残ったら明日に行くんよ
片づけは、思っていたより早く終わった。
グラスは小さい。皿も多くはない。
いなり寿司はほとんど残らなかった。
静江は、残った二つを小さな容器に移しながら、これは明日の朝ね、と言った。
「明日の朝もいなり寿司ですか」
透馬が言うと、静江は容器の蓋を閉めながら答えた。
「残っとるもんから食べるんよ」
「それはそうですけど」
「新しい酒も、昔の酒も、残ったいなりも、残ったら明日に行くんよ」
静江は何でもない顔で言った。
透馬は少しだけ黙った。
厳が、皿を一枚持って流しの方へ向かう。
航平が慌てて受け取ろうとした。
「あ、いいです。置いといてください」
「洗うくらいできる」
「お客様に洗わせる店じゃないので」
「客じゃない」
厳は短く言った。
航平は一瞬だけ考えてから、ではお願いします、と言った。
引くのがうまい。
栞はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
前なら、そのうまさに疲れたかもしれない。今も、疲れないわけではない。けれど、それだけではなかった。
航平がそうやって場を整えることで、この店は一日を終えられるのだろうと思った。
透馬は、空いた瓶の数と、売れた本数をようやく数え終えたらしい。手元の紙に何かを書き込み、ふう、と息を吐いた。
「思ってたより出た」
「初日にしては、いいと思います」
航平が言った。
「初日にしては、っていうのが怖いよね」
「明日も売ります」
「頼もしい」
「売るのが仕事なので」
航平はいつもの調子で言った。けれど、その言葉は前ほど硬く聞こえなかった。
栞は、冷蔵ケースの中を見た。
水の便りは、朝より少し少ない。空いた場所がある。売れたから空いた場所。そこには、あとでまた補充されるのだろう。
空白は、なくなるためだけにあるわけではない。何かが出ていったあと、また何かを入れられる場所でもある。
そう思った。
厳が洗い終えた皿を、水切りかごに置いた。静江がそれを布巾で拭く。
透馬が段ボールの椅子を元へ戻す。
航平がグラスを片づける。
栞は、空いた紙皿を重ねた。紙皿の縁には、いなり寿司の油が少し染みている。指についたそれを、店にあった紙おしぼりで拭いた。
完全には消えない。でも、それでよかった。
「栞ちゃん、明日何時に出るん」
静江が聞いた。
「午前中の新幹線にします」
「もう取った?」
「まだです。帰ってから取ります」
「朝、広島の駅まで送るよ」
「大丈夫です」
「荷物あるじゃろ」
「そんなにないので」
「あるないじゃなくて、送るんよ」
その言い方に、栞は返せなかった。
静江はもう決めている顔だった。
東京の母とは違う。似ているところもあるけれど、違う。
静江は、理由を聞かないまま、必要なところに手を出す。
その手の出し方が、栞にはまだ少し慣れない。けれど、嫌ではなかった。
厳は、帰る前に水の便りの棚を一度見た。札の角を、指でほんの少し直す。
「まだ曲がってましたか」
栞が聞くと、厳は短く答えた。
「少し」
「すみません」
「謝ることじゃない」
それから、少し間を置いた。
「曲がったら直せばええ」
栞は、厳を見た。
厳はもうこちらを見ていなかった。
棚を見ている。瓶と、札と、その隣にある昔からの酒を見ている。
「はい」
栞は答えた。
曲がったら直せばいい。
静江も似たようなことを言っていた。
謝らんでええ。直したらええだけ。
洗濯物も、札も、言葉も。一度でまっすぐにならなくても、直すことはできる。
直したあとも、また曲がるかもしれない。それでも、また手を伸ばせばいい。
店を出るとき、透馬は何度も航平に礼を言った。航平は、そのたびに、こちらこそ、と返した。
厳は何も言わずに車へ向かったが、乗る前に一度だけ振り返り、店の看板を見た。
酒舗まなべ。
その視線に、航平は気づいたかもしれない。けれど、何も言わなかった。
静江は栞に、先に車乗っとるよ、と言って透馬たちの車ではなく、自分の車の方へ向かった。
栞は店の前に残った。
航平が、半分下ろしていたシャッターに手をかける。
「明日、帰るんですよね」
「はい」
「書店、戻るんですか」
「戻ります。たぶん」
「たぶん」
「辞めるかどうかは、帰ってから考えます」
「それがいいと思います」
航平はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「川瀬さんのPOP、しばらく置かせてもらいます」
「売れなかったら外してください」
「売れなくても、少し置きます」
「商売人として、それはどうなんですか」
「たまには、そういう棚があってもいいので」
栞は笑った。
今度は、無理にではなかった。
夜の道は、少し湿っていた。雨はもう上がっている。店の前の道路に、小さな水たまりが残っていて、看板の明かりがそこに揺れている。
遠くの方から、川の匂いがするような気がした。実際には、ただ濡れたアスファルトの匂いかもしれない。どちらでもよかった。
「真鍋さんのこと、最初ちょっと苦手でした」
栞は言った。
航平は、少しだけ眉を上げた。
「知ってます」
「知ってましたか」
栞は続けた。
「今も、少し」
「それはどうも」
「でも、前よりは大丈夫です」
「それは、よかったです」
航平は笑った。
昼間の接客の笑顔とは少し違って見えた。けれど、どこが違うのかは、まだうまく言えなかった。うまく言えなくてもいいと思った。
「真鍋さんは」
「はい」
「嫌になっても、売るんですよね」
航平は、シャッターの持ち手から手を離した。
「たぶん」
「たぶん」
「嫌になったら休む日もあります」
栞は少し驚いた。
「休むんですか」
「休みます。店は開けますけど、僕の中のどこかを少し休ませる日があります」
「器用ですね」
「そうでもないです」
航平は店内を振り返った。
冷蔵ケースの音が、まだ外まで少し漏れている。
「休ませないと、売ることもできなくなるので」
栞は、その言葉を聞いた。
東京へ帰ったら、自分も何かを休ませられるだろうか。
店は動く。新刊は来る。返本もある。客に怒られる日もある。フェアのPOPも書かなければならない。それでも、自分の中のどこかを少し休ませることはできるのだろうか。
答えは、すぐには出なかった。
「明日、気をつけて」
航平が言った。
「はい」
「また、広島に来ることがあれば」
そこまで言って、航平は少し止まった。続きをきれいに整えようとしている顔だった。
栞はそれを見て、少しだけ笑った。
「店に寄ります」
「ありがとうございます」
「水で乾杯しに」
「酒屋としては、次は酒もすすめたいです」
「考えておきます」
「それで十分です」
その言葉に、栞はうなずいた。
それで十分。何度も聞いた言葉だった。
航平がシャッターを下ろす。金属の音が、夜の道にゆっくり降りた。最後に鍵をかける音がする。
栞はそれを聞いてから、静江の車へ向かった。
助手席に乗ると、静江がエンジンをかけた。
「話せた?」
「少し」
「そう」
「叔母さん、見てました?」
「見とるだけよ」
「分かってるわけじゃない?」
「そうそう」
静江は笑いながら車を出した。
夜の道を、ゆっくり進む。窓の外には、閉じた店の明かり、家の窓、街灯、水たまりが流れていく。
栞は膝の上で手を重ねた。小指の横には、今日も薄くインクがついている。
消えきらない跡。持って帰るもの。
家に着くと、静江は明日のために米を研ぐと言った。
「明日の朝もご飯ですか」
「そう。栞ちゃん、帰る前に食べんと」
「食べられるかな」
「食べられる分でええよ」
静江は台所に立った。
水を入れ、米を研ぐ。
栞は横に立ち、何もせずにその音を聞いた。最初の日より、少し近くで聞いている気がした。
水が白く濁る。静江はそれを捨てる。また水を入れる。
同じことを繰り返す。変わらない作業。でも、同じではない水。
栞は、明日の朝、自分がここを出ることを思った。
東京の部屋。洗濯物。冷蔵庫。書店。平台。返本の箱。何も消えていない。消えていないのに、少しだけ遠くから見られる。
それは、逃げたからかもしれない。来たからかもしれない。戻るからかもしれない。
夜、二階の部屋で荷物を詰めた。
できるだけ減らして持ってきた服は、来たときよりも少しきちんと畳まれている。
静江が洗ってくれたものもあった。自分で畳んだタオルもあった。
キャリーケースの隅に、読みかけの文庫本を入れる。
結局、行きの新幹線で手に取って以来、触っていなかった。栞は、同じページに挟まったままだった。
でも、それでいいと思った。読めなかった本は、また開けばいい。今日読めなかったからといって、終わりではない。
栞はスマートフォンを開き、新幹線を予約した。
広島から東京。午前十時台の便。窓側。
決済完了の画面が出る。
来たときと逆の道が、画面の中にできた。
布団に入ってからも、すぐには眠れなかった。
階下から、水の音はもうしない。静江も寝たのだろう。
外では、どこか遠くを車が通る音がした。
栞は目を閉じた。
今日の乾杯の音が、耳の奥に残っている。小さな音だった。グラスとグラスが触れた、かすかな音。
自分と航平のグラスは、距離があって鳴らなかった。それでもよかった。全部を鳴らさなくても、同じ場にあるものはある。
栞は、そう思いながら眠った。




