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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
うまいこと書いてあるだけ

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手が覚えとるもん

 台所へ戻ると、静江が油揚げをざるに上げていた。昨日の残りではない。新しく煮ているらしい。鍋の中には、甘辛い煮汁が少し残っている。

「叔母さん、またいなり寿司ですか」

「油揚げが安かったけえ」

 静江は、理由として十分な声で言った。

 栞は手を洗い、流しの横に立った。

 甘い匂いがする。昨日、海で開いた弁当箱の中の匂い。朝の台所の匂い。少し濃くて、少し甘い。

「叔母さん」

「ん」

「いなり寿司って、どうしてずっと作ってるんですか」

 静江は、ざるの中の油揚げを見たまま、少し笑った。

「作れるけえ」

「それだけですか」

「それだけじゃねえ」

 菜箸の先が、鍋のふちに当たった。

 栞は、流しの横に立ったまま聞いていた。

「嫁いできたら、だいたいのもんは変わるけえね」

 静江は、油揚げを一枚ずつ広げた。

「名字も、台所の置き場所も、味噌の味も。最初はよう分からんことばっかりよ」

 栞は、白いタイルの継ぎ目を見た。

「でも、手が覚えとるもんは、なかなか変わらんのよ。変えんでええものもあるしね」

「変えなくて、怒られなかったんですか」

「いなり寿司くらいで怒る人の方が、どうかしとる」

 静江はそう言って、今度ははっきり笑った。

 栞も少しだけ笑った。

「尾道の味なんですか」

「正確には、うちの母さんの味じゃね。尾道の人みんながこう作るわけじゃない」

「じゃあ、叔母さんの家の味」

「そうじゃね」

 静江は油揚げを軽く押して、余分な煮汁を落とした。

「でも、西条に来てからも作っとるけえ、もうここの味でもあるんかもしれん」

 栞は、少しだけ首を傾けた。

「両方なんですか」

「両方でええじゃろ」

「いいんですか」

「誰に許可取るん」

 静江はあっさり言った。

 その言い方が、栞の胸の奥に小さく落ちた。

 誰に許可取るん。

 栞は、自分の手を見た。

 右手の小指に、薄いインクの跡。

 POPを書くとき、いつもそこが黒くなる。

 東京の書店でついた跡。捨てたいと思っていた仕事の跡。

 でも、それは自分の手が覚えているものでもあった。

「どこにおっても」

 静江が言った。

「自分の手が覚えとるもんは、持っといてええんよ」

 鍋から、甘辛い匂いが上がった。

 栞は、何も言えなかった。

 あの跡まで、嫌いにならなくてもよかったのだろうか。

 そう思った。

 思っただけで、まだ信じられたわけではなかった。

 でも、手を隠そうとは思わなかった。

 

 夕飯までの時間、栞は透馬に会い、さっきの文章は一度下げたいと伝えた。

 透馬は少し驚いた顔をした。けれど、怒りはしなかった。

「そっか」

「すみません」

「いや、こっちこそ急がせた」

「もう一度、見てから考えたいです」

「何を?」

 栞は少し黙った。

「蔵と、お店と」

 それから、少し迷って付け足した。

「自分の手を」

 透馬は意味が分からないという顔をした。

 それでも、うん、と言った。

「じゃあ、待つ」

 その声には、焦りが残っていた。

 試飲会の日は近い。棚は空いたまま。言葉はまだない。

 待つことは、透馬にとって簡単ではないはずだった。

 栞は、そのことが分かった。

 だから、軽くはうなずけなかった。

「できるかどうかは、まだ」

「うん」

「でも、あれじゃない方がいいと思います」

 透馬は、少しだけ息を吐いた。

「分かった」

 その言葉は、完全に納得した声ではなかった。けれど、栞に押し返す声でもなかった。


 蔵の外では、静江の割烹着がようやく取り込まれていた。物干し竿は空だった。

 栞はその下を通り、二階の部屋へ戻った。机の上には、書き直す前のメモが残っている。

 やさしい。軽やか。はじめての。食卓。寄り添う。

 栞はその言葉を、一本ずつ線で消した。消しても、紙からなくなるわけではない。線の下に、まだ見える。

 それでいいと思った。なかったことにはしない。ただ、そのままは置かない。

 窓の外は、少し暗くなっていた。

 遠くで、水の流れる音がした。

 栞はペンを持ったまま、しばらく何も書かなかった。

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