置いといてもええ
「久住さんにも、見せます」
航平が言った。
栞は、はい、と答えた。
怖くないわけではなかった。でも、昨日ほどではなかった。
この言葉は、もし駄目だと言われても、どこが駄目なのか聞ける気がした。
紙の上から、すぐに逃げていかない気がした。
しばらくしたらお客さんが来て、栞はそれ以上長居せずに帰ることにした。
その頃には、雨が降り出していた。細い雨だった。
メモが濡れないよう、航平が小さく透明なファイルに入れてくれた。栞はそれを鞄にしまい、静江の自転車でゆっくり帰った。
雨は強くない。服の表面が少し湿る程度だった。
河本家の門を入ると、静江が勝手口から顔を出した。
「降ったじゃろ」
「少し」
「タオル出しとるけえ」
台所の椅子の背に、白いタオルが一枚かけられていた。
栞はそれで髪と肩を拭いた。タオルは少し硬くて、よく水を吸った。
鞄の中のファイルは濡れていなかった。栞はそれを確認してから、蔵の奥の部屋へ向かった。
厳と透馬は、もう来ていた。
航平は少し遅れて到着した。雨のせいで、シャツの肩が少し濡れている。
全員が揃ったところで、栞は透明なファイルから紙を出した。
手が少しだけ湿っていた。紙がふやけないよう、端だけを持つ。
「名前は」
栞は言った。
「水の便り、で考えました」
透馬は少し緊張した顔をしていた。
厳は何も言わない。
航平は、栞より一歩後ろに立っている。
「紹介文は、これです」
紙を渡す。
最初に透馬が読んだ。
目が一行ずつ動く。
昨日のように、すぐ明るい顔にはならなかった。
そのかわり、何度か読み返した。
「うまく言えない日にも」
透馬が小さく声に出した。
それから、厳へ紙を渡す。
厳は、紙を受け取るとすぐに読んだ。
一度だけだった。
前のときと同じように、長く眺めたりはしない。
栞は、指先を握っていた。
航平は少し離れたところに立っている。
透馬は黙って厳の顔を見ていた。
厳は紙をテーブルに置いた。
「これは」
そこで一度、言葉が切れた。
栞は息を止めた。
「置いといてもええ」
透馬が、分かりやすく息を吐いた。
航平は何も言わなかった。けれど、棚のどこに置くか、もう考えている顔だった。
栞は、紙を見た。
置いといてもええ。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥で何かが静かにほどけた。
雨の音が、屋根の上で少し強くなった。
蔵の中に、濡れた土の匂いが入ってくる。
透馬が、ようやく笑った。
「じゃあ、これでいこう」
その声には、まだ少し不安があった。
でも、決める人の声でもあった。
「水の便り」
透馬は、もう一度名前を言った。
「うん。これで」
厳は何も言わなかった。ただ、紙をもう一度見た。
栞には、それで十分だった。




