水の便り
自転車で酒舗まなべへ向かうと、町は昨日より静かだった。
観光客の姿は少ない。そのかわり、地元の人らしい車が通り、制服姿の学生が二人、自転車で栞を追い越していった。
空気は少し湿っている。
ペダルを踏むたび、膝に小さく力が入る。
店の前に着くと、ガラス戸の内側で航平が棚を動かしているのが見えた。
入口の札は営業中になっている。
栞は自転車を止め、戸を開けた。冷蔵ケースの冷気と、瓶と紙の匂いが混じった空気が体にぶつかる。
「こんにちは」
航平が振り向いた。
「あ、川瀬さん。すみません、少し散らかってます」
「棚、動かしてたんですか」
「はい。例の小瓶の場所を少し変えようと思って」
前に見た空きスペースは、少し広くなっていた。
隣にあった別の酒が一本分左へ寄せられ、空いた場所に薄い木の札が置かれている。札にはまだ何も書かれていない。
「ここですか」
「はい」
航平は、栞の隣ではなく、少し離れたところに立った。
その距離に、栞は気づいた。
昨日、自分が苦手だと言ったからだ。
気を遣われている。
それをありがたいと思う気持ちと、申し訳なく思う気持ちが同時に来た。でも、今は近づかれない方が楽だった。
「この棚、真鍋さんが作ってるんですか」
「だいたいは」
「本屋みたいですね」
「前も言いました」
「前は、あんまり聞けてませんでした」
航平は少しだけ目を細めた。笑った、というほどではなかった。
「じゃあ、今日は聞けてますか」
「たぶん」
「たぶん」
「まだ少し、真鍋さんのこと苦手なので」
言ってから、栞はしまったと思った。
昨日も言った。今日まで言う必要はなかった。
けれど航平は、困った顔をするでもなく、ただ棚を見た。
「それは、残念です」
「すみません」
「いえ。言われないより助かります」
昨日と同じような言葉だった。でも、今日は少しだけ違って聞こえた。
言葉は同じでも、置かれる場所が違うと変わる。
栞は棚を見た。
空いた場所。その周りには、昔からある酒、季節限定の酒、贈答用の箱、小さな飲み比べセットが並んでいる。
それぞれの札には、短い言葉が添えられていた。
冷やしてすっきり。食中酒に。贈り物にも。昔ながらの辛口。
どれも、長くはない。けれど、全部が同じではない。
瓶の隣に置かれて、その瓶の方を向いている。言葉が前に出すぎていない。
「真鍋さん」
「はい」
「この札って、全部真鍋さんが書いてるんですか」
「手書きのものは、だいたい」
「短いですね」
「長いと読まれないので」
「それだけですか」
「瓶を見てほしいので」
航平は、木の札を一枚手に取った。
「説明しすぎると、僕が先に喋っている感じになるんです。お客さんがまだ聞いてないのに」
栞は、書店のPOPを思い出した。
本の横で、こちらが先に喋りすぎること。読者が本を開く前に、泣けます、救われます、人生が変わります、と言ってしまうこと。
それで手が伸びることもある。
でも、その本が持っていたはずの沈黙を、自分が先に埋めてしまうこともある。
「本屋でも、あります」
「そうですか」
「あります」
栞は、棚の空白を見た。
ここに置く言葉は、瓶より先に喋りすぎてはいけない。でも、黙りすぎても、誰も手を伸ばせない。
その間。
言葉が置ける、細い場所。
「名前」
航平が言った。
「透馬さんから、候補をいくつか預かってます」
紙を渡される。
栞は受け取った。
瀬戸のひかり。
はじめの一杯。
西条さんぽ。
水音。
凪の酒。
どれも悪くなかった。観光客にも分かりやすい。若い人にも手に取りやすい。ラベルにも乗りそうだった。
でも、栞の目はその上をゆっくり通り過ぎた。
瀬戸。ひかり。はじめ。さんぽ。凪。
どれも、少しだけこちらを向きすぎている。
そう思った。
「悪くないですよね」
航平が言った。
「はい」
「でも、決めきれなくて」
栞は紙を見たまま、うなずいた。
水音。
その候補で目が止まる。
水の音は、たしかにあった。
蔵の中。台所。洗濯物。平和記念公園の川。海へ行く水。
でも、音だけではない気がした。
水は、どこかから来て、どこかへ行く。米に入り、酒になり、味噌汁になり、洗濯物を濡らし、川を流れ、海へ出る。
手元にあるようで、すぐに離れていく。離れていくけれど、また形を変えて戻ってくる。
栞は、静江のいなり寿司を思い出した。
尾道から来て、西条で作られ、広島市内を通り、海辺で食べられ、空の弁当箱になって戻ったもの。
手元に置いて、遠くへ持っていくもの。
「便り」
栞は、小さく言った。
航平が顔を上げる。
「便り?」
「水の便り、はどうですか」
言ってから、栞は少しだけ指に力を入れた。
思いついた言葉は、いつも怖い。出した瞬間に、もう自分の中だけのものではなくなる。
「水の便り」
航平は、声に出して繰り返した。ゆっくりだった。
棚の空いた場所を見る。
「派手ではないですね」
「はい」
「若い人向けっぽくも、観光向けっぽくもない」
「はい」
「でも」
航平は木の札を手に取ったまま、少し黙った。
「場所は作りやすいです」
「場所」
「棚に置いたときに、隣の酒と喧嘩しない名前です」
栞は、少し息を吐いた。褒められたのかどうかは分からない。
でも、昨日の「悪くない」よりは、少し受け取りやすかった。
「透馬さんに聞いてみます」
航平が言った。
「久住さんにも」
「はい」
「川瀬さんは、どうして便りって思ったんですか」
栞は、すぐには答えられなかった。
水。尾道いなり。平和記念公園。海。叔母の台所。自分の手。
それらを全部説明したら、たぶん違うものになる。
「遠くに行く感じがしたので」
栞は言った。
「でも、手元にも残る感じがして」
航平はうなずいた。
「いいですね」
その言い方は短かった。短いのに、逃げなかった。




