栞も少しだけ口元を緩めた。
「午後から真鍋くんの店で仮置きするんじゃけど、その前に一回、紹介文のたたき台だけ作れんかなと思って」
透馬は早口だった。
お願いというより、考えていたことが先にこぼれたような言い方だった。
栞はすぐには返事ができなかった。
「無理ならええんよ」
透馬が慌てて付け足す。
「でも、こないだの話聞いとって、栞ちゃんの言葉で一回見てみたいと思って」
「私の言葉で」
「うん」
その言い方は、少しずるかった。
あなたにしか書けないものを、と言われるよりは軽い。でも、ただの作業として頼まれるより、ずっと断りにくい。
「資料、見せてもらえますか」
栞は言った。
言ってから、あ、と思った。
引き受けている。完全にではないけれど、一歩、近づいている。
透馬の顔が少し明るくなる。
「ありがとう。ほんま、無理せんで」
「書けるかどうかは分かりません」
「うん」
「一回だけなら」
「一回でええ。一回見たい」
透馬は資料を渡した。
紙はきれいに揃えれていた。
新しい小瓶の概要、使用米、仕込み水、アルコール度数、味わい、想定ターゲット、提供シーン。
観光客向け。若年層。日常の食卓。はじめての日本酒。
言葉が並んでいる。
どれも悪くない。どれも必要だ。それなのに、紙の上では少しずつ乾いて見える。
栞はその資料を持って、台所へ戻った。
静江は昼の支度をしていた。
「何か持たされたね」
「資料です」
「宿題?」
「たぶん」
「学生みたいじゃね」
栞は椅子に座った。テーブルの端に資料を置く。
学生みたい。
昨日、静江は修学旅行みたいだと言った。
今日は宿題。
遅れてきたものばかりが、今になって栞の前に並んでいく。
昼食のあと、栞は庭を眺めながら資料を読んだ。割烹着はまだ少し湿っているようだった。
資料の横に、メモ帳を置く。東京から持ってきた仕事用のものだった。
表紙の端が少し折れている。中には、書店の発注メモや、フェアの候補本の名前が残っていた。
栞は新しいページを開いた。
ペンを持つ。
最初は、何も出てこなかった。
それから、出てきた。
瀬戸内。水。やさしい。はじめての。軽やか。食卓。寄り添う。
栞は、それらを一つずつ書いた。
書きながら、全部どこかで見たことがあると思った。
見たことがあるどころではない。自分で何度も使ったことがある。
小説のPOPにも。エッセイの棚にも。贈り物フェアにも。新生活フェアにも。雨の日に読みたい本の棚にも。
悪い言葉ではない。嘘でもない。
ただ、どれも少しだけ先に消えていく。紙の上に置いた瞬間、瓶からも、蔵からも、水の音からも離れていく。
栞はペンを置いた。
風が吹く。洗濯物が揺れる。割烹着の袖が少しだけふくらんだ。
何も書けない。
そう思った。
でも、もう一度ペンを持った。
一回だけなら。
そう言ったのは自分だった。
栞は紙の中央に、短く書いた。
瀬戸内の水が育てた、やさしい一杯。
その下に続ける。
はじめての日本酒にも、いつもの食卓にも。
さらにもう一行。
軽やかに寄り添う、新しい西条の味。
書き終えて、栞は紙を見た。
整っている。意味は通る。誰かが見たら、悪くないと言うかもしれない。売り場に置いても、たぶん邪魔にはならない。
でも。
栞は、窓の外の割烹着を見た。
風に揺れている白い袖。
水を使う厳の手。
静江のいなり寿司。
海の鈍い光。
折り鶴の明るすぎる色。
どれも、この紙の中には入っていなかった。
入れればいいというものでもない。入れようとした瞬間、また違うものになる気がした。
栞は、書いた紙を机の上に伏せた。
しばらくして、透馬がそれを取りに来た。
栞は、渡す直前まで迷った。
「これ、たたき台です」
「ありがとう」
「本当に、最初の案なので」
「うん、分かっとる」
「まだ、全然」
「大丈夫。見るだけ」
透馬は紙を受け取り、その場で読んだ。
目が一行目から三行目まで動く。
読み終えると、顔が少し明るくなった。
「ええじゃん」
栞は、指先を握った。
「分かりやすいし、やわらかいし。航平くんの店にも置きやすそう」
置きやすそう。
その言葉に、少しだけ胸がざらついた。
「久住さんにも見せますか」
栞が聞くと、透馬は一瞬だけ止まった。
「見せんわけにはいかんかな」
透馬は苦笑した。
「また何か言われるかもしれんけど」
言われる。
何を。
栞は、すでにどこかで知っていた。
しばらくして、蔵の奥の部屋に紙が置かれた。
透馬が、厳にも読んでもらおうと言った。
航平も来ていた。
栞は、なぜ自分がそこにいるのか分からないまま、テーブルの端を見つめていた。
紙の上には、さっき自分が書いた文章が印刷されている。
瀬戸内の水が育てた、やさしい一杯。
栞は、その一行を見ないようにした。
見なくても覚えている。自分で書いたのだから、当たり前だった。
厳は、紙を一枚だけ受け取った。
透馬は腕を組み、航平は少し後ろに立っていた。
部屋の外で、水の落ちる音がしている。一定ではなく、思い出したように、ぽたり、ぽたりと響いた。
厳は黙って読んだ。
長くはなかった。目が紙の上を一度だけ通る。それから、紙を少し下げた。
「うまいこと書いてあるね」
先に口を開いたのは厳だった。
透馬がほっとしたように肩を下げた。
航平も、少しだけ表情を緩めた。
栞だけが、何も動かせなかった。
褒められたのだと思うには、厳の声は静かすぎた。
「うまいこと書いてあるだけじゃ」
紙が、急に薄く見えた。




