持って帰ったもの
東京の部屋は、思っていたよりもそのままだった。
鍵を開ける前から、少しだけ覚悟していた。
閉めきった空気。残した洗濯物。冷蔵庫の中身。朝、慌てて出たままの靴。
どれも、栞が広島へ行っている間に勝手に片づくはずがない。
玄関の戸を開けると、部屋の匂いがした。紙と、埃と、少し湿った布の匂い。
東京の匂いだと思った。嫌な匂いではなかった。けれど、深く吸い込みたい匂いでもなかった。
「ただいま」
声に出してから、栞は少しだけ立ち止まった。
返事はない。当たり前だった。
靴を脱ぎ、キャリーケースを玄関脇に置く。
床には、洗濯かごに積まれた洗濯物と、たぶん洗ったはずの服の山があった。
行く前と同じ場所にある。少しも減っていない。増えてもいない。
栞は、それをまたいだ。またいでから、足を止めた。
振り返る。
小さな山。一枚ずつなら軽いもの。積もると動かせなくなるもの。
栞は手に持ったままの、手ぬぐいの包みを抱え直した。
静江のいなり寿司。
新幹線の中では開けなかった。
途中でお腹は空いたけれど、開けるならこの部屋で開けようと思った。
テーブルの上には、出かける前に置いたままの郵便物と、読みかけの文庫本と、折り畳んだ古いPOPがあった。
『今読むべき一冊』
あの日、捨てられなかった紙。
栞はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
テーブルの端を手で払う。郵便物をまとめる。文庫本を脇に寄せる。
POPは捨てなかった。ただ、文庫本の上に置いた。
それから、手ぬぐいをほどく。
いなり寿司は、小さな容器に三つ入っていた。
蓋を開けると、甘辛い匂いがした。
広島の台所の匂い。海辺のベンチの匂い。閉店後の酒舗まなべの匂い。
その全部が、東京の部屋の空気に少しだけ混じった。
栞は皿を出そうとして、食器棚を開けた。皿はあった。洗ってあるものも、あった。
それだけで少し安心した。
白い皿に、いなり寿司を三つ並べる。
形は少し崩れていた。新幹線の揺れで片側に寄ったのかもしれない。それでも、食べられないほどではない。
冷蔵庫を開ける。
いつ買ったのか思い出せないヨーグルトが、一つ残っていた。
栞は賞味期限を見た。
切れていた。それを手に取って、少し迷う。
捨てる。ゴミ袋に入れる。
それだけのことに、前ならしばらく時間がかかった。
今も少しかかった。けれど、捨てた。
冷蔵庫の中には、半分だけ残ったペットボトルの水がある。
それを取り出し、グラスに注ぐ。
透明な水。
水が悪かったら、酒も売れませんから。
航平の声が、少し遠くで聞こえた気がした。
栞はグラスをテーブルに置いた。
いなり寿司を一つ食べる。
冷たい。海で食べたものより、少し硬い。閉店後の店で食べたものより、甘さがはっきりしている。
それでも、おいしかった。
誰も見ていない部屋で、栞はゆっくり噛んだ。
食べ終えると、手を拭くものがほしくなった。
台所のタオルを見る。洗ったものかどうか分からない。
栞はそれを手に取って、匂いを確かめた。
使うのをやめて、洗濯かごへ入れる。
床の洗濯物の山から、タオルだけを選びはじめる。
白いもの。薄い灰色のもの。端がほつれたもの。
広島へ行く前、同じことをした。あのときは、ただ少しだけ減らすためだった。
今も、全部を片づけるためではなかった。まずは、残っているタオルだけ。
洗濯機の蓋を開ける。空だった。
そこにタオルを入れる。
洗剤はある。広島へ行く前に買った、一番小さい本体。
キャップを開けると、まだ新しい匂いがした。
水が溜まる音が始まる。東京の水の音だった。急いでいるようにも聞こえる。
けれど、今日は少しだけ違った。
蔵の水の音。静江が米を研ぐ音。手ぬぐいを絞る音。平和記念公園の川。海。
それらが、ほんの少しだけ重なって聞こえた。
栞は洗濯機の前に立ち、水が布へ吸われていくのを見た。
全部はできない。でも、これは回せる。
ボタンを押し終えると、部屋の窓を開けた。
外の空気が入ってくる。
東京の夕方だった。
車の音。遠くの電車の音。どこかの部屋から聞こえるテレビの音。
広島の夜とは違う。
それでも、空気は動いた。
カーテンが少し揺れる。
栞はテーブルへ戻った。残りのいなり寿司をもう一つ食べる。
最後の一つは、小さな容器に戻した。
あとで食べる。そう思って、冷蔵庫に入れた。
あとで食べるものがある。そのことが、少し不思議だった。
スマートフォンを開く。静江に、着きました、と送る。
少し迷ってから、もう一文足した。いなり寿司、ひとつ残して冷蔵庫に入れました。
返事はすぐに来た。
明日食べんさい。それだけだった。
栞は、はい、と返した。
次に、職場のグループチャットを開いた。通知は思っていたほど多くなかった。
フェア棚の写真。客注の確認。来週のシフト。
栞は一つずつ見た。急ぎのものはない。
明日、店へ行けばいい。
明日、また棚を見る。返本もあるだろう。客に怒られることもあるかもしれない。店長に、若い人向けに刺さる感じで、と言われるかもしれない。それで、また少し嫌になるかもしれない。それでも、今は一枚だけ紙を出せる気がした。
栞は鞄からメモ帳を取り出した。東京から持って行って、広島でも使ったメモ帳。
水の便りの言葉を書いたページの次を開く。
白い紙。何もない。
そこに、店長に見せるためではない言葉を一行だけ書いた。
まだうまく言えない人のための棚。
広島へ行く前、同じ言葉を書いて、すぐに線を引いた。
今も、フェア名には向かないかもしれないと思っている。売れるかどうかも分からない。
でも、すぐには消さなかった。
その下に、もう一行書く。
言葉になる前の場所を、少しだけ空けてあります。
書いてから、栞は首を傾げた。
まだ違う。たぶん、このままでは置けない。でも、悪くはなかった。
うまいこと書いてあるだけではない気がした。
栞はペンを置いた。
小指の横に、また黒い跡がついている。
それを見て、少しだけ笑った。
洗濯機の音が続いている。
水が回る。
布が沈む。
また浮く。
窓の外から、夕方の風が入ってくる。
テーブルの上には、グラスの水と、白い皿と、古いPOPと、新しいメモがある。
全部がきれいに片づいているわけではない。部屋の床には、まだ服が残っている。冷蔵庫には、明日のいなり寿司が一つある。
明日、書店へ行く。
栞は、そう思った。
行けるかどうかではなく、行く。嫌になったら、少し休ませるところを探す。曲がったら、直す。食べられる分だけ食べる。畳める分だけ畳む。書ける分だけ書く。
それで十分だと言い切るには、まだ少し怖かった。けれど、十分に近い場所なら知っている。
西条の朝。海辺のベンチ。閉店後の酒舗まなべ。
東京のこの部屋にも、もしかしたら作れる。
洗濯機が、すすぎに変わった。音が少し変わる。
栞は窓の外を見た。
向かいのマンションのベランダに、白いタオルが一枚干されている。風で、端が少しだけ持ち上がった。
グラスが鳴った音を、まだ覚えている。小さな音だった。でも、ちゃんと届いた。
栞はグラスの水を飲んだ。冷たくはなかった。少しだけ、甘い気がした。
―了―
ありがとうございました。




