水で乾杯
閉店後の酒舗まなべは、昼間よりも少し広く見えた。
シャッターは半分だけ下りている。外から見れば、もう店は閉まっているのだと分かる。けれど内側には明かりが残り、冷蔵ケースの低い音が、途切れずに店の奥から聞こえていた。
レジ前の台には、静江の尾道いなりが並んでいた。弁当箱ではなく、大きめの皿に、少しずつ詰めてある。
形の整ったもの。少し口の開いたもの。端が濃く煮えているもの。
どれも同じではない。
「また作ったんですか」
栞が言うと、静江は当たり前の顔でうなずいた。
「人が集まるんじゃけえ、食べるもんがいるじゃろ」
透馬は段ボールをひっくり返して椅子代わりにしている。朝から動いていたせいか、少し疲れた顔をしていた。それでも、昼間より肩は軽そうだった。
厳は棚に近いところに立ったまま、出された皿に手を伸ばそうとしない。
航平はグラスを並べていた。酒器ではなく、店で試飲に使う小さなグラスだった。
「数、足ります?」
透馬が聞く。
「足ります。水の分もあります」
「水?」
透馬が顔を上げた。
「酒屋で水で乾杯するん?」
航平はグラスを一つ持ち上げた。
「和らぎ水は大事ですよ。それに仕込み水が悪かったら、酒も売れませんから」
厳が、そこで小さくうなずいた。たったそれだけで、透馬は黙った。
静江が笑い、栞も少しだけ笑った。
棚の一角には、「水の便り」が並んでいた。朝より何本か減っている。隣に置かれた木の札に、栞の言葉がある。
うまく言えない日にも、
グラスを合わせることはできる。
西条の水から生まれた、小さな便りです。
昼間、若い女の人がその札を読んで、一本手に取った。
それだけだった。それだけなのに、栞はしばらく動けなかった。
航平がグラスを配る。
透馬には「水の便り」を。
厳には、昔からある酒を。
静江には水と、ほんの少しだけ注いだ「水の便り」を。
栞の前には、水が入ったグラスが置かれた。
「栞ちゃんも、飲む?」
静江に聞かれて、栞は首を振った。
「最初は、水で」
「ええよ」
静江は何も聞かなかった。
全員の手に、何かが行き渡る。同じものではなかった。色も、匂いも、重さも違う。けれど、グラスの形だけは似ていた。
透馬が少し迷ったあと、言った。
「じゃあ、まあ」
うまい言葉を探している顔だった。
誰も急かさなかった。
「今日まで、ありがとうございました」
それだけだった。
グラスが上がる。かすかな音がした。乾杯というには、少し小さい音だった。
栞は水を飲んだ。
喉を通る。冷たくて、少し甘い気がした。水に甘いも何もないはずなのに、そう思った。
静江のいなり寿司を一つ取る。甘辛い油揚げの端が、指に触れた。
厳も、ようやく一つ手に取った。
それを見て、透馬が少し笑う。
「久住さん、いなり寿司食べるんですね」
「食べる」
「甘いの苦手そうなのに」
「甘いもんが嫌いとは言うとらん」
静江が、そうよねえ、と言った。
「久住さん、昔からよう食べるよ」
「静江さん」
厳の声が少し低くなった。
透馬が笑った。
航平も、グラスを片手に小さく笑っている。
栞は、その輪の端にいた。真ん中ではない。でも、外でもない。その距離がちょうどよかった。
水の便りの瓶が、冷蔵ケースの中で静かに並んでいる。
昔からある酒の瓶が、その隣で少し重そうに立っている。
新しいものと、古いもの。売るものと、守るもの。
言葉が置かれたものと、長い間、言葉をあまり必要としなかったもの。
同じ棚の中にある。
喧嘩していないのかどうかは、まだ分からない。けれど、今日のところは並んでいる。それで十分なのかもしれなかった。
透馬が水の便りを少し飲み、首を傾けた。
「やっぱり、もうちょっと酸を」
「今言うことじゃない」
厳が遮る。
「いや、次の話です」
「今日の酒を今日飲め」
「はい」
透馬は少しだけ背筋を伸ばした。
航平が、声を出さずに笑った。
静江は皿の端に寄っていたいなり寿司を、栞の方へ少し近づけた。
「食べんさい」
「食べてます」
「まだ一個じゃろ」
「見てたんですか」
「見とるだけよ。分かっとるわけじゃない」
昨日と同じような言い方だった。
栞は二つ目を取った。油揚げは少し冷めていた。海で食べたときより、甘さは強く感じなかった。
周りに人がいるからかもしれない。それとも、場所が違うからかもしれない。
味は同じようで、少しずつ変わる。
誰と食べるか。どこで食べるか。何を見たあとに食べるか。
それだけで、同じいなり寿司も違うものになる。言葉も、きっとそうなのだと思った。
同じ言葉でも、どこに置くかで変わる。誰に向けるかで変わる。何の隣に置くかで、軽くも、重くもなる。
栞はグラスの水をもう一口飲んだ。
閉店後の店の中に、冷蔵ケースの音と、誰かが皿を置く音と、小さな笑い声が重なっていた。
派手なことは何もなかった。誰かが劇的に分かり合ったわけでもない。透馬はたぶん明日も焦る。厳は明日も短く言う。航平は明日も店で笑う。静江は朝になれば何かを作る。栞は、東京へ帰る。
それでも、今ここでグラスが鳴った。その小さな音は、なかったことにはならない。
栞は、空になりかけた自分のグラスを見た。中身は、まだ酒ではなく水だった。
それでもよかった。むしろ、それがよかった。
川の向こうに、誰かがいるような気がした。
行けなかった修学旅行の日の自分。東京の部屋で洗濯かごをまたいだ朝の自分。折り鶴の前で手を合わせられなかった自分。海を見て、きれいだと思って泣いた自分。
どの自分も、こちらへ来なくていい。けれど、置いていかなくてもいい。
栞はもう一度、グラスを持った。中身は水だった。冷たさが、指に伝わる。
少し離れたところにいる航平と目が合った。航平が、小さくグラスを掲げる。
栞も、ほんの少しだけグラスを上げた。
音は鳴らなかった。距離があったから。でも、それでよかった。




