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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
うまいこと書いてあるだけ

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24/35

うまいこと書いてあるだけ

 厳は布巾を広げ、台の上を拭いた。

 水の筋が薄く残る。

「それは、どうやって分かるんですか」

「分からん」

 栞は少しだけ目を瞬かせた。

 厳は続けた。

「分からんけえ、何回も見る」

 台の上の水の筋は、少しずつ消えていく。

 何回も読んだ本のことを思い出した。初めて読んだときには、ただきれいだと思った一文が、二度目には苦く、三度目には少しだけ優しく見えたことがある。

 それでも、POPに書くときには一行にしなければならなかった。短く、売り場に置ける形に。

 そのとき、何を捨てたのか。何を残したのか。

 最近の栞は、それをあまり見ていなかったのかもしれない。

「酒は」

 不意に、厳が言った。

 栞は顔を上げた。

「派手な言葉より先に、毎日見とるもんが出る」

 厳は栞を見ていなかった。

 拭いた台の端を指で確かめている。

「毎日、ですか」

「そうじゃ」

 それきりだった。

 栞は、拭かれた台の上を見た。

 水の筋が薄く残り、すぐに消えていく。そこに何かを書けと言われたら、今なら何も書かない気がした。何も書かないで、少し待つ。水が乾くまで。

 昼前、透馬が蔵に来た。

 少し寝不足の顔をしている。片手には、ラベル案の紙と、商品説明らしい資料があった。

「栞ちゃん、いたんじゃ」

「少し見せてもらってました」

「久住さん、怖くなかった?」

 透馬が軽く言うと、厳が奥から、聞こえとる、と返した。

 静江がいたら笑っただろう。

 栞も少しだけ口元を緩めた。

「午後から真鍋くんの店で仮置きするんじゃけど、その前に一回、紹介文のたたき台だけ作れんかなと思って」

 透馬は早口だった。

 お願いというより、考えていたことが先にこぼれたような言い方だった。

 栞はすぐには返事ができなかった。

「無理ならええんよ」

 透馬が慌てて付け足す。

「でも、こないだの話聞いとって、栞ちゃんの言葉で一回見てみたいと思って」

「私の言葉で」

「うん」

 その言い方は、少しずるかった。

 あなたにしか書けないものを、と言われるよりは軽い。でも、ただの作業として頼まれるより、ずっと断りにくい。

「資料、見せてもらえますか」

 栞は言った。

 言ってから、あ、と思った。

 引き受けている。完全にではないけれど、一歩、近づいている。

 透馬の顔が少し明るくなる。

「ありがとう。ほんま、無理せんで」

「書けるかどうかは分かりません」

「うん」

「一回だけなら」

「一回でええ。一回見たい」

 透馬は資料を渡した。

 紙はきれいに揃えれていた。

 新しい小瓶の概要、使用米、仕込み水、アルコール度数、味わい、想定ターゲット、提供シーン。

 観光客向け。若年層。日常の食卓。はじめての日本酒。

 言葉が並んでいる。

 どれも悪くない。どれも必要だ。それなのに、紙の上では少しずつ乾いて見える。

 栞はその資料を持って、台所へ戻った。

 静江は昼の支度をしていた。

「何か持たされたね」

「資料です」

「宿題?」

「たぶん」

「学生みたいじゃね」

 栞は椅子に座った。テーブルの端に資料を置く。

 学生みたい。

 昨日、静江は修学旅行みたいだと言った。

 今日は宿題。

 遅れてきたものばかりが、今になって栞の前に並んでいく。

 昼食のあと、栞は庭を眺めながら資料を読んだ。割烹着はまだ少し湿っているようだった。

 資料の横に、メモ帳を置く。東京から持ってきた仕事用のものだった。

 表紙の端が少し折れている。中には、書店の発注メモや、フェアの候補本の名前が残っていた。

 栞は新しいページを開いた。

 ペンを持つ。

 最初は、何も出てこなかった。

 それから、出てきた。

 瀬戸内。水。やさしい。はじめての。軽やか。食卓。寄り添う。

 栞は、それらを一つずつ書いた。

 書きながら、全部どこかで見たことがあると思った。

 見たことがあるどころではない。自分で何度も使ったことがある。

 小説のPOPにも。エッセイの棚にも。贈り物フェアにも。新生活フェアにも。雨の日に読みたい本の棚にも。

 悪い言葉ではない。嘘でもない。

 ただ、どれも少しだけ先に消えていく。紙の上に置いた瞬間、瓶からも、蔵からも、水の音からも離れていく。

 栞はペンを置いた。

 風が吹く。洗濯物が揺れる。割烹着の袖が少しだけふくらんだ。

 何も書けない。

 そう思った。

 でも、もう一度ペンを持った。

 一回だけなら。

 そう言ったのは自分だった。

 栞は紙の中央に、短く書いた。

 瀬戸内の水が育てた、やさしい一杯。

 その下に続ける。

 はじめての日本酒にも、いつもの食卓にも。

 さらにもう一行。

 軽やかに寄り添う、新しい西条の味。

 書き終えて、栞は紙を見た。

 整っている。意味は通る。誰かが見たら、悪くないと言うかもしれない。売り場に置いても、たぶん邪魔にはならない。

 でも。

 栞は、窓の外の割烹着を見た。

 風に揺れている白い袖。

 水を使う厳の手。

 静江のいなり寿司。

 海の鈍い光。

 折り鶴の明るすぎる色。

 どれも、この紙の中には入っていなかった。

 入れればいいというものでもない。入れようとした瞬間、また違うものになる気がした。

 栞は、書いた紙を机の上に伏せた。

 しばらくして、透馬がそれを取りに来た。

 栞は、渡す直前まで迷った。

「これ、たたき台です」

「ありがとう」

「本当に、最初の案なので」

「うん、分かっとる」

「まだ、全然」

「大丈夫。見るだけ」

 透馬は紙を受け取り、その場で読んだ。

 目が一行目から三行目まで動く。

 読み終えると、顔が少し明るくなった。

「ええじゃん」

 栞は、指先を握った。

「分かりやすいし、やわらかいし。航平くんの店にも置きやすそう」

 置きやすそう。

 その言葉に、少しだけ胸がざらついた。

「久住さんにも見せますか」

 栞が聞くと、透馬は一瞬だけ止まった。

「見せんわけにはいかんかな」

 透馬は苦笑した。

「また何か言われるかもしれんけど」

 言われる。

 何を。

 栞は、すでにどこかで知っていた。

 しばらくして、蔵の奥の部屋に紙が置かれた。

 透馬が、厳にも読んでもらおうと言った。

 航平も来ていた。

 栞は、なぜ自分がそこにいるのか分からないまま、テーブルの端を見つめていた。

 紙の上には、さっき自分が書いた文章が印刷されている。

 瀬戸内の水が育てた、やさしい一杯。

 栞は、その一行を見ないようにした。

 見なくても覚えている。自分で書いたのだから、当たり前だった。

 厳は、紙を一枚だけ受け取った。

 透馬は腕を組み、航平は少し後ろに立っていた。

 部屋の外で、水の落ちる音がしている。一定ではなく、思い出したように、ぽたり、ぽたりと響いた。

 厳は黙って読んだ。

 長くはなかった。目が紙の上を一度だけ通る。それから、紙を少し下げた。

「うまいこと書いてあるね」

 先に口を開いたのは厳だった。

 透馬がほっとしたように肩を下げた。

 航平も、少しだけ表情を緩めた。

 栞だけが、何も動かせなかった。

 褒められたのだと思うには、厳の声は静かすぎた。

「うまいこと書いてあるだけじゃ」

 紙が、急に薄く見えた。

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