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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
水の便り

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置けます

 栞は少しだけ目を伏せた。

「ありがとうございます」

 そのあと、航平は透馬に電話をした。

 栞は店の隅で、棚を見ていた。

 会話の中身は、全部は聞こえなかった。

 水の便り。

 はい。

 川瀬さんが。

 いや、僕は合うと思います。

 久住さんにも聞きます。

 明日には札は作れます。

 そんな断片だけが聞こえる。

 栞はメモ帳を取り出した。

 今度は、自然に手が動いた。

 水の便り。

 その下に、いくつか言葉を書く。

 うまく言えない日。グラス。合わせる。水から生まれた。小さな。便り。

 売れるかどうかは分からない。目立つかどうかも分からない。

 でも、昨日の言葉より、逃げない気がした。

 航平が電話を終えて戻ってきた。

「透馬さん、少し考えたいそうです。でも、悪くないって」

「悪くない」

 栞が小さく繰り返すと、航平は少しだけ気まずそうな顔をした。

「すみません」

「いえ」

「僕の悪くない、しばらく使いにくいですね」

「そうですね」

 栞は少しだけ笑った。

 航平も笑った。

 昨日より、空気が少しだけ軽かった。

 外では、雨がまだ降らずにいる。ガラス戸の向こうの空は低いままだった。

 栞は作業台を借りた。店の奥にある、小さな台だった。普段は伝票を書いたり、札を作ったりする場所らしい。ペン立てには、黒のペン、赤のペン、細い筆ペン、カッター、定規が入っている。

 栞は自分のペンを出した。

 東京から持ってきたもの。書店で何度も使ってきたもの。

 小指の横に、いつものようにペン先の影が落ちる。

 売れる言葉なら、いくらでも出てきた。

 やさしい。軽やか。はじめての。瀬戸内。食卓。寄り添う。

 出てきた言葉を、ひとつずつ消した。

 平和記念公園の折り鶴を思い出す。

 海を思い出す。

 静江のいなり寿司を思い出す。

 厳が絞った布巾を思い出す。

 航平が空けていた棚の一角を思い出す。

 誰かに分かってほしいわけではなかった。分かったように言いたいわけでもなかった。

 ただ、手を伸ばす人が迷ったとき、そこに置ける言葉がほしかった。

 栞はペンを持ち直した。

<うまく言えない日にも、>

 そこまで書いて、止まる。

少し迷ってから、次の行へ進む。

<グラスを合わせることはできる。>

 もう一行。

<西条の水から生まれた、小さな便りです。>

 書き終えてから、しばらく眺めた。

 短い。

 売れるかどうかは分からない。目立つかどうかも分からない。

 けれど、さっきまでの言葉より、逃げなかった。

 航平が、少し離れたところから声をかけた。

「見ても?」

 栞はうなずいた。

 紙を渡す。

 航平は立ったまま読んだ。

 一度目は、たぶん文字を追った。

 二度目は、棚に置いたときのことを考えている顔だった。

「置けます」

 航平は言った。

 栞は、思わず聞き返した。

「置けます?」

「はい。棚に」

 航平は紙を軽く持ち上げた。

「これなら、瓶の横に置けます」

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 褒められたのとは、少し違う。

 売れそうだと言われたのとも違う。

 置ける。

 その言葉が、今は一番近かった。

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