行っておいで
翌朝、静江はやはり早く起きていた。
台所には、米の匂いがしている。テーブルには、おにぎりが二つ置かれていた。塩むすびと、梅らしい。
それから、小さな容器に、昨夜のいなり寿司が二つ。
「朝から多いです」
栞が言うと、静江は味噌汁をよそいながら答えた。
「食べられる分だけ食べんさい」
「はい」
最初の日と同じ言葉だった。
けれど、栞の受け取り方は少し違っていた。
食べられる分だけ。残したら、あとで食べる。包んで持っていく。それでいい。
栞は塩むすびを一つ食べた。
米の粒がほどける。指に少し塩がつく。
静江が濡れ布巾を寄せた。
それも、最初の日と同じだった。
栞は布巾で指を拭きながら、少し笑った。
「何」
静江が聞く。
「最初の日も、こうしてくれたなと思って」
「そうじゃった?」
「はい」
「覚えとらん」
静江は本当に覚えていない顔をしていた。
栞にとって残っていることが、静江にとってはいつもの動きだった。そのことが、少しだけうれしかった。
食べ終えると、静江は小さな包みを出した。白い手ぬぐいに包まれている。
「これ、帰ってから食べんさい」
中身を聞かなくても分かった。
「また、いなり寿司ですか」
「残りじゃないよ。新しく作った」
「いつの間に」
「朝」
「朝から?」
「朝は朝で時間があるんよ」
静江は何でもない顔で言った。
栞は包みを両手で受け取った。平和記念公園の日のお弁当より、小さい。でも、手の中にしっかり重さがある。
「ありがとうございます」
「こっちこそ」
「何がですか」
「来てくれて」
栞は包みを抱えたまま、少し黙った。
来ただけだった。本当に、それだけだった。
でも、静江はそれ以上何も言わなかった。
広島駅へ向かう車の中で、静江はラジオを小さく流していた。天気予報では、午後から晴れると言っている。
昨日の雨で、空気は少し澄んでいた。
道の途中、家々のベランダには洗濯物が出ていた。
白いタオル。誰かのシャツ。子どもの靴下。風が吹くたびに、布の端が少し持ち上がる。
東京の部屋には、洗濯物が残っている。
たぶん、帰ったらまず窓を開けるだろう。
洗剤はある。買った。タオルは洗った。次は、服を分ける。白いものと、色の濃いもの。ネットに入れるもの。
急がなくてもいい。全部を今日片づけられなくてもいい。
食べられる分だけ。畳める分だけ。書ける分だけ。
そう思うと、少しだけ呼吸がしやすかった。
駅に着くと、静江は車を駐車場に入れた。
「荷物、持つよ」
「大丈夫です」
「じゃあ、そこまで」
「そこって」
「改札の前」
栞は笑った。
「真鍋さんと同じこと言ってます」
「何それ」
「店の前まで送るって」
「航平くん、言いそう」
静江も笑った。
二人で改札の前まで歩く。静江が引くキャリーケースの車輪が、床の上で小さく鳴った。
栞は手ぬぐいの包みを大事に抱えていた。
改札の前で、静江が立ち止まって、キャリケースを栞に寄せた。
「気をつけて帰りんさい」
「はい」
「着いたら連絡して」
「はい」
「ご飯、食べんさいよ」
「はい」
「洗濯も、ためすぎんように」
栞は少しだけ眉を下げた。
「それは、努力します」
「努力くらいでええよ」
静江は言った。
栞は、何か言おうとした。
ありがとうございました。来てよかったです。また来ます。
いろいろな言葉が浮かんだ。
どれも間違ってはいない。けれど、全部をきれいに言うには少し足りなかった。
栞は、手元の包みを持ち直した。
「行ってきます」
そう言った。
静江は少しだけ目を細めた。
「行っておいで」
栞は改札を通った。
振り返ると、静江はまだそこにいた。手を大きく振るわけではない。ただ、見ている。
見とるだけよ。分かっとるわけじゃない。
栞は小さく頭を下げ、ホームへ向かった。
新幹線が来る。東京へ戻るための新幹線。
戻る。その言葉は、来たときより少しだけ軽かった。
ホームに立つと、風が吹いた。
抱えた手ぬぐいの包みから、かすかに甘辛い匂いがした。
持って帰る。
いなり寿司も。ペンの跡も。手を合わせられなかったことも。海をきれいだと思ったことも。小さな乾杯の音も。
全部をきれいに畳めるわけではない。端と端は、たぶんまた少しずれる。それでも、直せる。
新幹線が入ってきた。
栞は一歩前へ出る。
振り返らなかった。
昨日の夜、閉店後の酒舗まなべで鳴ったグラスの音は、頭の片隅で響いていた。




