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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
水の便り

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31/35

棚に置く

 翌朝、酒舗まなべの棚には、まだ何も置かれていなかった。

 栞が店に着いたとき、航平は冷蔵ケースの前に膝をつき、木の札の位置を少しずつ動かしていた。

 入口のガラス戸を開けると、鈴が小さく鳴った。

「おはようございます」

 栞が声をかけると、航平は振り向いた。

「おはようございます。今日は早いですね」

「涼しい内に動いた方がいいって、叔母さんが」

「正しいです」

 航平は立ち上がり、手に持っていた札を栞に見せた。

 薄い木の札に、黒い字で「水の便り」と書かれている。

 その下に、栞の文章が三行。


 うまく言えない日にも、

 グラスを合わせることはできる。

 西条の水から生まれた、小さな便りです。


 手書きではなく、航平が印刷して貼ったものだった。

 けれど、字の大きさも、余白も、思っていたより静かだった。

 栞は札を受け取った。

 木の裏に、まだ少し糊の匂いが残っている。

「これでいいですか」

 航平が聞いた。

「はい」

「もっと目立たせることもできます」

「目立たない方がいいです」

「僕も、そう思います」

 航平はそう言って、札を棚に戻した。

 まだ瓶はない。瓶のない棚に、名前と文章だけが置かれている。

「瓶は、透馬さんが持ってきます」

「何時頃ですか」

「もう少ししたら。久住さんも来るそうです」

「久住さんも」

「心配なんだと思います」

「心配」

「たぶん」

 航平は冷蔵ケースの扉を開けた。

 冷気が白く流れ、すぐに見えなくなる。

「心配している顔には見えませんけど」

「そういう人ほど、心配してます」

 栞は、少しだけ笑った。

 航平は瓶の場所を少し空け直した。

 隣の酒のラベルが正面を向くように揃える。一本分ずらす。後ろの瓶も少し前へ出す。

 棚の中のものは、ほんの数センチ動くだけで見え方が変わった。

 本屋の平台も、そうだった。

 一冊を少し斜めに置く。帯が見えるように向きを変える。POPを右に置くか左に置くかで、手の伸び方が変わる。

 そういう小さなことを、栞はずっとしてきた。

 それを全部嫌いになったわけではない。

 そう思えたことに、少しだけ驚いた。

「川瀬さん」

 航平が言った。

「はい」

「今日、店にいてもらってもいいですか」

「え」

「無理ならいいんです。お客さんの反応、見たいかなと思って」

 栞は棚を見た。

 まだ瓶のない場所。そこに置かれる自分の言葉。それを読む人の横顔。

 想像しただけで、少し胃のあたりが固くなった。

「邪魔になりませんか」

「なりません。むしろ、いてもらった方が、透馬さんが落ち着くかもしれません」

「透馬さんが?」

「あの人、今日たぶん落ち着きないので」

 航平は真面目な顔で言った。

 その言い方が、少しおかしかった。

「真鍋さんも、落ち着いてるように見えますけど」

「見せてます」

「でしょうね」

「はい」

 航平は悪びれずにうなずいた。

 その素直さが、少しだけずるかった。

 店の外で車の音が止まった。ガラス戸の向こうに、透馬の車が見える。

 助手席から、紙箱が一つ下ろされた。

 続いて、厳が車の反対側から降りてきた。

 透馬より先に厳が店へ向かう。

 航平はガラス戸を開けた。

「おはようございます」

「おはよう」

 厳は短く返した。

 透馬は箱を抱えて、その後ろから入ってくる。

「おはようございます。真鍋くん、冷蔵、ここでええ?」

「はい。いったん台の上に」

「栞ちゃん、おはよう」

「おはようございます」

「早いね」

「叔母さんに、涼しいうちにって」

「ああ、言いそう」

 透馬は少し笑った。

 けれど、やはり落ち着きはなかった。箱を台に置く手が、いつもより少し早い。

 航平がカッターで丁寧にテープを切った。

 中から、小さな瓶が並んで現れる。透明な瓶だった。ラベルは淡い色で、派手ではない。白に近い薄い水色。そこに、「水の便り」と細い字で入っている。

 栞は、その瓶を見た。

 昨日まで言葉だけだったものが、急に手で持てる形になった。

 透馬が一本取り上げ、光の方へ少し傾けた。

「どう?」

 誰に聞いたのか分からない声だった。

 航平は瓶を受け取り、ラベルの位置を見た。

「棚には置きやすいです」

「また棚」

「大事なので」

 厳は黙って瓶を見ていた。表情は変わらない。けれど、指先でラベルの端を一度だけなぞった。

 栞はその動きを見た。

 厳が何を思っているのかは分からない。でも、手はきっと何かを確かめていた。

 航平が冷蔵ケースの扉を開ける。一本ずつ、瓶を並べる。

 透馬も手伝う。

 厳は少し離れて見ていた。

 栞は札を持って立っていた。

「川瀬さん」

 航平が言う。

「札、置いてもらえますか」

 栞は一瞬、手元を見た。自分が置くのかと思った。

 航平は、こちらを見ている。

 透馬も、何も言わずに待っている。

 厳は、相変わらず表情を変えない。

 栞は札を持ち直した。

 冷蔵ケースの横。瓶の隣。木の札を置く場所は、もう空けられていた。

 栞はそこに札を置いた。

 軽い音がした。たったそれだけだった。けれど、置いた瞬間、棚の中の空白が少しだけ閉じた。

 瓶があり、名前があり、言葉がある。全部が揃ったというほどではない。でも、そこに置いておける形にはなった。

 透馬が小さく息を吐いた。

「並んだね」

 航平が冷蔵ケースの扉を閉めた。

「並びました」

 厳は、少しだけ頷いた。それ以上、何も言わなかった。

 店の鈴が鳴ったのは、そのすぐ後だった。

 近所の男性客が入ってきた。

 航平は、いつもの顔に戻った。

「いらっしゃいませ」

 声が、店の中に自然に響く。

 栞は一歩下がった。邪魔にならない場所。棚とレジの間ではなく、店の奥、段ボールの脇。

 そこから、客が棚を見るのを見ていた。

 男性客はいつもの酒を買いに来たらしく、迷わず別の棚へ行った。

 航平が短く話す。

 男性客が何か言って笑う。

 水の便りの棚には、目をやらなかった。

 透馬がほんの少し肩を落としたのが分かった。

 航平は何も変わらない顔で会計をした。

 最初の客は、買わなかった。それだけだった。

 次に来たのは、観光客らしい二人組だった。

 若い女性が二人。片方は小さなバッグを肩から下げ、もう片方はスマートフォンで店内を撮っていいか航平に聞いた。

 航平は、他のお客さんが写らない範囲なら、と答えた。

 二人は冷蔵ケースを眺めた。

「これ、かわいい」

 ひとりが、水の便りの瓶を指さした。

 栞は、息を止めそうになった。

 かわいい。

 その言葉は、厳が嫌がりそうだと思った。

 でも厳は、何も言わなかった。少し離れた棚の前で、別の瓶を見ているふりをしていた。

「水の便りだって」

 もうひとりが札を読む。

 声に出して、ゆっくり。

「うまく言えない日にも、グラスを合わせることはできる」

 そこで、少しだけ黙った。

「これ、いいね」

「ね」

 二人は瓶を一本手に取った。

 航平が声をかける。

「こちら、今日から出ている小瓶です。軽めで、冷やして飲みやすいですよ」

「お土産にできますか」

「できます。袋、おつけします」

「じゃあ、一本」

 そのやり取りは、とても短かった。

 大げさな感動もない。深い話もない。ただ、札を読んで、瓶を手に取って、買うことにした。

 それだけだった。

 透馬は、表情を動かさないようにしているのが分かる顔をしていた。

 航平は、いつも通り紙袋へ瓶を入れた。

 厳はまだ別の棚を見ている。

 栞は、段ボールの脇に立ったまま、指先を握っていた。

 売れた。そう思うより先に、届いた、と思った。

 誰に、どこまで、何が。それは分からない。

 でも、あの札は、瓶より先に喋りすぎなかった。かといって、黙ったままでもなかった。

 手を伸ばす人の前に、少しだけ置かれていた。

 それで一本、手が伸びた。

 それだけだった。

 それだけで、十分な気がした。

 昼過ぎまでに、水の便りは何本か売れた。

 買わずに見る人もいた。札だけ読んで別の酒を買う人もいた。ラベルだけ見て通り過ぎる人もいた。

 年配の男性が、こういうのも出すんじゃね、と言った。航平は、はい、と答えた。

 厳はその横で、何も言わなかった。

 けれど、男性が昔からある酒を一本買っていったあと、厳は水の便りの棚の位置を少しだけ直した。札が、ほんの少し斜めになっていたらしい。

 栞はそれを見ていた。

 厳は気づかれていることに気づいたのか、こちらを見ないまま言った。

「曲がっとった」

「はい」

「置くなら、まっすぐ置け」

「はい」

 栞は返事をした。それだけで、胸の奥が少し温かくなった。

 夕方になると、店の中は少し静かになった。

 透馬は何度も売れた本数を数えようとして、航平にまだ途中です、と止められていた。

 静江から、少し遅れて行く、というメッセージが来た。いなり寿司持って行くけえ、場所空けといて。

 栞はそれを航平に見せた。

 航平はすぐにレジ前の台を見た。

「場所、空けます」

「仕事が早いですね」

「いなり寿司は大事なので」

「そこまでですか」

「静江さんの差し入れは、店の平和に関わります」

 栞は少し笑った。

 店の平和。その言葉が、この場所では妙に軽く、でも悪くなかった。

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