苦手な人
透馬が何か言いかける。
航平がその前に一歩出る。
栞は、どちらも見なかった。
知っていた。
言われる前から、知っていた。
やさしい。
軽やか。
寄り添う。
はじめての。
食卓に。
どれも、使ったことのある言葉だった。たぶん、何度も。小説にも、エッセイにも、贈り物の本にも、季節の棚にも使ってきた。
栞は、指先を握った。
「……すみません」
謝る必要があるのかどうかも分からなかった。でも、ほかの言葉が出てこなかった。
透馬が椅子を引いた。木の脚が床をこすって、短い音を立てる。
「久住さん、それは言い方が」
「言い方の話じゃない」
厳は紙をテーブルに置いた。
置き方は乱暴ではなかった。けれど、その一枚が、さっきよりずっと軽くなったように見えた。
「売るための言葉じゃろ」
「売るためでも、悪いことじゃないでしょう」
透馬の声には、少しだけ熱が入っていた。
「悪いとは言うとらん」
「じゃあ」
「薄いと言うとる」
部屋の中が、また止まった。
薄い。
その言葉は、一昨日、何度も栞の近くにあった。
言葉が薄くなる。酒を薄める。分かったようにする。短くする。置きやすくする。
どれも少しずつ違うはずなのに、今は一つの場所に集まって、栞の前に置かれていた。
航平が、静かに口を開いた。
「棚には置きやすいと思います」
栞は顔を上げなかった。
見なくても、航平が紙を見ていることは分かった。
「小瓶の横に置いたとき、邪魔にはならないです。はじめての人にも伝わりやすい」
「じゃろ」
透馬が言う。
その声には、ほっとしたような、厳に対して少し勝ったような響きが混じっていた。
栞は、それが苦しかった。
航平は続けた。
「ただ、久住さんの言うことも分かります」
透馬が黙る。
厳は何も言わない。
「この文章だと、たぶん、どこの酒でも言える」
それは、厳の言葉よりも静かだった。
静かなぶん、栞の中にまっすぐ入ってきた。
どこの酒でも言える。
そうだった。
西条でなくてもいい。河本酒造でなくてもいい。厳の手でなくても、静江の台所でなくても、航平の棚でなくてもいい。
海へ持って行ったいなり寿司のことも、折り鶴の色も、水の音も、どこにもない。
何もない。
きれいに整えたのに、何も残っていない。
「すみません」
栞は、もう一度言った。
さっきよりも声が小さかった。
透馬が、違う違う、と手を振る。
「栞ちゃんが謝ることじゃない。こっちが急に頼んだんじゃし、そもそもこれはたたき台で」
「いえ」
栞は首を振った。
たたき台。
その言葉に逃げることはできた。
最初の案だから。資料を見ただけだから。まだ何も知らないから。時間がなかったから。
言い訳はいくつもあった。どれも本当だった。でも、その本当の後ろに、自分が一番見たくないものがある。
何も知らなくても、それらしく書けてしまう。
そのことだった。
「すみません。少し、外に出ます」
誰の返事も待たずに、栞は椅子を引いた。
今度は、さっきの透馬よりも小さな音だった。
廊下へ出ると、蔵の空気が少し冷たかった。
足元に、水の跡がある。踏まないように歩いていたはずなのに、今はそれを見る余裕がなく、靴の底が少し濡れた。
勝手口から外へ出る。
空は曇ったままだった。
庭の洗濯物は、まだ取り込まれていない。
静江の割烹着が、風のない空気の中でほとんど動かずに下がっていた。
栞はその下を通り過ぎ、門のそばまで歩いた。
外へ出るわけではなかった。どこかへ行きたいわけでもない。
ただ、あの部屋の中に自分の書いた紙があることに耐えられなかった。
門柱の横に立ち、手を握る。
右手の小指の横には、さっき書いた文字のインクが薄くついていた。
瀬戸内。やさしい。軽やか。寄り添う。
どれも悪い言葉ではない。でも、悪くない言葉で紙を埋めたとき、自分は何かをした気になった。
それが嫌だった。
東京の書店でも、同じことをしていたのだろうか。
泣ける。救われる。胸に刺さる。人生が変わる。それらの言葉で本の横を飾って、届いた気になって、売れた気になって、書いた気になっていたのだろうか。
全部がそうだったわけではない。
そう思いたかった。
あの本には、本当にその言葉が合っていた。あのPOPを読んで、買ってくれた人がいた。後日、よかったです、と言ってくれた人もいた。
それも本当だった。
けれど、全部を信じきることも、全部を嘘にすることもできなかった。
栞は、門柱に背を預けた。
石は少し冷たい。
目を閉じる。
海の光が浮かんだ。
きれいだ。
あの言葉だけは、逃げなかった。
誰にも見せるつもりがなかったからかもしれない。売る必要がなかったからかもしれない。感想文にしなくてよかったからかもしれない。
自分の中で出て、自分の中に落ちた言葉だった。
では、人に渡す言葉はどうすればいいのだろう。
渡した瞬間に、軽くなるのだろうか。紙に置いた瞬間に、逃げるのだろうか。
「川瀬さん」
声がして、栞は目を開けた。
航平が、少し離れたところに立っていた。
手には、さっきの紙を持っていない。それだけで、少し息がしやすかった。
「すみません。追いかける形になって」
「いえ」
「大丈夫ですか」
栞は、すぐには答えなかった。
大丈夫です、と言えば終わる。
大丈夫ではないです、と言えば話が始まる。
どちらも今は少し違った。
「分かりません」
栞が言うと、航平はうなずいた。
「そうですよね」
その返事も、うまかった。
栞は少しだけ視線を落とした。
「真鍋さんは、あれをどう思いましたか」
「あの文章ですか」
「はい」
航平は少し考えた。
「悪くないと思いました」
栞の喉の奥が、きゅっと狭くなった。
「悪くないって、何ですか」
自分の声が思ったより低くて、栞は少し驚いた。
航平はすぐには答えなかった。
庭の方で、割烹着の袖が少し揺れた。
「売れそうってことですか」
「……それもあります」
「ですよね」
言ってから、嫌な言い方だと思った。
けれど、取り消せなかった。
航平は怒らなかった。
困ったように笑うこともしなかった。
ただ、棚の前で客の話を聞くときと同じ顔で、栞の言葉を受け止めた。
「売れそうなことを、そんなに悪いことみたいに言わないでください」
栞は顔を上げた。
「売れなかったら、残せないものもあります」
割烹着が揺れた。白い布の向こうで、空はまだ曇っている。
栞は返事ができなかった。
航平の言葉もまた、正しかった。正しい言葉は、ときどき逃げ道をなくす。
「分かってます」
栞は言った。
「本も、売れなかったら棚から下げます。店だって、来てもらえなかったら閉まります。好きだったって後から言われても、残らないものはあります」
「はい」
「分かってます」
同じ言葉をもう一度言うと、少しだけ声が震えた。
「分かってるのに、できなくなったんです」
航平は、何も言わなかった。
栞は、言葉が止まらなくなる前に口を閉じた。
ここから先は、まだ誰にも出したくなかった。自分でも全部見ていない場所だった。
航平は少しだけ目を伏せた。
「僕も、いつもできてるわけじゃないです」
「真鍋さんは、できてるように見えます」
「見えるようにはしています」
「それが、苦手なんです」
言ってしまってから、栞は息を止めた。
航平も、少しだけ動きを止めた。
今のは、言わなくてよかった。でも、言ってしまった。
栞はすぐに謝ろうとした。
航平の方が先に口を開いた。
「そうですか」
それだけだった。
責められなかった。笑われなかった。
だから余計に、栞は自分の言葉の置き場に困った。
「すみません」
「いえ。言われないより助かります」
「助かるんですか」
「苦手な人に、苦手だと分からないまま接客の顔で近づく方が、たぶん迷惑なので」
航平は静かに言った。
「距離、取ります」
「そういう意味では」
「でも、仕事の話はします」
栞は思わず航平を見た。
航平は、少しだけ口元を緩めた。
「そこまで引いたら、透馬さんに怒られるので」
栞は、笑うところなのか迷った。
迷っているうちに、ほんの少しだけ息が抜けた。
「真鍋さん、ずるいです」
「よく言われます」
「言われるんですか」
「たまに」
「でしょうね」
栞がそう言うと、航平は少しだけ笑った。今度の笑顔は、店で見たものより小さかった。
風が吹いた。割烹着の裾が揺れる。物干し竿が、かすかに鳴った。
「文章」
航平が言った。
「もう一回、書きますか」
栞はすぐには答えなかった。
門の外を、自転車が通る音がした。
「分かりません」
「はい」
「書きたいのかも、書きたくないのかも、分からないです」
「はい」
「でも、あのまま置かれるのは、嫌です」
航平はうなずいた。
「じゃあ、置きません」
「いいんですか」
「たたき台なので」
栞は、その言葉に少しだけ救われた。
さっきは逃げ道に思えた言葉が、今はやり直すための隙間に見えた。
「透馬さんには、僕から言います」
「いえ、自分で」
「言えますか」
栞は黙った。
航平は、すぐに言葉を足さなかった。
待つことも、やはりうまい。
栞は少し悔しくなった。
「言います」
「分かりました」
「真鍋さん、そういうところも苦手です」
「今のは、少し分かります」
航平はそう言って、庭の方へ視線を向けた。
「戻りますか」
「もう少しだけ」
「じゃあ、先に戻ってます」
「はい」
航平は、それ以上何も言わずに蔵の方へ戻っていった。
背中はまっすぐだった。けれど、少しだけ疲れているようにも見えた。
栞は門柱から背を離した。
空を見上げる。雲は薄く広がっていて、どこにも切れ目がなかった。
雨が降るほどではない。晴れるほどでもない。そういう空だった。




