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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
川の向こうで乾杯を

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32/35

水で乾杯

 閉店後の酒舗まなべは、昼間よりも少し広く見えた。

 シャッターは半分だけ下りている。外から見れば、もう店は閉まっているのだと分かる。けれど内側には明かりが残り、冷蔵ケースの低い音が、途切れずに店の奥から聞こえていた。

 レジ前の台には、静江の尾道いなりが並んでいた。弁当箱ではなく、大きめの皿に、少しずつ詰めてある。

 形の整ったもの。少し口の開いたもの。端が濃く煮えているもの。

 どれも同じではない。

「また作ったんですか」

 栞が言うと、静江は当たり前の顔でうなずいた。

「人が集まるんじゃけえ、食べるもんがいるじゃろ」

 透馬は段ボールをひっくり返して椅子代わりにしている。朝から動いていたせいか、少し疲れた顔をしていた。それでも、昼間より肩は軽そうだった。

 厳は棚に近いところに立ったまま、出された皿に手を伸ばそうとしない。

 航平はグラスを並べていた。酒器ではなく、店で試飲に使う小さなグラスだった。

「数、足ります?」

 透馬が聞く。

「足ります。水の分もあります」

「水?」

 透馬が顔を上げた。

「酒屋で水で乾杯するん?」

 航平はグラスを一つ持ち上げた。

「和らぎ水は大事ですよ。それに仕込み水が悪かったら、酒も売れませんから」

 厳が、そこで小さくうなずいた。たったそれだけで、透馬は黙った。

 静江が笑い、栞も少しだけ笑った。

 棚の一角には、「水の便り」が並んでいた。朝より何本か減っている。隣に置かれた木の札に、栞の言葉がある。


 うまく言えない日にも、

 グラスを合わせることはできる。

 西条の水から生まれた、小さな便りです。


 昼間、若い女の人がその札を読んで、一本手に取った。

 それだけだった。それだけなのに、栞はしばらく動けなかった。

 航平がグラスを配る。

 透馬には「水の便り」を。

 厳には、昔からある酒を。

 静江には水と、ほんの少しだけ注いだ「水の便り」を。

 栞の前には、水が入ったグラスが置かれた。

「栞ちゃんも、飲む?」

 静江に聞かれて、栞は首を振った。

「最初は、水で」

「ええよ」

 静江は何も聞かなかった。

 全員の手に、何かが行き渡る。同じものではなかった。色も、匂いも、重さも違う。けれど、グラスの形だけは似ていた。

 透馬が少し迷ったあと、言った。

「じゃあ、まあ」

 うまい言葉を探している顔だった。

 誰も急かさなかった。

「今日まで、ありがとうございました」

 それだけだった。

 グラスが上がる。かすかな音がした。乾杯というには、少し小さい音だった。

 栞は水を飲んだ。

 喉を通る。冷たくて、少し甘い気がした。水に甘いも何もないはずなのに、そう思った。

 静江のいなり寿司を一つ取る。甘辛い油揚げの端が、指に触れた。

 厳も、ようやく一つ手に取った。

 それを見て、透馬が少し笑う。

「久住さん、いなり寿司食べるんですね」

「食べる」

「甘いの苦手そうなのに」

「甘いもんが嫌いとは言うとらん」

 静江が、そうよねえ、と言った。

「久住さん、昔からよう食べるよ」

「静江さん」

 厳の声が少し低くなった。

 透馬が笑った。

 航平も、グラスを片手に小さく笑っている。

 栞は、その輪の端にいた。真ん中ではない。でも、外でもない。その距離がちょうどよかった。

 水の便りの瓶が、冷蔵ケースの中で静かに並んでいる。

 昔からある酒の瓶が、その隣で少し重そうに立っている。

 新しいものと、古いもの。売るものと、守るもの。

 言葉が置かれたものと、長い間、言葉をあまり必要としなかったもの。

 同じ棚の中にある。

 喧嘩していないのかどうかは、まだ分からない。けれど、今日のところは並んでいる。それで十分なのかもしれなかった。

 透馬が水の便りを少し飲み、首を傾けた。

「やっぱり、もうちょっと酸を」

「今言うことじゃない」

 厳が遮る。

「いや、次の話です」

「今日の酒を今日飲め」

「はい」

 透馬は少しだけ背筋を伸ばした。

 航平が、声を出さずに笑った。

 静江は皿の端に寄っていたいなり寿司を、栞の方へ少し近づけた。

「食べんさい」

「食べてます」

「まだ一個じゃろ」

「見てたんですか」

「見とるだけよ。分かっとるわけじゃない」

 昨日と同じような言い方だった。

 栞は二つ目を取った。油揚げは少し冷めていた。海で食べたときより、甘さは強く感じなかった。

 周りに人がいるからかもしれない。それとも、場所が違うからかもしれない。

 味は同じようで、少しずつ変わる。

 誰と食べるか。どこで食べるか。何を見たあとに食べるか。

 それだけで、同じいなり寿司も違うものになる。言葉も、きっとそうなのだと思った。

 同じ言葉でも、どこに置くかで変わる。誰に向けるかで変わる。何の隣に置くかで、軽くも、重くもなる。

 栞はグラスの水をもう一口飲んだ。

 閉店後の店の中に、冷蔵ケースの音と、誰かが皿を置く音と、小さな笑い声が重なっていた。

 派手なことは何もなかった。誰かが劇的に分かり合ったわけでもない。透馬はたぶん明日も焦る。厳は明日も短く言う。航平は明日も店で笑う。静江は朝になれば何かを作る。栞は、東京へ帰る。

 それでも、今ここでグラスが鳴った。その小さな音は、なかったことにはならない。

 栞は、空になりかけた自分のグラスを見た。中身は、まだ酒ではなく水だった。

 それでもよかった。むしろ、それがよかった。

 川の向こうに、誰かがいるような気がした。

 行けなかった修学旅行の日の自分。東京の部屋で洗濯かごをまたいだ朝の自分。折り鶴の前で手を合わせられなかった自分。海を見て、きれいだと思って泣いた自分。

 どの自分も、こちらへ来なくていい。けれど、置いていかなくてもいい。

 栞はもう一度、グラスを持った。中身は水だった。冷たさが、指に伝わる。

 少し離れたところにいる航平と目が合った。航平が、小さくグラスを掲げる。

 栞も、ほんの少しだけグラスを上げた。

 音は鳴らなかった。距離があったから。でも、それでよかった。

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