メモ帳を出さない日
翌朝、雨は降らなかった。けれど、空はまだ重かった。白い雲が低く広がり、庭の洗濯物は出ていなかった。物干し竿だけが、昨日より少し黒く見える。
台所へ降りると、静江は米を研いでいた。水を入れ、手を回し、白く濁った水を捨てる。また水を入れる。
同じことを何度も繰り返している。
栞は、しばらく入口に立っていた。
「おはよう」
静江は振り返らずに言った。
「おはようございます」
「今日はパンないけえ、ご飯ね」
「はい」
米を研ぐ音がする。ざらざらと、指と米が触れる音。水の中で何かがほどけていく音。
栞は、流しの横に立った。
「手伝いますか」
「じゃあ、味噌汁の豆腐切って」
「はい」
まな板の上に、豆腐の入った小さな容器が置かれている。栞はそれを開け、水を切った。豆腐は手の中で少し崩れそうだった。
包丁を入れる。
一列。
向きを変えて、もう一列。
形は少し不揃いだった。
静江は米をざるに上げながら、ちらりと見た。
「食べたら同じよ」
「まだ何も言ってません」
「顔が言うとる」
栞は少し笑った。
顔が忙しい。昨日、厳にもそう言われた。
考えすぎの顔。分からないものを、分かる形にしようとしている顔。
栞は包丁を置き、豆腐を鍋へ入れた。
崩れた小さな欠片が、まな板の端に残る。指で寄せて、鍋に入れる。
捨てるほどではない。残しておくほどでもない。それでも、味噌汁には入れられる。
朝食のあと、栞は蔵へ向かった。
今日は見せてもらうというより、自分から足を運ぶ感覚が少しだけあった。
蔵の入口で声をかける。
「おはようございます」
奥から、厳の低い返事があった。
昨日と同じ作業着。同じようにまくった袖。
けれど、今日は栞の目に入るものが少し違った。
厳の手の甲にある古い傷。布巾の端のほつれ。床に置かれた長靴の向き。水を出す前に、厳が一度だけ蛇口の根元を確かめること。道具を置くとき、音が大きくならないように、最後だけ少し手を添えること。
どれも、説明されなければ気づかないまま通り過ぎるものだった。
栞は入口の脇に立ち、メモ帳を出さなかった。
書くために見ると、すぐに言葉にしてしまう。今日は、手を空けておきたかった。
水が流れる。桶の底を打つ。白い布が濡れて、少し重くなる。厳はそれを両手で絞った。手首が動く。
昨日、静江が手ぬぐいを絞ったときと同じだった。
力だけ入れても疲れるけえ。
栞は、自分の手首を見た。
ペンを持つ手。紙を押さえる手。名刺を受け取った手。弁当箱を持って歩いた手。手を合わせられなかった手。
それらが、同じ手の中にある。
どれかだけを選ぶことはできなかった。
「今日は書かんのか」
厳が言った。
栞は顔を上げた。
「書かないで見ます」
「ほう」
「書こうとすると、先に言葉が出るので」
厳は、何も言わなかった。
けれど、追い返しもしなかった。
それだけで、ここにいていいと言われているようだった。
しばらくして、透馬が来た。
今日は昨日より少し早い時間だった。
手には、また資料がある。
けれど、栞の姿を見ると、少し立ち止まった。
「おはよう」
「おはようございます」
透馬は、資料を持つ手を少し持ち替えた。
「昨日のこと、久住さんとも話したんよ」
厳は奥で水を止めた。
聞こえているはずだった。
透馬はそちらを一度見てから、栞に向き直った。
「名前、まだ決まってないんじゃけど」
「はい」
「正直、焦っとる」
その言い方は、いつもの明るさを少し外していた。
「月曜には店に並べたい。試飲会も小さくやる。ラベルの最終確認もある。なのに名前も言葉もまだで」
栞は、うなずくこともできなかった。
透馬の焦りは、ちゃんと理由のある焦りだった。
待つことが大事だと言うのは簡単だった。でも、待っている間にも日は進む。
仕込みも、出荷も、店の準備も、全部動いている。
「だから、昨日のでも、僕は悪くないと思った」
透馬は言った。
「売れると思ったし、分かりやすいと思った」
「はい」
「でも、久住さんに言われてから見たら、たしかに、どこの酒でも言える気もした」
厳は何も言わなかった。
水の音だけが少し遠くで続いている。
「難しいね」
透馬は小さく笑った。
笑いきれていない顔だった。
「入口を作るって、何を削るか決めることなんじゃね」
栞は、その言葉を聞いた。
何を削るか。
何を捨てたか分かっとらんといけん。
厳の声が、そこに重なる。
透馬と厳は、やはり同じものを見ているのかもしれない。
立っている場所が違うだけで。
「午後に、真鍋さんの店で、棚を見ます」
栞は言った。
「うん」
「そこで、もう一度考えます」
「ありがとう」
「できるかどうかは」
「うん。分かっとる」
透馬は、今度はきちんとうなずいた。
無理に明るくしなかった。それが、昨日より少しだけ信じられる気がした。
昼食は、朝の味噌汁の残りと、炊きたてのご飯だった。
静江は、海苔を小皿に出した。
栞は茶碗によそわれたご飯を見た。
白い湯気。朝、研がれていた米。それが今、茶碗の中にある。
当たり前の変化だった。けれど、当たり前のものほど、途中に手がある。
研ぐ人。水を捨てる人。火加減を見なくても、炊飯器の蓋を開ける人。茶碗によそう人。食べる人。
栞はご飯を一口食べた。
甘い。
そう思った。
米が甘いと感じたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「午後、酒屋さん?」
静江が聞いた。
「はい」
「自転車使いんさい」
「ありがとうございます」
「今日は帰り、雨降るかもしれんけえ、早めにね」
栞は窓の外を見た。
空は相変わらず低い。
「降りますかね」
「知らんけど、降りそうな顔しとる」
「空が?」
「うん」
静江は真面目に言った。
顔。
まただ。
栞は少し笑った。




