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川の向こうで乾杯を  作者: 相坂トア
川の向こうで乾杯を

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33/35

残ったら明日に行くんよ

 片づけは、思っていたより早く終わった。

 グラスは小さい。皿も多くはない。

 いなり寿司はほとんど残らなかった。

 静江は、残った二つを小さな容器に移しながら、これは明日の朝ね、と言った。

「明日の朝もいなり寿司ですか」

 透馬が言うと、静江は容器の蓋を閉めながら答えた。

「残っとるもんから食べるんよ」

「それはそうですけど」

「新しい酒も、昔の酒も、残ったいなりも、残ったら明日に行くんよ」

 静江は何でもない顔で言った。

 透馬は少しだけ黙った。

 厳が、皿を一枚持って流しの方へ向かう。

 航平が慌てて受け取ろうとした。

「あ、いいです。置いといてください」

「洗うくらいできる」

「お客様に洗わせる店じゃないので」

「客じゃない」

 厳は短く言った。

 航平は一瞬だけ考えてから、ではお願いします、と言った。

 引くのがうまい。

 栞はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。

 前なら、そのうまさに疲れたかもしれない。今も、疲れないわけではない。けれど、それだけではなかった。

 航平がそうやって場を整えることで、この店は一日を終えられるのだろうと思った。

 透馬は、空いた瓶の数と、売れた本数をようやく数え終えたらしい。手元の紙に何かを書き込み、ふう、と息を吐いた。

「思ってたより出た」

「初日にしては、いいと思います」

 航平が言った。

「初日にしては、っていうのが怖いよね」

「明日も売ります」

「頼もしい」

「売るのが仕事なので」

 航平はいつもの調子で言った。けれど、その言葉は前ほど硬く聞こえなかった。

 栞は、冷蔵ケースの中を見た。

 水の便りは、朝より少し少ない。空いた場所がある。売れたから空いた場所。そこには、あとでまた補充されるのだろう。

 空白は、なくなるためだけにあるわけではない。何かが出ていったあと、また何かを入れられる場所でもある。

 そう思った。

 厳が洗い終えた皿を、水切りかごに置いた。静江がそれを布巾で拭く。

 透馬が段ボールの椅子を元へ戻す。

 航平がグラスを片づける。

 栞は、空いた紙皿を重ねた。紙皿の縁には、いなり寿司の油が少し染みている。指についたそれを、店にあった紙おしぼりで拭いた。

 完全には消えない。でも、それでよかった。

「栞ちゃん、明日何時に出るん」

 静江が聞いた。

「午前中の新幹線にします」

「もう取った?」

「まだです。帰ってから取ります」

「朝、広島の駅まで送るよ」

「大丈夫です」

「荷物あるじゃろ」

「そんなにないので」

「あるないじゃなくて、送るんよ」

 その言い方に、栞は返せなかった。

 静江はもう決めている顔だった。

 東京の母とは違う。似ているところもあるけれど、違う。

 静江は、理由を聞かないまま、必要なところに手を出す。

 その手の出し方が、栞にはまだ少し慣れない。けれど、嫌ではなかった。

 厳は、帰る前に水の便りの棚を一度見た。札の角を、指でほんの少し直す。

「まだ曲がってましたか」

 栞が聞くと、厳は短く答えた。

「少し」

「すみません」

「謝ることじゃない」

 それから、少し間を置いた。

「曲がったら直せばええ」

 栞は、厳を見た。

 厳はもうこちらを見ていなかった。

 棚を見ている。瓶と、札と、その隣にある昔からの酒を見ている。

「はい」

 栞は答えた。

 曲がったら直せばいい。

 静江も似たようなことを言っていた。

 謝らんでええ。直したらええだけ。

 洗濯物も、札も、言葉も。一度でまっすぐにならなくても、直すことはできる。

 直したあとも、また曲がるかもしれない。それでも、また手を伸ばせばいい。

 店を出るとき、透馬は何度も航平に礼を言った。航平は、そのたびに、こちらこそ、と返した。

 厳は何も言わずに車へ向かったが、乗る前に一度だけ振り返り、店の看板を見た。

 酒舗まなべ。

 その視線に、航平は気づいたかもしれない。けれど、何も言わなかった。

 静江は栞に、先に車乗っとるよ、と言って透馬たちの車ではなく、自分の車の方へ向かった。

 栞は店の前に残った。

 航平が、半分下ろしていたシャッターに手をかける。

「明日、帰るんですよね」

「はい」

「書店、戻るんですか」

「戻ります。たぶん」

「たぶん」

「辞めるかどうかは、帰ってから考えます」

「それがいいと思います」

 航平はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

「川瀬さんのPOP、しばらく置かせてもらいます」

「売れなかったら外してください」

「売れなくても、少し置きます」

「商売人として、それはどうなんですか」

「たまには、そういう棚があってもいいので」

 栞は笑った。

 今度は、無理にではなかった。

 夜の道は、少し湿っていた。雨はもう上がっている。店の前の道路に、小さな水たまりが残っていて、看板の明かりがそこに揺れている。

 遠くの方から、川の匂いがするような気がした。実際には、ただ濡れたアスファルトの匂いかもしれない。どちらでもよかった。

「真鍋さんのこと、最初ちょっと苦手でした」

 栞は言った。

 航平は、少しだけ眉を上げた。

「知ってます」

「知ってましたか」

 栞は続けた。

「今も、少し」

「それはどうも」

「でも、前よりは大丈夫です」

「それは、よかったです」

 航平は笑った。

 昼間の接客の笑顔とは少し違って見えた。けれど、どこが違うのかは、まだうまく言えなかった。うまく言えなくてもいいと思った。

「真鍋さんは」

「はい」

「嫌になっても、売るんですよね」

 航平は、シャッターの持ち手から手を離した。

「たぶん」

「たぶん」

「嫌になったら休む日もあります」

 栞は少し驚いた。

「休むんですか」

「休みます。店は開けますけど、僕の中のどこかを少し休ませる日があります」

「器用ですね」

「そうでもないです」

 航平は店内を振り返った。

 冷蔵ケースの音が、まだ外まで少し漏れている。

「休ませないと、売ることもできなくなるので」

 栞は、その言葉を聞いた。

 東京へ帰ったら、自分も何かを休ませられるだろうか。

 店は動く。新刊は来る。返本もある。客に怒られる日もある。フェアのPOPも書かなければならない。それでも、自分の中のどこかを少し休ませることはできるのだろうか。

 答えは、すぐには出なかった。

「明日、気をつけて」

 航平が言った。

「はい」

「また、広島に来ることがあれば」

 そこまで言って、航平は少し止まった。続きをきれいに整えようとしている顔だった。

 栞はそれを見て、少しだけ笑った。

「店に寄ります」

「ありがとうございます」

「水で乾杯しに」

「酒屋としては、次は酒もすすめたいです」

「考えておきます」

「それで十分です」

 その言葉に、栞はうなずいた。

 それで十分。何度も聞いた言葉だった。

 航平がシャッターを下ろす。金属の音が、夜の道にゆっくり降りた。最後に鍵をかける音がする。

 栞はそれを聞いてから、静江の車へ向かった。

 助手席に乗ると、静江がエンジンをかけた。

「話せた?」

「少し」

「そう」

「叔母さん、見てました?」

「見とるだけよ」

「分かってるわけじゃない?」

「そうそう」

 静江は笑いながら車を出した。

 夜の道を、ゆっくり進む。窓の外には、閉じた店の明かり、家の窓、街灯、水たまりが流れていく。

 栞は膝の上で手を重ねた。小指の横には、今日も薄くインクがついている。

消えきらない跡。持って帰るもの。


 家に着くと、静江は明日のために米を研ぐと言った。

「明日の朝もご飯ですか」

「そう。栞ちゃん、帰る前に食べんと」

「食べられるかな」

「食べられる分でええよ」

 静江は台所に立った。

 水を入れ、米を研ぐ。

 栞は横に立ち、何もせずにその音を聞いた。最初の日より、少し近くで聞いている気がした。

 水が白く濁る。静江はそれを捨てる。また水を入れる。

 同じことを繰り返す。変わらない作業。でも、同じではない水。

 栞は、明日の朝、自分がここを出ることを思った。

 東京の部屋。洗濯物。冷蔵庫。書店。平台。返本の箱。何も消えていない。消えていないのに、少しだけ遠くから見られる。

 それは、逃げたからかもしれない。来たからかもしれない。戻るからかもしれない。

 夜、二階の部屋で荷物を詰めた。

 できるだけ減らして持ってきた服は、来たときよりも少しきちんと畳まれている。

 静江が洗ってくれたものもあった。自分で畳んだタオルもあった。

 キャリーケースの隅に、読みかけの文庫本を入れる。

 結局、行きの新幹線で手に取って以来、触っていなかった。栞は、同じページに挟まったままだった。

 でも、それでいいと思った。読めなかった本は、また開けばいい。今日読めなかったからといって、終わりではない。

 栞はスマートフォンを開き、新幹線を予約した。

 広島から東京。午前十時台の便。窓側。

 決済完了の画面が出る。

 来たときと逆の道が、画面の中にできた。

 布団に入ってからも、すぐには眠れなかった。

 階下から、水の音はもうしない。静江も寝たのだろう。

 外では、どこか遠くを車が通る音がした。

 栞は目を閉じた。

 今日の乾杯の音が、耳の奥に残っている。小さな音だった。グラスとグラスが触れた、かすかな音。

 自分と航平のグラスは、距離があって鳴らなかった。それでもよかった。全部を鳴らさなくても、同じ場にあるものはある。

 栞は、そう思いながら眠った。

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